保元物語は鎌倉時代の初期に生まれた軍記物語。平安時代から鎌倉時代への転換をもたらした保元物語をテーマとしている。ここでフォーカスを当てられているのは敗者たちです。

保元物語は一体なにを描きたかったのでしょうか。隠されたメッセージについて、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回のテーマは保元物語。複雑で難解なストーリーの読解にチャレンジしてみた。

保元物語とはどんな作品?

保元・平治の乱合戦図屏風絵
不明 - 『保元・平治の乱合戦図屏風』 メトロポリタン美術館所蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

保元物語(ほうげんものがたり)の作者は不詳。鎌倉時代前期の承久2年(1220)年以降に成立したと推定されます。ジャンルとしては軍記物語。内容は3巻にわたります。崇徳院と後白河法皇との皇位継承争いと藤原摂関家の跡継ぎをめぐる争いの二つが重なり、これに源氏・平氏の武士が(いわゆる源平)が加わって内乱が勃発。この合戦が「保元の乱」と呼ばれ、その経緯やエピソードを記したのが保元物語です。

保元物語の背景にあるのは貴族の衰退

この物語は平家物語とともに琵琶法師によって語り広められました。平安末期に貴族政治は衰退。天皇家内部の争いが続発します。これに源氏と平氏の武者たちが加わり、いくつもの内乱が起こりました。この源平争乱から「保元物語」「平治物語」「平家物語」「承久記」などの戦記が生れます。

これらの戦乱が起こったのは、朝廷内の皇位継承争いがとても激しかった時代。現役の天皇が実権を握るのではなく、上皇と呼ばれるリタイアした元天皇が権力を握っていました。これが「院政」。上皇は自分の息子や孫を天皇に継がせなければなりません。でも、親子であっても仲が悪かったり、兄弟でも母親が違ったりするので、争いは絶えませんでした。

保元物語の文体は和漢混交文。和文と漢文、七語調や俗語が入り混じっている文体が特徴的です。これは、「保元物語」「平治物語」「平家物語」「承久記」の4つの軍記物語に共通するもの。最初に成立したのが保元物語。この4つの物語は一続きとして理解してもいいでしょう。

身内の対立と憎悪を描く保元物語

天皇家の父子の対立、それに加担した武士たちの親子兄弟、身内同士が敵味方に分かれ、殺しあう悲劇が保元物語のテーマです。崇徳天皇は父である鳥羽上皇に不倫の子と疑われ、憎まれていました。そのため、積年の恨みがありました。母違いの弟が天皇(後白河天皇)になったため、崇徳が皇位を奪還しようと起こしたのが保元の乱です。そもそも、保元物語では親子の悲劇として描かれました。

皇室内の争いには、後白河の側近の僧侶信西(藤原通憲・ふじわらのみちのり)が暗躍。あることないこと後白河に吹き込み、戦を巻き起こしました。また藤原家も跡継ぎをめぐって内輪もめ。崇徳側に付いた藤原頼長は、武士たちの意見を聞く耳もなく、負け戦に持ち込みました。一方、跡継ぎ争いをした藤原忠通は後白河側に。皇室と藤原家に利用された源平の武士たちは、身内同士で殺しあいました。

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保元物語が世のなかに与えた衝撃

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保元物語は時代の大きな変化をあらわしています。300年以上実施されなかった死刑が復活。敗者崇徳側に付いた武士たちは、ことごとく首を斬られました。親子兄弟身内同士が敵味方に分かれたため、息子が父を、甥が叔父の首を斬ることも。この悲惨な結末は、人々に衝撃を与えました。一つの時代の終焉を象徴するのが保元の乱だったのです。

内乱により力を失う平安貴族たち

藤原頼通は、貴族の威光を盾に戦に口を出して、崇徳を敗戦に落とし込みました。そして、貴族は戦では逃げ惑うばかりで、最後には表舞台から消え去ります。また、この内乱をきっかけに400年間、廃止されていた天皇・上皇への島流しが復活。崇徳は讃岐に流され、その地で憤死、怨霊になったと噂されました。

それまでは合戦があっても、女性や子供は非戦闘員と見なされ、殺されることはありませんでした。しかし保元の乱では、女性や子供まで情け容赦なく殺されました。貴族が合戦でまったく役に立たないことが判明。武士が天下をとりました。保元の乱をもって平安時代は終焉。中世つまりは武士の時代に変化したのです。

保元の乱を通じて失われた天皇の権威

ことの発端は鳥羽上皇が自分の子どもである崇徳を不倫の子と疑い、憎悪していたとこと。さまざまな要因が絡み合い、内乱に発展しました。また、一強体制を長らく維持してきた藤原摂関家も、跡継ぎを巡って内輪もめしていたことも、保元の乱の一因となりました。

これまで武士階級は、貴族の番犬という位置づけ。それが瞬く間に表舞台に躍り出ました。しかしなあがら武士たちも安泰な立場ではありませんでした。崇徳側に付いたのは、貴族では藤原頼長、武士では源氏の源為義と為朝、平氏の平忠正。後白河側に付いたのは、藤原忠通、信西入道、平清盛、源義朝でした。

