清和天皇は平安初期の天皇で、嘉祥3年に生まれ、元慶4年に亡くなった。文徳(もんとく)天皇の第4皇子で第56代の天皇にあたる。正式な名前は惟仁(これひと)。母親は太政大臣藤原良房の娘明子(あきらけいこ)だった。

妻の父である藤原良房が摂政となり、全権を掌握した清和天皇。藤原北家一強の時代に在位した清和天皇の生涯について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文学を専門とする元大学教員。平安時代に興味があり、気になることがあったら調べている。今回のテーマは清和天皇。藤原摂関家をどのように開花させたのかひも解いてみた。

清和天皇とはどんな人物?

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清和天皇が行った大きな仕事が『貞観格式』(じょうがんきゃくしき)。いわゆる「法典の整備」です。この整備は藤原氏に都合に合わせたもの。古代律令制度は骨抜きになりました。法解釈を都合よく変えて、日本中の荘園をわが物にする藤原氏の時代を確固たるものにしました。

清和天皇が在位した時代は藤原氏一強

清和の父である文徳天皇のころから藤原氏は勢力を拡大。そもそも文徳天皇は、藤原良房の甥に当たります。藤原北家が大きく勢力を伸ばしたのは、良房の父冬嗣のとき。冬嗣は策略をめぐらし、古くから日本の名門豪族であった大伴氏(伴氏)、橘氏、紀氏などを失脚させ、息子の良房を大納言にします。

藤原氏がどこから来た氏族なのかは今でも不明。しかしながら、日本に根を張っていた豪族たちは藤原氏の策略にはまり、次々と失脚。力を失っていきます。伴氏(ともし)、伴氏は大伴から改名したもの。紀氏(きのし)も一時失脚しましたが、かろうじて踏ん張り、最後の力を保っていました。

文徳天皇は、紀氏名虎の娘である静子の生んだ惟喬(これたか)親王を皇太子に就けたいと思っていました。そこで考えたのが、良房の圧力で、良房の娘が生んだ惟仁(清和天皇)を皇太子に就けること。それにより紀氏は完全に力を奪われ、藤原一強時代となりました。清和天皇にとって良房は祖父。幼少期のみならず成人してからも良房は摂政として力をふるい、藤原一強時代は幕を開けました。清和天皇は藤原天皇時代のシンボルと言えるでしょう。

清和天皇の時代に起こった応天門の変

清和天皇が16歳であった貞観8年、応天門が焼けるという大事件が起こりました。大納言伴善男(とものよしお)は、この炎上を源信(みなもとのまこと)の放火だと訴えます。しかし、藤原良房は旧知の仲である源信を無罪とし、伴善男を遠流、共謀者として紀豊城(きのとよき)たち紀氏一族も流罪としました。これにより、古来の名門豪族伴氏、紀氏が失脚。藤原氏は完全に天下を制覇したのです。

伴善男を信頼していた清和天皇。しかしながら、事件の真犯人が解明されないうちに良房を正式に摂政に任命、伴氏と紀氏の厳罰に積極的に賛同しました。祖父良房に操られていたのでしょうか。本心から、伴氏と紀氏の仕業と思っていたのかは不明です。この事件は、日本の古代律令制の終焉を告げるもの。まさに暗黒判決でした。

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清和天皇の時代に失脚した伴氏・紀氏

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藤原独り勝ちの影には最後の名門貴族伴氏・紀氏の悲劇があります。9歳で即位した清和天皇の周りには、良房、その弟の右大臣良相(よしみ)、左大臣には嵯峨天皇の皇子源信がいました。源信は趣味に興じて遊んでばかり。政治的には無能で良房にとっては扱いやすいおぼっちゃまでした。この一団を揺さぶろうとしたのが、大伴氏最後のトップ大納言伴善男でした。

