エルネスト・ゲバラはアルゼンチン生まれの政治家で、キューバのゲリラ指導者として知られている人物。キューバ革命を起こしたフィデル・カストロの思想に感銘を受けて共に戦う道を選んです。革命家として人気が高く、今でも北米や南米地域に行くとお土産屋さんでチェ・ゲバラのTシャツ商品が売られているほどです。

アルゼンチン人のチェ・ゲバラはどうしてキューバに赴き、革命の達成に命をかけたのでしょうか。彼の生い立ちや彼が活躍した時代の背景について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門としていた元大学教員。アメリカの歴史を調べていると必ず登場するのがキューバ革命。とくにチェ・ゲバラの場合、カリスマ的に人気が高く、憧れの対象にすらなっている。そこでチェ・ゲバラが今での多くの人を惹きつけるのか、彼の生涯を参考に魅力の源泉を調べてみることにした。

チェ・ゲバラとはどんな人物?

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By Perfecto Romero - Museo Che Guevara (Centro de Estudios Che Guevara en La Habana, Cuba), Public Domain, Link

チェ・ゲバラは1928年にアルゼンチンで生まれた政治家。1967年に亡くなるまでキューバをはじめコンゴやボリビアのゲリラのリーダーとして活躍しました。31歳という若さで亡くなったこともあり、革命家として理想化されている一面もあります。

本名はエルネスト・ゲバラ

チェ・ゲバラという呼び名が定着していますが本名はエルネスト・ゲバラ。「チェ」はスペイン語の方言で、親しい人に会ったときの呼びかけ言葉。日本語でいうと「やあ」「おい」などが相当します。

通常「チェ」は親しい友人に対して使いますが、ゲバラは初めて会った相手にも「チェ」とあいさつをしていました。キューバでもスペイン語は使われていますが、方言は奇妙な発音。それを面白がってゲバラのことを「チェ・ゲバラ」と呼ぶようになったそうです。

虚弱体質だったチェ・ゲバラ

ゲバラの両親はともにアルゼンチン人ですが、父親はバスク系、母親はアイルランド系と、血筋に違いがあります。誕生したのはロサリオ。当時はブエノス・アイレスに続く第二の都市として栄えていました。

たくましい革命家のイメージがありますが幼少期のゲバラは虚弱体質。生まれてすぐに肺炎になり、生涯に渡って思い喘息に苦しめられました。ゲバラの健康を気遣った両親は空気のよいところを求めて何度も引っ越し。しかしながら酸素吸入器が手放せない生活でした。

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チェ・ゲバラは大学在学中に革命思想を学ぶ

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チェ・ゲバラの革命家としての思想が形作られたのは大学在学期間中です。チェ・ゲバラはもともと裕福な家庭で育ちました。しかしながら、南米のさまざまな国家で肉体労働者が置かれている現状や貧困を目の当たりにし、最下層で暮らす人々に共感を抱くようになります。

ブエノスアイレス大学在学中に南米を放浪

チェ・ゲバラは頭脳明晰で、名門教育機関のブエノスアイレス大学に入り医学を学びます。しかしながら彼が夢中になったのは医学ではなく旅でした。ゲバラは友人と一緒にオートバイで南米諸国を周遊する旅に出ることに。そこで南米諸国を取り巻く貧困問題を目の当たりにすることになりました。

ゲバラが育ったアルゼンチンは南米のなかでは裕福な国でした。そんなゲバラがとくに衝撃を受けたのがチリの最下層の人々。鉱山の労働者やハンセン病の患者と出会ったことにより、自分の育った環境とは違う世界を知ります。

ペルーの革命家の女性と結婚

大学を卒業したあともゲバラは仕事に就くことなく再び南米を放浪する旅に出ます。このときの旅でゲバラが遭遇したのがボリビア革命。革命が進むことで白人植民者の支配下にあったインディオが自由を獲得する様子を目の当たりにします。革命の力に衝撃を受けたゲバラは国家を買えるための活動に注目するようになりました。

ゲバラは南米諸国をめぐった末にグアテマラに到着。そこで医者として働くようになります。そこで出会ったのが女性革命家のイルダ・ガデア。ペルー出身の革命家で共産党のリーダーのひとりでもありました。彼女の社会主義思想に共鳴したゲバラはガデアと結婚します。

キューバ革命の指導者カストロとの出会いがチェ・ゲバラの運命を変える

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By Unknown author - Museo Che Guevara (Centro de Estudios Che Guevara en La Habana, Cuba), Public Domain, Link