謎が多い保元物語の成立過程

Chinzei hachiro tametomo LCCN2008660450.jpg
Katsukawa, Shuntei, 1770-1820, artist - Library of Congress Catalog: https://lccn.loc.gov/2008660450 Image download: https://cdn.loc.gov/service/pnp/jpd/01600/01652v.jpg Original url: https://www.loc.gov/pictures/item/2008660450/, パブリック・ドメイン, リンクによる

保元物語の細かい内容は、諸本によって違いがあります。しかし、どの本も源為朝の活躍がメイン。また、為朝の父である源為義を始め、敗者となった崇徳、藤原頼長たちに同情的。敗者にフォーカスを当てた作品ですが、どんな人がなんの意図で書いたのかは不明です。

保元物語の作者は誰かはいまだに不明

保元物語の作者については、いろいろな説が生れましたが確定的なものはなし。作者不詳とされています。漢文に通じている、貴族にも武士にも通じている人物であると推測。主人公である源為朝を「智・仁・勇」の三つの徳を兼ね備えた「理想の武士」として描いているところから、源為朝に近い学者であったとも言われています。

歴史的資料では、源為朝の具体的な活躍の場面は記されていません。崇徳に味方した武士のなかでは特別な存在であったことは確か。しかしながら為朝に近い学者が、作品の執筆に関わったと断定するまでの根拠はありません。

作者については、身長が7尺(210センチメートル)あった、左手が右手より4寸(12センチ)長かったなど、さまざまな伝説があります。はっきりしたことは言えませんが、この作品の成立には複数の人あるいは集団が関わっていたという説が濃厚。また「平治物語」「平家物語」「承久記」すべてが、この集団により創作されたいう説もあるんですよ。

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諸本が数多く存在する保元物語

たくさんの系統の諸本があるのも保元物語の特徴。分類の仕方もさまざま。第1類は文保本系統、第2類は鎌倉本系統、第3類は京図本系統、第4類は金刀比羅本系統、題5類は京師本系統、第6類は正木本系統、第7類は須原本、第8類・流布本系統、第9類はその他の諸本および宮内庁書陵部蔵本などに分けられました。あらすじも本によって違うので、入り混じった登場人物を理解するのも一苦労です。

これほどたくさんの系統の本があると、どの本が後世のどの作品に影響を与えたのか判断するのは不可能。「平治物語」「平家物語」との関係も不明な所が多数あります。はっきりしていることは、鎌倉本の「平家物語」が「保元物語」とほぼ同じ文体を採用していること。ここから原典に近いと推測することもできます。

『保元物語』のあらすじ

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Utagawa Yoshitsuya (same artist with the name Ichieisai Yoshitsuya) - 1. Japaneseprints.net [1], 2. Mesosyn.com [2], パブリック・ドメイン, リンクによる

保元物語では、天皇家、藤原摂関家、源氏、平氏が入り乱れ、よく似た名前の人物が数多く登場。そのため、あらすじを一言で解説するのはとても困難。それを踏まえて簡単なあらすじを解説します。

保元物語の前半は藤原頼長の自害まで

保元物語の上巻は鳥羽法皇の治世。鳥羽は、息子の近衛を天皇にしますが、近衛は父より早く亡くなります。そこで、父である鳥羽に疎まれていた崇徳は、自分の息子を天皇に就けようとするものの、自分の弟が即位。後白河天皇となりました。鳥羽が亡くなったあと、崇徳は皇位を奪還しようと画策。そこに藤原頼長、源為義、平忠正たちが加わり、後白河川側には、源為朝・平清盛などが付きました。

中巻は、崇徳が立て籠もった白河殿に、後白河側が夜討ちするところからスタート。一夜で決着がつきます。崇徳は出家。仁和寺に隠れましたが、後白河側の武士にとらえられました。義朝と清盛は崇徳の御所を焼き払い、勝利した後白河から恩賞を受けます。一方、藤原頼長は自害しました。

後半は敗者である源為朝を賛美

崇徳に付いた武士たちが信西の考えで死罪となるあたりから下巻が始まります。源氏に対する処罰は厳しく、女性や子供まで殺されました。ここから親子兄弟の殺し合いが開始。延々と続きます。崇徳は讃岐に流されて讃岐で憤死。怨霊になったと噂されました。

崇徳に付いた貴族や藤原家の人たちも流罪。それでも戦乱は治まらず殺し合いが続きます。そして物語は、源為朝以上の武士はいないと賛美して幕を下ろしました。

『保元物語』を理解するためのポイント

image by PIXTA / 84230273

保元物語は、平安時代の終焉、つまり今までの世界が終わったことを示す物語です。世紀末を描く物語と言ってもいいでしょう。そんな保元物語の深く複雑な物語を、原典ですべて読破することはなかなかできません。そこで、保元物語を理解するためのポイントをまとめます。