清和天皇時代に失脚した大伴氏

善男の祖父は継人(つぐひと)、父は国道(くにみち)といいます。継人は、藤原氏と闘い、獄中で惨殺されました。国道は佐渡に流されます。国道は頭脳明晰。佐渡の国司に目をかけられ、京へ帰ることができました。淳和天王の時代には、当時の大伴氏の中では最高の地位まで上り詰めます。淳和天皇の名前が大伴だったので、おそれ多いと、苗字を伴(とも)と改めました。

国道の子である善男も、父親と同じく優秀な人物。仁明(にんみょう)天皇に目をかけられ、公卿の地位にまで上り詰めました。藤原北家以外としては異例の出世をなしとげ、大納言になります。そのようなとき、応天門が炎上するという事件が勃発。結局、友人の紀氏の豊喜や夏井が共謀したことになり、流罪の判決が下りました。善男は護衛兵に囲まれて都を出発。その後の消息は分かりません。

善政により庶民に親しまれた紀氏

紀氏は紀伊国の紀ノ川下流を本拠とした古代豪族。大陸文化を日本にもたらしたことでも知られています。成り上がりの藤原氏とは格の違う名門豪族で、桓武天皇のときには一大勢力を築きました。文徳天皇のとき、名虎が娘の静子を入内させ、第一皇子を産ませます。しかしながら、良房との争いに敗れ、皇太子の地位は良房の孫にあたる清和に奪われました。応天門の変では、伴善男と共に流罪。この騒動には、良房の陰謀が絡んでいたとも言われています。しかし、真犯人は分からないまま幕引きしました。

もう一人、悲劇の運命を辿った人物がいます。紀名虎の娘である静子の生んだ子供は、文徳天皇の第一皇子でありながら、清和に天皇の地位を奪われ、28歳で山城国の小野に隠遁。54歳で亡くなりました。応天門の変で流罪となった祖父である紀名虎の冥福を祈る日々だったと伝えられます。

 

名虎には種子という娘もいました。種子は仁明帝の后で、種子の子孫にあたるのが空也上人。事実かどうかは不明ですが、空也上人は文殊の化身(もんじゅのけしん)と呼ばれ、杖を突きカネを叩きながら、市を行脚(あんぎゃ)していたと伝えられます。念仏を唱えると、その一言一言が小さな念仏になって口から出て行ったという逸話付き。素性は不明ですが、皇室や貴族たちから特別扱いされていたため、紀氏の子孫という伝説が生まれたのでしょう。

藤原摂関家に翻弄された清和天皇の生涯

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母方の祖父である藤原良房にすべての権力を委ねた清和天皇。良房が亡くなったあと、27歳で皇太子に譲位し、30歳で出家します。新天皇は気性が荒く暴力沙汰をおこし、最後には殺人を犯すまでに。しかしながら清和は息子を気にすることなく、近畿の諸寺を巡礼。仏道三昧の余生を送りました。

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政治を放棄していた清和天皇

応天門の変のあと、清和天皇はすべての政治を良房に一任。その結果、名門貴族であった伴氏は、朝廷から追放されました。さらには、応天門の変の原因が解明されないうちに、清和天皇は伴善男を犯人と確定。祖父である藤原良房を摂政に任命、藤原北家の天下となりました。

摂関政治とは、簡単に言ってしまえば家族による政治。現代では考えられないほど公私混合の政治体制でした。清和天皇以前は天皇親政時代。政治に無頓着だった清和天皇は、自ら権力を捨てて、藤原摂関政治の体制を作り上げたのです。

観桜会に夢中になっていた清和天皇

奈良時代に白梅が、平安時代に紅梅が中国から伝わり、梅の花をめでる文化が花開きます。嵯峨天皇の時代になると、梅に代わって人気を博したのが桜。桜の花見が人気のイベントになります。良房は平安京の東北の隅に広大な邸宅を構え、桜の名所と称されるエリアをつくりました。そこで、一緒に花見を楽しんだのが清和天皇です。

