日本史

藤原摂関政治の象徴「清和天皇」とはどんな人物?その生涯や政治を元大学教員が5分で解説

政治を放棄していた清和天皇

応天門の変のあと、清和天皇はすべての政治を良房に一任。その結果、名門貴族であった伴氏は、朝廷から追放されました。さらには、応天門の変の原因が解明されないうちに、清和天皇は伴善男を犯人と確定。祖父である藤原良房を摂政に任命、藤原北家の天下となりました。

摂関政治とは、簡単に言ってしまえば家族による政治。現代では考えられないほど公私混合の政治体制でした。清和天皇以前は天皇親政時代。政治に無頓着だった清和天皇は、自ら権力を捨てて、藤原摂関政治の体制を作り上げたのです。

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観桜会に夢中になっていた清和天皇

奈良時代に白梅が、平安時代に紅梅が中国から伝わり、梅の花をめでる文化が花開きます。嵯峨天皇の時代になると、梅に代わって人気を博したのが桜。桜の花見が人気のイベントになります。良房は平安京の東北の隅に広大な邸宅を構え、桜の名所と称されるエリアをつくりました。そこで、一緒に花見を楽しんだのが清和天皇です。

花見をする文化が定着する背景には、后である明子(あきらけいこ)の力があったと言われています。農民を集めて田植えをさせ、その情景を清和に楽しませました。父の良房と娘の明子がタッグを組み、若い清和を甘やかして政治から遠ざけたのかもしれません。

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在位中は祖父の良房の飾り物に過ぎなかった清和。甘ったれと思いきや、出家生活では自分を厳しく律していました。精進生活は徹底したもの。粟田山荘で亡くなったときは、西を向き坐したまま息絶えています。その姿は生き仏のようだったと、説話などで伝えられました。遺言により清和は火葬され、生前に自ら終焉の地と決めていた嵯峨の水尾山に葬られます。そのため死後、水尾帝(みずのおてい)と呼ばれることもありました。陵の形は山稜ではなく円丘。そこにどんな思いがあったのかが気になります。

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清和の陵は、平安時代では非常に稀な、所在が確かである天皇陵だ。ちなみに、清和の前世は僧侶だったという説話があるなど、仏道の道を貫いた人物。そんな清和天皇の子孫から清和源氏が生れたのも興味深いな。

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清和天皇を踏み台にのしあがった藤原氏

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古代王朝はさまざまな権力闘争を経てきましたが、藤原氏のなかでも藤原北家の躍進はすさまじいものでした。蘇我氏や物部氏は早々と衰退。菅原氏と橘氏も弱体化し、最後まで何とか生き残った名門貴族は紀氏と伴氏のみでした。良房は目障りなこの両家を「応天門の変」によって完全に駆逐。良房の娘である明子が清和天皇の母だったからこそ、他勢力を排除できたのです。

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藤原北家はどうやって勢力を拡大させたのか?

平安時代は、藤原家内部の権力闘争からスタート。南家(なんけ)、北家(ほっけ)、式家(しきけ)、京家(きょうけ)の四つに分かれて競い合い、最終的に北家が独り勝ちしました。藤原北家は独特な手法で一族を発展させます。自家の娘を天皇の后にして子どもを出産。その子を皇太子とし、幼児のうちに天皇に即位させるという手法でした。天皇が幼ければ、当然、政治をつかさどれません。そこで、藤原家が天皇の後見人となり、一族に都合のよいように政治を推し進めていきます。

朝廷の人事権を握っているのは天皇。しかし、藤原北家により操られているため、他の豪族たちは藤原氏にすり寄ることで、出世の道を模索しました。先述したように、清和天皇は、応天門の変では祖父の良房の言いなり。当時の天皇は、表向きは政治をつかさどる立場でしたが、実際は何の力もありませんでした。

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hikosuke