
3分で簡単「高橋是清」なぜ二・二六事件の標的に?生い立ちや総理・大蔵大臣としての実績などを歴史好きライターがわかりやすく解説
高橋の生涯を知ることで、明治から昭和初期の日本における政治や経済の移り変わりを知れるはずです。
二・二六事件で高橋是清が標的となった理由に、彼の生い立ちや政治家としての実績などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。
- 波乱万丈だった若い頃の高橋是清
- アメリカで奴隷となる
- ペルーの銀山で騙される
- 高橋是清がホームレスから大臣になるまで
- 日本銀行に入行し頭角を現す
- 日銀総裁から大蔵大臣へ
- 期せずして総理大臣となった高橋是清
- 原敬の暗殺
- 半年で終わった高橋是清内閣
- 大蔵大臣として手腕を発揮した高橋是清
- 第二次護憲運動の後政界引退
- 昭和金融恐慌を解決するために復帰
- 大蔵大臣に7度就任
- 二・二六事件の犠牲となった高橋是清
- 二・二六事件が起きた背景は?
- なぜ高橋是清が襲撃の対象となったのか?
- 早朝の凶行
- 高橋是清を失った後の日本
- 実行犯に極刑が言い渡される
- 軍部が先鋭化し太平洋戦争へ
- 高橋是清を失った日本は軍事色を強めていった
この記事の目次

ライター/タケル
趣味はスポーツ観戦や神社仏閣巡りなどと多彩。幅広い知識を駆使して様々なジャンルに対応できるwebライターとして活動中。
アメリカで奴隷となる
1854年(嘉永7)年、幕府御用絵師であった川村庄右衛門の子として高橋是清は生まれます。しかし、生後まもなくして仙台藩の足軽・高橋覚治の養子となりました。その後、高橋はヘボン塾で英語を学び、後のアメリカ留学などへとつながります。ヘボンとは、現在でも使われているヘボン式ローマ字でも有名な人物です。
しかし、高橋はアメリカ留学を前に学費を着服されるなどで苦労しました。さらには、留学したホームステイ先で奴隷同然の扱いを受けています。しかし、これも留学の一環だとして高橋は耐え続けました。この1年間の努力が、のちの高橋にとって大きな武器となります。
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ペルーの銀山で騙される
帰国後の高橋は、英語教師として活躍。教え子には俳人の正岡子規などがいたそうです。その後高橋は、文部省や農商務省の官僚となります。特に農商務省時代には初代特許局の局長に就任し、日本の特許制度を整備しました。
そんな高橋に、ペルーの銀山事業をやってほしいとの依頼が来ます。高橋は快諾し、官僚としての仕事を中断してまでペルーへ。しかし、ペルーの銀山はすでに廃坑となっていました。もちろん事業は失敗で、それにより高橋は、仕事も家も失ってしまう有様でした。
日本銀行に入行し頭角を現す
1892(明治25年)に帰国した高橋是清は無一文になりますが、伝を頼った結果、日本銀行に入行できました。その才能がすぐに認められた高橋は、翌年には早くも九州を統括する西部支店の初代店長に抜擢。1899(明治32)年には日銀副総裁にまで昇進します。
日露戦争の際には自らイギリスまで渡航。戦費の調達のため交渉に動き回りました。海外の投資家らが貸し渋る可能性は濃かったのですが、高橋は彼らを説得して公募募集に成功。戦費を確保し、そのことは日本にとって日露戦争の助けとなりました。
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