今回は、二・二六事件で犠牲となった、第20代内閣総理大臣の高橋是清について学んでいこう。

高橋の生涯を知ることで、明治から昭和初期の日本における政治や経済の移り変わりを知れるはずです。

二・二六事件で高橋是清が標的となった理由に、彼の生い立ちや政治家としての実績などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

趣味はスポーツ観戦や神社仏閣巡りなどと多彩。幅広い知識を駆使して様々なジャンルに対応できるwebライターとして活動中。

波乱万丈だった若い頃の高橋是清

image by iStockphoto

まずは高橋是清の、生まれてから若い頃までを見ていきましょう。

アメリカで奴隷となる

1854年(嘉永7)年、幕府御用絵師であった川村庄右衛門の子として高橋是清は生まれます。しかし、生後まもなくして仙台藩の足軽・高橋覚治の養子となりました。その後、高橋はヘボン塾で英語を学び、後のアメリカ留学などへとつながります。ヘボンとは、現在でも使われているヘボン式ローマ字でも有名な人物です。

しかし、高橋はアメリカ留学を前に学費を着服されるなどで苦労しました。さらには、留学したホームステイ先で奴隷同然の扱いを受けています。しかし、これも留学の一環だとして高橋は耐え続けました。この1年間の努力が、のちの高橋にとって大きな武器となります。

ペルーの銀山で騙される

帰国後の高橋は、英語教師として活躍。教え子には俳人の正岡子規などがいたそうです。その後高橋は、文部省や農商務省の官僚となります。特に農商務省時代には初代特許局の局長に就任し、日本の特許制度を整備しました。

そんな高橋に、ペルーの銀山事業をやってほしいとの依頼が来ます。高橋は快諾し、官僚としての仕事を中断してまでペルーへ。しかし、ペルーの銀山はすでに廃坑となっていました。もちろん事業は失敗で、それにより高橋は、仕事も家も失ってしまう有様でした。

高橋是清がホームレスから大臣になるまで

image by iStockphoto

一時はホームレスになった高橋是清ですが、そこから総理大臣にまで昇り詰めます。その過程を見てみましょう。

日本銀行に入行し頭角を現す

1892(明治25年)に帰国した高橋是清は無一文になりますが、伝を頼った結果、日本銀行に入行できました。その才能がすぐに認められた高橋は、翌年には早くも九州を統括する西部支店の初代店長に抜擢。1899(明治32)年には日銀副総裁にまで昇進します。

日露戦争の際には自らイギリスまで渡航。戦費の調達のため交渉に動き回りました。海外の投資家らが貸し渋る可能性は濃かったのですが、高橋は彼らを説得して公募募集に成功。戦費を確保し、そのことは日本にとって日露戦争の助けとなりました。

\次のページで「日銀総裁から大蔵大臣へ」を解説!/

日銀総裁から大蔵大臣へ

1905(明治38)年、高橋是清は貴族院議員に勅撰されました。貴族院議員に選挙はなく、国家に勲労があるか学識ある30歳以上の男子の中から、内閣の進言により天皇が任命する形となります。また、公債募集の勲功が認められ、1907(明治40)年には男爵位が贈られました(現在は廃止)。

その間にも、日銀副総裁を務めながら横浜正金銀行頭取を兼任した高橋。1911(明治44)年には、ついに日本銀行の総裁に就任します。さらに1913(大正2)年には山本権兵衛内閣の大蔵大臣(現在の財務大臣)となり、政治家としても活動を始めました。

期せずして総理大臣となった高橋是清

image by iStockphoto

日銀総裁から政治家へと転身した高橋是清。のちに総理大臣となりますが、内閣は半年余りで倒れてしまいます。一体何があったのでしょうか。

原敬の暗殺

山本内閣に大蔵大臣として入閣したことにより、政治家の道を歩み始めた高橋是清。それと同時に、立憲政友会に入党しました。その立憲政友会は大正デモクラシーの波に乗り、この頃から党の勢いを増していきます。そして、1918(大正7)年に原敬が総理となり、憲政史上初の政党政治が実現しました。

原内閣にも、高橋は2度目の大蔵大臣として入閣。しかし、1921(大正10)年、原に悲劇が訪れます。大阪に向かうため東京駅にいた原を暴漢が襲撃。原は刺され、命を落としました。

半年で終わった高橋是清内閣

原敬の暗殺により空位となった内閣総理大臣の座。その後任に選ばれたのは高橋是清でした。日銀総裁や大蔵大臣として、財政に辣腕を振るったことが評価されました。立憲政友会の総裁にも同時に就任しています。

しかし、予期せぬタイミングで総理となったため、党内での基盤を固められずにいました。その頃、立憲政友会は原の逝去により混乱し、内部対立が表面化するようになったのです。党をまとめ切れない高橋は、内閣改造なども身内の反対で実行できなくなります。内閣運営に行き詰まった高橋は、半年余りで内閣総辞職に追い込まれました。