花見をする文化が定着する背景には、后である明子(あきらけいこ)の力があったと言われています。農民を集めて田植えをさせ、その情景を清和に楽しませました。父の良房と娘の明子がタッグを組み、若い清和を甘やかして政治から遠ざけたのかもしれません。

在位中は祖父の良房の飾り物に過ぎなかった清和。甘ったれと思いきや、出家生活では自分を厳しく律していました。精進生活は徹底したもの。粟田山荘で亡くなったときは、西を向き坐したまま息絶えています。その姿は生き仏のようだったと、説話などで伝えられました。遺言により清和は火葬され、生前に自ら終焉の地と決めていた嵯峨の水尾山に葬られます。そのため死後、水尾帝(みずのおてい)と呼ばれることもありました。陵の形は山稜ではなく円丘。そこにどんな思いがあったのかが気になります。

清和天皇を踏み台にのしあがった藤原氏

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古代王朝はさまざまな権力闘争を経てきましたが、藤原氏のなかでも藤原北家の躍進はすさまじいものでした。蘇我氏や物部氏は早々と衰退。菅原氏と橘氏も弱体化し、最後まで何とか生き残った名門貴族は紀氏と伴氏のみでした。良房は目障りなこの両家を「応天門の変」によって完全に駆逐。良房の娘である明子が清和天皇の母だったからこそ、他勢力を排除できたのです。

藤原北家はどうやって勢力を拡大させたのか?

平安時代は、藤原家内部の権力闘争からスタート。南家(なんけ)、北家(ほっけ)、式家(しきけ)、京家(きょうけ)の四つに分かれて競い合い、最終的に北家が独り勝ちしました。藤原北家は独特な手法で一族を発展させます。自家の娘を天皇の后にして子どもを出産。その子を皇太子とし、幼児のうちに天皇に即位させるという手法でした。天皇が幼ければ、当然、政治をつかさどれません。そこで、藤原家が天皇の後見人となり、一族に都合のよいように政治を推し進めていきます。

朝廷の人事権を握っているのは天皇。しかし、藤原北家により操られているため、他の豪族たちは藤原氏にすり寄ることで、出世の道を模索しました。先述したように、清和天皇は、応天門の変では祖父の良房の言いなり。当時の天皇は、表向きは政治をつかさどる立場でしたが、実際は何の力もありませんでした。

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おじいちゃんにあたる良房は清和天皇にとって絶対的な存在。小さいころからマインドコントロールされていたように思えてなりません。清和は良房が亡くなったあと、良房の呪縛から解き放たれたように、あっさりと政治の世界から身を引きます。そのあと仏門の道に入り、巡礼を続けたのは、良房の野望の犠牲となった紀氏や伴氏の弔いの意味をあったのかもしれません。

名門貴族たちの恨みにより呪われた平安京

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平安京は桓武天皇によって開かれました。その名の通り平安な都となるはずでしたが、藤原氏の陰謀と迫害により、名門貴族たちは次々と濡れ衣を着せられます。そんな名門貴族たちの恨みが降り積もり、怨霊と祟りが蔓延する呪いの都と化しました。その総仕上げとなるのが清和天皇の時代。追放した人の祟りをもっとも恐れたのが他ならぬ藤原氏でした。

藤原良房は、皇族以外で摂政になった初めての人物。そのため、人民摂政とも呼ばれました。良房は数々の陰謀で多くの人々を政界から追放。そのため、良心がとがめたのか、祟りを鎮めるための御霊(ごりょう)信仰に熱中していました。貞観5年、良房は神泉苑で大規模は御霊会(ごりょうえ)を開催。御霊神を祀りました。

御霊会を開催することで、これまで藤原氏に祟りをもたらしていたとされる怨霊たちすべてを、ここで慰めようとしました。しかし、祟りは治まらず、飢饉、干ばつ、悪疫が平安の都を襲います。その結果、人々は不安な心にさいなまれ、さらなる祟りを恐れるように。こうした怯えが、のちに空海や最澄があらわれる下地となりました。

