日本史

藤原摂関政治の象徴「清和天皇」とはどんな人物?その生涯や政治を元大学教員が5分で解説

清和天皇の時代に失脚した伴氏・紀氏

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藤原独り勝ちの影には最後の名門貴族伴氏・紀氏の悲劇があります。9歳で即位した清和天皇の周りには、良房、その弟の右大臣良相(よしみ)、左大臣には嵯峨天皇の皇子源信がいました。源信は趣味に興じて遊んでばかり。政治的には無能で良房にとっては扱いやすいおぼっちゃまでした。この一団を揺さぶろうとしたのが、大伴氏最後のトップ大納言伴善男でした。

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清和天皇時代に失脚した大伴氏

善男の祖父は継人(つぐひと)、父は国道(くにみち)といいます。継人は、藤原氏と闘い、獄中で惨殺されました。国道は佐渡に流されます。国道は頭脳明晰。佐渡の国司に目をかけられ、京へ帰ることができました。淳和天王の時代には、当時の大伴氏の中では最高の地位まで上り詰めます。淳和天皇の名前が大伴だったので、おそれ多いと、苗字を伴(とも)と改めました。

国道の子である善男も、父親と同じく優秀な人物。仁明(にんみょう)天皇に目をかけられ、公卿の地位にまで上り詰めました。藤原北家以外としては異例の出世をなしとげ、大納言になります。そのようなとき、応天門が炎上するという事件が勃発。結局、友人の紀氏の豊喜や夏井が共謀したことになり、流罪の判決が下りました。善男は護衛兵に囲まれて都を出発。その後の消息は分かりません。

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善政により庶民に親しまれた紀氏

紀氏は紀伊国の紀ノ川下流を本拠とした古代豪族。大陸文化を日本にもたらしたことでも知られています。成り上がりの藤原氏とは格の違う名門豪族で、桓武天皇のときには一大勢力を築きました。文徳天皇のとき、名虎が娘の静子を入内させ、第一皇子を産ませます。しかしながら、良房との争いに敗れ、皇太子の地位は良房の孫にあたる清和に奪われました。応天門の変では、伴善男と共に流罪。この騒動には、良房の陰謀が絡んでいたとも言われています。しかし、真犯人は分からないまま幕引きしました。

もう一人、悲劇の運命を辿った人物がいます。紀名虎の娘である静子の生んだ子供は、文徳天皇の第一皇子でありながら、清和に天皇の地位を奪われ、28歳で山城国の小野に隠遁。54歳で亡くなりました。応天門の変で流罪となった祖父である紀名虎の冥福を祈る日々だったと伝えられます。

 

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名虎には種子という娘もいました。種子は仁明帝の后で、種子の子孫にあたるのが空也上人。事実かどうかは不明ですが、空也上人は文殊の化身(もんじゅのけしん)と呼ばれ、杖を突きカネを叩きながら、市を行脚(あんぎゃ)していたと伝えられます。念仏を唱えると、その一言一言が小さな念仏になって口から出て行ったという逸話付き。素性は不明ですが、皇室や貴族たちから特別扱いされていたため、紀氏の子孫という伝説が生まれたのでしょう。

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紀氏は没落後、和歌の道で頭角をあらわし、たくさんの有名歌人を輩出した。『古今和歌集』の編者の1人であり『土佐日記』を仮名文字で記した紀貫之(きのつらゆき)はこの氏の出身。このようなつながりがあるのが不思議だな。

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藤原摂関家に翻弄された清和天皇の生涯

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母方の祖父である藤原良房にすべての権力を委ねた清和天皇。良房が亡くなったあと、27歳で皇太子に譲位し、30歳で出家します。新天皇は気性が荒く暴力沙汰をおこし、最後には殺人を犯すまでに。しかしながら清和は息子を気にすることなく、近畿の諸寺を巡礼。仏道三昧の余生を送りました。

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hikosuke