\次のページで「大蔵大臣として手腕を発揮した高橋是清」を解説!/

大蔵大臣として手腕を発揮した高橋是清

image by iStockphoto

高橋是清は総理大臣として活躍できませんでしたが、財政のスペシャリストとして大いに手腕を発揮します。ここからは、総理を辞した後の高橋是清について見ていきましょう。

第二次護憲運動の後政界引退

高橋是清の総理辞任後も、立憲政友会の内紛は収まりませんでした。総裁の座に留まる高橋を交代させようという動きが立憲政友会内で起こったのです。立憲政友会から分裂した政友本党が、清浦奎吾内閣の支持に回りました。が、清浦内閣は世間に歓迎されていませんでした。

というのも、高橋の後に総理となった加藤友三郎山本権兵衛(2度目)は海軍出身、清浦は枢密院議長から転身しました。つまり、当時は政党政治から遠ざかった状態だったのです。その状況で清浦内閣を打倒しようと第二次護憲運動が起こり、総選挙で立憲政友会など護憲三派が圧勝。第一党となった憲政会総裁の加藤高明が首相となり、代わりに高橋は政界を引退しました。

昭和金融恐慌を解決するために復帰

立憲政友会の総裁を田中義一に託して引退した高橋是清ですが、1927(昭和2)年、のちに総理大臣となった田中義一に請われて大蔵大臣として復帰します。昭和金融恐慌からの財政建て直しを託されたからです。第一次世界大戦後の景気変動や、関東大震災からの復興などにより、当時の日本経済は疲弊していました。

高橋は日銀と結託し、まず支払猶予(モラトリアム)を発令。さらには手続きに要する2日間を全国の銀行休業日としたのです。その間に、片面だけ印刷した200円札を急遽大量に発行して、これを銀行に積み上げることで預金があることをアピールさせました。それらの方策が実り、無事日本を金融不安から脱却させました。

大蔵大臣に7度就任

その後もさまざまな内閣で大蔵大臣を歴任した高橋是清。犬養毅内閣などでは、世界恐慌による混乱に対処しました。政府予算を大幅に増額させ、公共事業を大量に発注し、内需拡大を図ります。その結果、世界では早いほうの段階で、日本はデフレから脱出できました。

その後はインフレーション対策にも尽力した高橋。財政の信頼維持を目的として、予算の削減を実行しました。生涯で高橋は、総理との兼任も含めると、実に7度も大蔵大臣に就任したことになります。総理大臣経験者が何度も大臣として入閣するのも珍しいケースです。

二・二六事件の犠牲となった高橋是清

image by iStockphoto

大蔵大臣として数々の業績を挙げた高橋是清ですが、その最期は理不尽な形で訪れます。ここでは、彼が犠牲となった二・二六事件について見ていきましょう。

二・二六事件が起きた背景は?

当時の陸軍には、皇道派と呼ばれる青年将校の一派がありました。天皇の下で国家改造を目指すという思想に影響された者たちです。実際その時代には、クーデター未遂といえる事件が多発しました。海軍の青年将校らが暴走して犬養毅首相が犠牲となった五・一五事件や、陸軍の中堅幹部による三月事件十月事件などがそれに当たります。

しかし、統制派と呼ばれる軍内部の規律を重視した一派にとって、彼らの存在は目障りでした。皇道派を危険視していたのです。そこで、統制派である軍の首脳は、皇道派の動きを封じるために満州へ派兵することを決めました。それを不服とし、皇道派の青年将校たちは二・二六事件という実力行使に出たのです。

\次のページで「なぜ高橋是清が襲撃の対象となったのか?」を解説!/

なぜ高橋是清が襲撃の対象となったのか?

皇道派の青年将校ら一派は、元老や軍閥などが国体を破壊する元凶だと決めつけた上で襲撃対象としました。まずは当時の総理大臣だった岡田啓介が標的に。斎藤実内大臣や侍従長の鈴木貫太郎など、天皇に近い役職の者も標的とされました。元老の西園寺公望も標的の候補でしたが、結局実行には至りませんでした。

高橋是清は、当時岡田内閣の大蔵大臣でした。インフレ対策として国家予算の削減に取り組み、その一環で陸軍の予算削減にも着手したのです。そのことが皇道派の反感を買い、二・二六事件の標的になったとされます。

早朝の凶行

1936(昭和11)年2月26日の早朝、皇道派の青年将校たちは首相官邸や警視庁などをほぼ同時に襲撃しました。日本の中枢といえる永田町や霞ヶ関の一角も占領しています。岡田総理は危うく難を逃れましたが、斎藤実内大臣や渡辺錠太郎教育総監などが死亡。高橋是清も自宅で銃撃されて亡くなりました。

皇道派たちは天皇による国家改造を目指していましたが、頼みとしていた大臣を殺害された昭和天皇は激怒。岡田が存命だったこともあり、事態を収拾させようとする動きが一気に早まります。結局襲撃犯らは、軍の説得に折れて次々と投降。大きな武力衝突もなく、二・二六事件は早い段階で沈静化しました。