若き日は旅する放浪者のひとりに過ぎなかったチェ・ゲバラですが、革命家としてゲバラを開花させたのがキューバ革命のリーダーであるフィデル・カストロです。彼の思想や行動に感銘を受けたゲバラはキューバ革命に身を投じる決意をしました。

グアテマラのアルベンス政権により暗殺指令が出される

ゲバラが滞在していたころのグアテマラは革命政権下。スペイン植民地の時代から続く搾取や政治腐敗の改革が進められていました。しかしながらアメリカの利権に関わる改革を強行したことから、アメリカにてグアテマラの革命政権に対する批判が増大します。

そこでアメリカのCIA(中央情報局)行ったのがPBSUCCESS作戦。革命政権を転覆させる計画が行われ、表向き民主的な方法で革命政権は追放されました。さらに革命政権を支持していたゲバラに暗殺指令が出ることに。そこでゲバラは妻と共にグアテマラを離れ、メキシコに移住します。

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キューバの革命のリーダー・カストロとの出会い

1955年にメキシコに移り住んだゲバラで出会ったのがカストロ。このときカストロは亡命中で、キューバのフルヘンシオ・バティスタ独裁政権を打倒する計画を立てていました。カストロの計画に共感したチェ・ゲバラは、話を聞いたその日のうちにカストロ軍で共に戦うことを決めます。

このときゲバラには妻とのあいだに娘が生まれていました。そこで妻と娘はメキシコに残り、ゲバラはひとりでキューバに向かいます。劣悪な環境のなかゲリラ活動を展開。仲間が拷問などで命を落とすものの反政府軍との合流に成功しました。勢力を拡大させた反乱軍は独裁政権の追放に成功。カストロが首都ハバナに入城してキューバ革命が達成されました。

視察のために日本を訪問したチェ・ゲバラ

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カストロ政権下にて要職に就いたゲバラはキューバ企業の国営化を推進するために日本にて視察を実施。通商使節団を引き連れて日本の各所をまわりました、当時の日本ではゲバラの知名度はほとんどなし。「朝日新聞」で軽く触れられただけで、ニュースとして関連情報が報道されることはありませんでした。

チェ・ゲバラは日本の製造業を視察

日本にやってきたゲバラは主に日本の製造業の工場を中心に視察を行います。1959年7月23日に視察したのが愛知県にあるトヨタ自動車の工場。そこで、トラックやジープ型4輪駆動車が製造される様子を見学しました、午後に新三菱重工の飛行機製作の現場を見学、その日の夜に愛知から大阪に移動します。

翌朝、ゲバラ一行は久保田鉄工堺工場を訪問。そこで、農業機械を制作する現場を見学し、実際に農業機械を動かす体験をしています。さらに、丸紅や鐘紡などを回ったあとに大阪商工会議所が主催する会食に出席。そのあと神戸に移動して川崎造船所を見学、さらには東京にも足を延ばして、帝国ホテルにて池田勇人通産相と会談しました。

広島では原爆投下に想いを寄せる一面も

実は、チェ・ゲバラは大阪に滞在しているとき、広島に足を延ばす計画を思いつき、神戸に行ったあとそのまま広島行きの飛行機に乗ります。このとき同行したのはオマール・フェルナンデス大尉とマリオ・アルスガライ駐日大使の2名でした。ゲバラ一行は広島県の職員に案内され、平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に献花。原爆資料館と原爆病院を訪問しました。

さらには広島県庁にも訪れ、当時の広島県知事だった大原博夫と会談します。アメリカの原爆投下により甚大な被害を受けた広島と、アメリカの影響下にある中南米が重なり合うところがあったのかもしれません。ゲバラの広島に対する思いは深く、それは子どもたちにも引き継がれます。娘のアレイダが2008年、息子のカミーロは2017年に広島の平和公園を訪れました。

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チェ・ゲバラの最後の革命の場はボリビア

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チェ・ゲバラはキューバ革命のあと、しばらくのあいだかつての独裁政権の支持者たちを処刑する任務を遂行。裁判のあと600人ほどがゲバラの手で処刑されたと言われています。そのあとのゲバラは、保守的な言動も求められる政治家としての仕事に馴染めず、ふたたび革命の場を探すようになりました。

ソビエト連邦を批判して政権を離れることに

チェ・ゲバラは社会主義を理想としてきたものの、その中心にあるソビエト連邦のやり方に疑問を抱くようになります。当時のキューバはソ連の影響下にあり、物資の援助も受けていました。しかしながら、ゲバラはソ連に批判的な立場をとっており、それをよく思わないソ連側が、ゲバラを政府首脳陣から外すことを求めます。