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保元物語の根底にあるのは人間の憎悪

保元物語の元になっている保元の乱は、さまざまな争いや諍いが複雑に絡み合って発生しました。保元物語のポイントを簡単にまとめると、以下のようになります。

・保元の乱は親子の憎悪から広がった悲劇の内乱
・原因は父に疎まれて天皇の地位を退位させられた息子の恨み
・平安時代に栄華を誇った藤原摂関家の衰退も遠因
・源平の武士たちが、親子兄弟が敵味方に分かれて殺し合い
・天皇家と藤原家の跡継ぎ問題が絡み合って勃発した内乱
・日本中が内乱になり、殺戮の嵐となった

保元の乱から中世の武士社会へ

保元物語は源為朝を賛美して終わりますが、現実は続きます。合戦を終結させた武士の力は大きく、貴族の歴史は一瞬にして幕を下ろしました。保元の乱のあと中世の武士社会がスタート。『愚管抄』の著者である慈円(じえん)は、「この乱にて中世の始まり」と言い表しました。

すさまじい身内同士の殺し合いを経て平氏の天下に。平清盛は日宋貿易を推し進め、新しい文化が大陸から入ってきます。やがて平氏は貴族化。源氏が台頭して源平争乱が勃発します。源頼朝が平氏政権を倒し、源氏の世となりました。本格的な武家政治が開始。世の中の仕組み、価値観は大きく変わりました。時代の変化の発端は紛れもなく保元の乱だったと言ってもいいでしょう。

保元物語が描くのは激動の時代の人間の姿

保元物語が賛美するのは勝者ではなく敗者。また、身内同士が憎し見合い、殺しあうという悲劇です。どうしてこんなことが起こったのでしょうか。保元物語は、激動の時代のなかで自分を見失い、負け戦に身を投じてしまう、人間の愚かさを表現したのでしょう。ただ、負ける者、消え去る者を、愚かな存在ではなく、それでも美しい存在としたのは、きっと敗者のなかに人間的な美しさを作者が見出したのかもしれません。

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日本史鎌倉時代

保元の乱の敗者を賛美する「保元物語」のあらすじ、背景、隠されたメッセージを元大学教員が5分でわかりやすく解説

保元物語は鎌倉時代の初期に生まれた軍記物語。平安時代から鎌倉時代への転換をもたらした保元物語をテーマとしている。ここでフォーカスを当てられているのは敗者たちです。

保元物語は一体なにを描きたかったのでしょうか。隠されたメッセージについて、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回のテーマは保元物語。複雑で難解なストーリーの読解にチャレンジしてみた。

保元物語とはどんな作品?

保元・平治の乱合戦図屏風絵
不明 – 『保元・平治の乱合戦図屏風』 メトロポリタン美術館所蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

保元物語(ほうげんものがたり)の作者は不詳。鎌倉時代前期の承久2年(1220)年以降に成立したと推定されます。ジャンルとしては軍記物語。内容は3巻にわたります。崇徳院と後白河法皇との皇位継承争いと藤原摂関家の跡継ぎをめぐる争いの二つが重なり、これに源氏・平氏の武士が(いわゆる源平)が加わって内乱が勃発。この合戦が「保元の乱」と呼ばれ、その経緯やエピソードを記したのが保元物語です。

保元物語の背景にあるのは貴族の衰退

この物語は平家物語とともに琵琶法師によって語り広められました。平安末期に貴族政治は衰退。天皇家内部の争いが続発します。これに源氏と平氏の武者たちが加わり、いくつもの内乱が起こりました。この源平争乱から「保元物語」「平治物語」「平家物語」「承久記」などの戦記が生れます。

これらの戦乱が起こったのは、朝廷内の皇位継承争いがとても激しかった時代。現役の天皇が実権を握るのではなく、上皇と呼ばれるリタイアした元天皇が権力を握っていました。これが「院政」。上皇は自分の息子や孫を天皇に継がせなければなりません。でも、親子であっても仲が悪かったり、兄弟でも母親が違ったりするので、争いは絶えませんでした。

保元物語の文体は和漢混交文。和文と漢文、七語調や俗語が入り混じっている文体が特徴的です。これは、「保元物語」「平治物語」「平家物語」「承久記」の4つの軍記物語に共通するもの。最初に成立したのが保元物語。この4つの物語は一続きとして理解してもいいでしょう。

身内の対立と憎悪を描く保元物語

天皇家の父子の対立、それに加担した武士たちの親子兄弟、身内同士が敵味方に分かれ、殺しあう悲劇が保元物語のテーマです。崇徳天皇は父である鳥羽上皇に不倫の子と疑われ、憎まれていました。そのため、積年の恨みがありました。母違いの弟が天皇(後白河天皇)になったため、崇徳が皇位を奪還しようと起こしたのが保元の乱です。そもそも、保元物語では親子の悲劇として描かれました。

皇室内の争いには、後白河の側近の僧侶信西(藤原通憲・ふじわらのみちのり)が暗躍。あることないこと後白河に吹き込み、戦を巻き起こしました。また藤原家も跡継ぎをめぐって内輪もめ。崇徳側に付いた藤原頼長は、武士たちの意見を聞く耳もなく、負け戦に持ち込みました。一方、跡継ぎ争いをした藤原忠通は後白河側に。皇室と藤原家に利用された源平の武士たちは、身内同士で殺しあいました。

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