
3分で簡単「高橋是清」なぜ二・二六事件の標的に?生い立ちや総理・大蔵大臣としての実績などを歴史好きライターがわかりやすく解説
日銀総裁から大蔵大臣へ
1905(明治38)年、高橋是清は貴族院議員に勅撰されました。貴族院議員に選挙はなく、国家に勲労があるか学識ある30歳以上の男子の中から、内閣の進言により天皇が任命する形となります。また、公債募集の勲功が認められ、1907(明治40)年には男爵位が贈られました(現在は廃止)。
その間にも、日銀副総裁を務めながら横浜正金銀行頭取を兼任した高橋。1911(明治44)年には、ついに日本銀行の総裁に就任します。さらに1913(大正2)年には山本権兵衛内閣の大蔵大臣(現在の財務大臣)となり、政治家としても活動を始めました。
期せずして総理大臣となった高橋是清

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日銀総裁から政治家へと転身した高橋是清。のちに総理大臣となりますが、内閣は半年余りで倒れてしまいます。一体何があったのでしょうか。
原敬の暗殺
山本内閣に大蔵大臣として入閣したことにより、政治家の道を歩み始めた高橋是清。それと同時に、立憲政友会に入党しました。その立憲政友会は大正デモクラシーの波に乗り、この頃から党の勢いを増していきます。そして、1918(大正7)年に原敬が総理となり、憲政史上初の政党政治が実現しました。
原内閣にも、高橋は2度目の大蔵大臣として入閣。しかし、1921(大正10)年、原に悲劇が訪れます。大阪に向かうため東京駅にいた原を暴漢が襲撃。原は刺され、命を落としました。
半年で終わった高橋是清内閣
原敬の暗殺により空位となった内閣総理大臣の座。その後任に選ばれたのは高橋是清でした。日銀総裁や大蔵大臣として、財政に辣腕を振るったことが評価されました。立憲政友会の総裁にも同時に就任しています。
しかし、予期せぬタイミングで総理となったため、党内での基盤を固められずにいました。その頃、立憲政友会は原の逝去により混乱し、内部対立が表面化するようになったのです。党をまとめ切れない高橋は、内閣改造なども身内の反対で実行できなくなります。内閣運営に行き詰まった高橋は、半年余りで内閣総辞職に追い込まれました。
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