ソ連はゲバラを外さなければ物資の支援を減らすと通告。それによりゲバラはカストロ政権から離れることを決意します。そこでカストロら一部の側近だけに伝え、家族を残してキューバを去りました。ゲバラが一線を退いたことは国民には知らされず、半年後のキューバ共産党大会にて初めて公表。それによりキューバの国民ならびに世界中の人々にゲバラの状況が知れ渡りました。

ボリビアにて再び革命を試みるチェ・ゲバラ

キューバを離れたゲバラは新しい革命の場を探します。最初に目を付けたのがコンゴ民主共和国。このときコンゴ動乱が続いており、革命の兆しがありました。そこでゲバラはコンゴの兵士に革命を指導。しかし士気をあげることができず、失意の末にコンゴを去ります。秘密裏にキューバに戻り、カストロと会談して次に目を付けたのがボリビア。そこで革命を計画します。

チェ・ゲバラが指揮したのが20名ほどの小規模なゲリラ部隊。ゲバラは独自の革命理論を持っており、ボリビア共産党からの支持は得られませんでした。最初の革命で農民はすでに土地を手に入れており、新たに革命を起こす気はなし。さらに政府軍は元ナチス親衛隊中尉を顧問にゲリラ対策を強化していました。カストロからの支援も失ったゲリラ部隊は政府軍にとらえられ、ゲバラは銃殺されました。

革命家として人生を全うしたチェ・ゲバラ

チェ・ゲバラは革命家であり政治家でもあります。しかしながら政治家として安定した地位を築けませんでした。独自の革命理論を曲げることができず、カストロ政権、ソビエト連邦、ボリビアなど、行く先々で完全に馴染むことができませんでした。ある意味、自分の居場所を見つけられることなく亡くなったと言えるでしょう。定住することなく放浪する身で生涯を終えたチェ・ゲバラ。だからこそ思想の違いを超えて、上司のカストロ以上に世界中でカリスマとしての地位を保っているのだと思います。

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アメリカの歴史世界史

キューバ革命を牽引「チェ ゲバラ」とはどんな人物?生い立ちや時代背景を元大学教員が5分でわかりやすく解説

エルネスト・ゲバラはアルゼンチン生まれの政治家で、キューバのゲリラ指導者として知られている人物。キューバ革命を起こしたフィデル・カストロの思想に感銘を受けて共に戦う道を選んです。革命家として人気が高く、今でも北米や南米地域に行くとお土産屋さんでチェ・ゲバラのTシャツ商品が売られているほどです。

アルゼンチン人のチェ・ゲバラはどうしてキューバに赴き、革命の達成に命をかけたのでしょうか。彼の生い立ちや彼が活躍した時代の背景について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門としていた元大学教員。アメリカの歴史を調べていると必ず登場するのがキューバ革命。とくにチェ・ゲバラの場合、カリスマ的に人気が高く、憧れの対象にすらなっている。そこでチェ・ゲバラが今での多くの人を惹きつけるのか、彼の生涯を参考に魅力の源泉を調べてみることにした。

チェ・ゲバラとはどんな人物?

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By Perfecto Romero – Museo Che Guevara (Centro de Estudios Che Guevara en La Habana, Cuba), Public Domain, Link

チェ・ゲバラは1928年にアルゼンチンで生まれた政治家。1967年に亡くなるまでキューバをはじめコンゴやボリビアのゲリラのリーダーとして活躍しました。31歳という若さで亡くなったこともあり、革命家として理想化されている一面もあります。

本名はエルネスト・ゲバラ

チェ・ゲバラという呼び名が定着していますが本名はエルネスト・ゲバラ。「チェ」はスペイン語の方言で、親しい人に会ったときの呼びかけ言葉。日本語でいうと「やあ」「おい」などが相当します。

通常「チェ」は親しい友人に対して使いますが、ゲバラは初めて会った相手にも「チェ」とあいさつをしていました。キューバでもスペイン語は使われていますが、方言は奇妙な発音。それを面白がってゲバラのことを「チェ・ゲバラ」と呼ぶようになったそうです。

虚弱体質だったチェ・ゲバラ

ゲバラの両親はともにアルゼンチン人ですが、父親はバスク系、母親はアイルランド系と、血筋に違いがあります。誕生したのはロサリオ。当時はブエノス・アイレスに続く第二の都市として栄えていました。

たくましい革命家のイメージがありますが幼少期のゲバラは虚弱体質。生まれてすぐに肺炎になり、生涯に渡って思い喘息に苦しめられました。ゲバラの健康を気遣った両親は空気のよいところを求めて何度も引っ越し。しかしながら酸素吸入器が手放せない生活でした。

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