未完の平安の都で翻弄された清和天皇

平安の都は、私たちが抱きがちな優美なイメージからは程遠い荒れ果てた未完成の都でした。平安時代初期までは何とか律令制度が機能していましたが、藤原北家が律令を自分たちに都合のいいように変え、自腹を肥やした時代でもあります。良房の時代にはほとんどの豪族は失脚。良房が摂政になってからは、天皇の存在も薄らいでいきます。摂関政治のシンボルが清和天皇。激動の時代に、清和が何を想い、仏道に向かったのか、想像してみるのもいいでしょう。

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日本史

藤原摂関政治の象徴「清和天皇」とはどんな人物?その生涯や政治を元大学教員が5分でわかりやすく解説

清和天皇は平安初期の天皇で、嘉祥3年に生まれ、元慶4年に亡くなった。文徳(もんとく)天皇の第4皇子で第56代の天皇にあたる。正式な名前は惟仁(これひと)。母親は太政大臣藤原良房の娘明子(あきらけいこ)だった。

妻の父である藤原良房が摂政となり、全権を掌握した清和天皇。藤原北家一強の時代に在位した清和天皇の生涯について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文学を専門とする元大学教員。平安時代に興味があり、気になることがあったら調べている。今回のテーマは清和天皇。藤原摂関家をどのように開花させたのかひも解いてみた。

清和天皇とはどんな人物?

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清和天皇が行った大きな仕事が『貞観格式』(じょうがんきゃくしき)。いわゆる「法典の整備」です。この整備は藤原氏に都合に合わせたもの。古代律令制度は骨抜きになりました。法解釈を都合よく変えて、日本中の荘園をわが物にする藤原氏の時代を確固たるものにしました。

清和天皇が在位した時代は藤原氏一強

清和の父である文徳天皇のころから藤原氏は勢力を拡大。そもそも文徳天皇は、藤原良房の甥に当たります。藤原北家が大きく勢力を伸ばしたのは、良房の父冬嗣のとき。冬嗣は策略をめぐらし、古くから日本の名門豪族であった大伴氏(伴氏)、橘氏、紀氏などを失脚させ、息子の良房を大納言にします。

藤原氏がどこから来た氏族なのかは今でも不明。しかしながら、日本に根を張っていた豪族たちは藤原氏の策略にはまり、次々と失脚。力を失っていきます。伴氏(ともし)、伴氏は大伴から改名したもの。紀氏(きのし)も一時失脚しましたが、かろうじて踏ん張り、最後の力を保っていました。

文徳天皇は、紀氏名虎の娘である静子の生んだ惟喬(これたか)親王を皇太子に就けたいと思っていました。そこで考えたのが、良房の圧力で、良房の娘が生んだ惟仁(清和天皇)を皇太子に就けること。それにより紀氏は完全に力を奪われ、藤原一強時代となりました。清和天皇にとって良房は祖父。幼少期のみならず成人してからも良房は摂政として力をふるい、藤原一強時代は幕を開けました。清和天皇は藤原天皇時代のシンボルと言えるでしょう。

清和天皇の時代に起こった応天門の変

清和天皇が16歳であった貞観8年、応天門が焼けるという大事件が起こりました。大納言伴善男(とものよしお)は、この炎上を源信(みなもとのまこと)の放火だと訴えます。しかし、藤原良房は旧知の仲である源信を無罪とし、伴善男を遠流、共謀者として紀豊城(きのとよき)たち紀氏一族も流罪としました。これにより、古来の名門豪族伴氏、紀氏が失脚。藤原氏は完全に天下を制覇したのです。

伴善男を信頼していた清和天皇。しかしながら、事件の真犯人が解明されないうちに良房を正式に摂政に任命、伴氏と紀氏の厳罰に積極的に賛同しました。祖父良房に操られていたのでしょうか。本心から、伴氏と紀氏の仕業と思っていたのかは不明です。この事件は、日本の古代律令制の終焉を告げるもの。まさに暗黒判決でした。

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