日本史

藤原摂関政治の象徴「清和天皇」とはどんな人物?その生涯や政治を元大学教員が5分で解説

よぉ、桜木建二だ。清和天皇は平安初期の天皇で、嘉祥3年に生まれ、元慶4年に亡くなった。文徳(もんとく)天皇の第4皇子で第56代の天皇にあたる。正式な名前は惟仁(これひと)。母親は太政大臣藤原良房の娘明子(あきらけいこ)だった。

妻の父である藤原良房が摂政となり、全権を掌握した清和天皇。藤原北家一強の時代に在位した清和天皇の生涯について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文学を専門とする元大学教員。平安時代に興味があり、気になることがあったら調べている。今回のテーマは清和天皇。藤原摂関家をどのように開花させたのかひも解いてみた。

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清和天皇とはどんな人物?

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清和天皇が行った大きな仕事が『貞観格式』(じょうがんきゃくしき)。いわゆる「法典の整備」です。この整備は藤原氏に都合に合わせたもの。古代律令制度は骨抜きになりました。法解釈を都合よく変えて、日本中の荘園をわが物にする藤原氏の時代を確固たるものにしました。

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清和天皇が在位した時代は藤原氏一強

清和の父である文徳天皇のころから藤原氏は勢力を拡大。そもそも文徳天皇は、藤原良房の甥に当たります。藤原北家が大きく勢力を伸ばしたのは、良房の父冬嗣のとき。冬嗣は策略をめぐらし、古くから日本の名門豪族であった大伴氏(伴氏)、橘氏、紀氏などを失脚させ、息子の良房を大納言にします。

藤原氏がどこから来た氏族なのかは今でも不明。しかしながら、日本に根を張っていた豪族たちは藤原氏の策略にはまり、次々と失脚。力を失っていきます。伴氏(ともし)、伴氏は大伴から改名したもの。紀氏(きのし)も一時失脚しましたが、かろうじて踏ん張り、最後の力を保っていました。

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文徳天皇は、紀氏名虎の娘である静子の生んだ惟喬(これたか)親王を皇太子に就けたいと思っていました。そこで考えたのが、良房の圧力で、良房の娘が生んだ惟仁(清和天皇)を皇太子に就けること。それにより紀氏は完全に力を奪われ、藤原一強時代となりました。清和天皇にとって良房は祖父。幼少期のみならず成人してからも良房は摂政として力をふるい、藤原一強時代は幕を開けました。清和天皇は藤原天皇時代のシンボルと言えるでしょう。

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清和天皇の時代に起こった応天門の変

清和天皇が16歳であった貞観8年、応天門が焼けるという大事件が起こりました。大納言伴善男(とものよしお)は、この炎上を源信(みなもとのまこと)の放火だと訴えます。しかし、藤原良房は旧知の仲である源信を無罪とし、伴善男を遠流、共謀者として紀豊城(きのとよき)たち紀氏一族も流罪としました。これにより、古来の名門豪族伴氏、紀氏が失脚。藤原氏は完全に天下を制覇したのです。

伴善男を信頼していた清和天皇。しかしながら、事件の真犯人が解明されないうちに良房を正式に摂政に任命、伴氏と紀氏の厳罰に積極的に賛同しました。祖父良房に操られていたのでしょうか。本心から、伴氏と紀氏の仕業と思っていたのかは不明です。この事件は、日本の古代律令制の終焉を告げるもの。まさに暗黒判決でした。

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これ以降、平安時代は藤原時代となる。この事件から300年後の平安末期に『伴大納言絵詞』が描かれた。作者不明のこの作品のテーマは応天門の変がテーマ。波乱に富む事件を力強い墨の線と色彩で絵巻風に描いたものだ。当時の風俗が分かる貴重な資料でもある。

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