高橋是清を失った後の日本

image by iStockphoto

二・二六事件で高橋是清は命を落としました。果たしてその後の日本は、どのような道を歩んでいったのでしょうか。

実行犯に極刑が言い渡される

二・二六事件の裁判は、軍法会議を特設する形で行われました。実行犯となった17人に死刑が言い渡されるまで、要した時間はわずか2ヶ月。それから1週間で処刑が実行されるという異例の早さでした。民間人からも、皇道派の思想を形付けた責任は重いとして、思想家の北一輝らに死刑判決が言い渡されています。

皇道派の暴走を、統制派は上手に利用しました。皇道派を粛清し、人事を統制派で固めてしまったのです。何も知らされずにただ上官に従って襲撃に参加した者もいましたが、彼らも粛清の対象となりました。

軍部が先鋭化し太平洋戦争へ

陸軍統制派は陸軍内で主導権を握っただけでなく、政治にも介入するようになります。総辞職した岡田内閣の後継人事に干渉し、自由主義的思想を持つ者が入閣しないよう強く迫りました。「軍部に逆らうと殺される」などという風潮が広まり、総理になりたがる者がいなかったようです。

また、軍部大臣現役武官制を復活させて陸軍・海軍大臣の就任資格を現役軍人に限定したことにより、軍の意向が内閣に反映されるようになりました。やがて、満蒙問題解決のため中国との交戦やむなしの論調が広がります。そして、二・二六事件の翌年である1937(昭和12)年に、盧溝橋事件で中国と武力衝突。その後日本は太平洋戦争へと足を踏み入れます。

高橋是清を失った日本は軍事色を強めていった

総理大臣経験者として知られる高橋是清ですが、特に大蔵大臣として手腕を大いに発揮し、日本経済の難局を幾度も乗り越えてみせました。しかし、軍事費削減などに異を唱えた陸軍の一部が暴走し、二・二六事件という凶行を引き起こしたのです。事件後の日本は戦時体制へと突入し、不幸な時代を迎えました。

" /> 3分で簡単「高橋是清」なぜ二・二六事件の標的に?生い立ちや総理・大蔵大臣としての実績などを歴史好きライターがわかりやすく解説 – Study-Z
現代社会

3分で簡単「高橋是清」なぜ二・二六事件の標的に?生い立ちや総理・大蔵大臣としての実績などを歴史好きライターがわかりやすく解説

今回は、二・二六事件で犠牲となった、第20代内閣総理大臣の高橋是清について学んでいこう。

高橋の生涯を知ることで、明治から昭和初期の日本における政治や経済の移り変わりを知れるはずです。

二・二六事件で高橋是清が標的となった理由に、彼の生い立ちや政治家としての実績などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

趣味はスポーツ観戦や神社仏閣巡りなどと多彩。幅広い知識を駆使して様々なジャンルに対応できるwebライターとして活動中。

波乱万丈だった若い頃の高橋是清

image by iStockphoto

まずは高橋是清の、生まれてから若い頃までを見ていきましょう。

アメリカで奴隷となる

1854年(嘉永7)年、幕府御用絵師であった川村庄右衛門の子として高橋是清は生まれます。しかし、生後まもなくして仙台藩の足軽・高橋覚治の養子となりました。その後、高橋はヘボン塾で英語を学び、後のアメリカ留学などへとつながります。ヘボンとは、現在でも使われているヘボン式ローマ字でも有名な人物です。

しかし、高橋はアメリカ留学を前に学費を着服されるなどで苦労しました。さらには、留学したホームステイ先で奴隷同然の扱いを受けています。しかし、これも留学の一環だとして高橋は耐え続けました。この1年間の努力が、のちの高橋にとって大きな武器となります。

ペルーの銀山で騙される

帰国後の高橋は、英語教師として活躍。教え子には俳人の正岡子規などがいたそうです。その後高橋は、文部省や農商務省の官僚となります。特に農商務省時代には初代特許局の局長に就任し、日本の特許制度を整備しました。

そんな高橋に、ペルーの銀山事業をやってほしいとの依頼が来ます。高橋は快諾し、官僚としての仕事を中断してまでペルーへ。しかし、ペルーの銀山はすでに廃坑となっていました。もちろん事業は失敗で、それにより高橋は、仕事も家も失ってしまう有様でした。

高橋是清がホームレスから大臣になるまで

image by iStockphoto

一時はホームレスになった高橋是清ですが、そこから総理大臣にまで昇り詰めます。その過程を見てみましょう。

日本銀行に入行し頭角を現す

1892(明治25年)に帰国した高橋是清は無一文になりますが、伝を頼った結果、日本銀行に入行できました。その才能がすぐに認められた高橋は、翌年には早くも九州を統括する西部支店の初代店長に抜擢。1899(明治32)年には日銀副総裁にまで昇進します。

日露戦争の際には自らイギリスまで渡航。戦費の調達のため交渉に動き回りました。海外の投資家らが貸し渋る可能性は濃かったのですが、高橋は彼らを説得して公募募集に成功。戦費を確保し、そのことは日本にとって日露戦争の助けとなりました。

\次のページで「日銀総裁から大蔵大臣へ」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: