「私は団塊の世代だったのよ」なんて言葉を聞くことはないでしょうか。団塊の世代とはベビーブームによる空前の人口増加のさなかに生まれた人々。日本の高度経済成長期の日本の好景気を支えた人材でもある。

団塊の世代は企業を退職して年金世代に突入した。少子高齢化が進む社会全体でどのように支えるのかも現在の問題となっている。そこで団塊の世代に関連することについて、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの分野や歴史を専門とする元大学教員。就職氷河期世代にあたる。大学を卒業したころ雇用の機会が減少して苦労した世代。そのとき団塊の世代が退職するまで雇用は回復しないと言われていた。ちょうど自分の親も団塊の世代ということもあり調べてみることにした。

団塊の世代はどのような時代に生まれた?

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団塊の世代は戦後の混乱期に生まれた世代。1947年から1949年のあいだに生まれたと定義されています。戦争そのものは経験していませんが、彼らや彼女らの親は戦争で少なからず影響を受けていました。

昭和の第一次ベビーブームに誕生

団塊の世代は戦後の第一次ベビーブーム期に生まれました。戦争が終わったことにより若者が復員。結婚するカップルが一気に増加しました。ちょうどこの時期、医学が進歩して赤ちゃんが死亡するリスクが減少。伝染病を予防する医療も進歩したため、出生率が大幅にアップすることになります。

そこで生まれたのが第一次ベビーブーム。ちなみに団塊の世代が子どもを産む時期は第二次ベビーブームと呼ばれています。このような背景もあり、1947年から1949年にかけての3 年間に生まれた人口は、ほかの時期と比較すると突出する結果に。人口増加がその後の進学、就職、結婚、定年に影響を与えることになりました。

高度経済成長期の会社を支えた

戦後の日本は一気に国の経済が成長する高度成長期に突入します。団塊の世代は、ちょうど高度成長期に会社に入社。日本の企業や経済の成長を支えました。働く場所が豊富にあったため、中学を卒業したあと故郷を離れて集団就職する若者も少なくありませんでした。

家庭の経済事情により学歴に差があることも団塊の世代の特徴。貧しい家庭の子どもは中学卒業後に就職。ゆとりがある家庭では高校までは進学させました。大学に行けるのはかなりゆとりがある家庭の子どものみ。とはいえ、男女差別が残っており、「女性には学問は不要」という考え方も根強く残っていました。

集団就職する若者の心境を歌ったものが井沢八郎さんの「あゝ上野駅」。10代半ばで親元を離れて仕事をする苦労が歌われました。上野駅に到着する集団就職列車は東北発。故郷を離れるときはみんな涙を流して親に別れを告げました。青森県弘前市出身の井沢八郎がさんが、たまたま上野駅で見かけた集団就職の若者たちを見て、応援する気持ちで作ったそうです。

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若年時代は反体制運動に熱中した団塊の世代

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団塊の世代は、戦争を経験していないものの、戦争の記憶が濃厚に残っている日本に生まれました。そのため反戦意識がとても高く、学生運動やデモに参加することも多々ありました。そのため「憲法第9条」に思い入れがある人も少なくありません。

インテリは毛沢東思想や反ベトナム戦争を支持

団塊の世代はこれまでの価値観に対して疑問を持ち、日本の伝統から距離をとろうとする傾向があります。団塊の世代の一部は民主主義に疑問をもち、その反動として中国の毛沢東思想に傾倒することもありました。

また、1950年代から1970年代にかけて激化したベトナム戦争に反対する立場もとります。大学生が中心となりベトナム戦争の中止を訴えるデモがたびたびおこなわれました。反戦意識が強くあらわれた音楽が流行したのもこの時代です。

フォークソングにはさまざまな種類があるが、もともとはアコースティックギターやバンジョーなどを演奏しながら歌うもの。日本では独自に発展して、引き語りをしながら権威の腐敗に怒りをぶつけるスタイルが目立つようになりました。しかしながら学生運動が停滞したあとは大手レコード会社のプロデュースのもと、大衆的な内容のフォークソングがヒット。吉田拓郎、南こうせつ、荒井由実などの人気歌手を生み出しました。

東大紛争終焉後は破壊的に行為から距離をとる

団塊の世代の反戦運動を引っ張ったのは大学に通うインテリ層です。そのメッカのひとつが東大。大学を運営する方法をめぐって、一部の学生と大学当局が対立。学生たちば大学の民主化や医学部研修生の待遇の改善などを訴えました。

東大紛争は新左翼を巻き込んで過激化。安田行動を武力行使で占拠するものの退去させられました。過激化する行為で気持ちが冷めてしまい、安田行動占拠をきっかけに、学生運動から撤退する人が続出したとも言われています。

結婚後の団塊の世代は集合住宅で生活

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団塊の世代が結婚するタイミングになると住宅が不足する事態に陥ります。そこで登場したのが集合住宅。ひとつの建物にたくさんの部屋をつくり、大量入居を実現させました。

大企業は集合住宅を社宅として生活を支援

団塊の世代のライフスタイルを思い出させる集合住宅は今でも各所にあります。その代表格が団地。ひとつの区画に大量の集合住宅をつくり、何千人もの家庭が住めるようにしました。近くにはスーパーや自商店街が形成され、その地域の発展にも寄与します。

従業員の生活を支えるために大企業は集合住宅を社宅に利用。そこに社員を住まわせました。そこで社員とその家族が同じ建物のなかで生活することになります。会社の上下関係が日々の生活に持ち込まれて苦労する会社員やその妻も多かったというのも納得ですね。

女性は専業主婦、子どもは2人の家族像が定着

団塊の世代は、集合住宅が整備されたことに加え、お見合いよりも恋愛結婚が増えたことで、早々に実家を離れました。そこで親からは独立した核家族を形成するようになります。

男女差別が残っていたこと、政府が専業主婦を優遇する制度を作ったことなどから、仕事を辞めて家庭に入る女性がほとんどでした。団塊の世代が理想として家族構成は夫と妻に2人の子ども。女性は25歳までに結婚するのが当たり前とする風潮がありました。

団塊の世代は、夫は会社の組織社会で、妻は社宅の組織社会で生きることに。とくに妻は夫の出世の状況により社宅での立ち位置が変化。また、妻の社宅での立ち振る舞いが夫の出世に影響したという逸話もあります。今でも社宅にそういう一面が残っていそうですね。

団塊の世代の一斉退職で懸念された2007年問題

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団塊の世代は日本の歴史のなかでも一気に人口が増加した世代。そのため団塊の世代が一気に退職したあと日本の企業や社会にどのような影響が出るのか懸念されるようになりました。退職ピークの時期から2007年問題と名付けられました。

人材確保を目的に高齢者雇用を制度化

団塊の世代は高度経済成長期に日本を支え、とくに製造業などのものづくり分野で貢献した人が多いという特徴があります。そこで人材が一気に去ることを懸念し、定年後も一定の条件のもと働き続けられる高齢者雇用を制度化する企業が出てきました。

2006年4月に「改正高齢者雇用安定法」が成立。65歳まで働き続けることを推奨する仕組みが作られました。高齢者雇用は、働き盛りの世代よりも安い給与で雇用できることもあり、とくに大企業は積極的に導入しました。今でも「再雇用」という形でこの制度は定着しています。

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シニア海外ボランティアに従事する団塊の世代も

団塊の世代の特徴は働くことが好きということ。そこで定年後は自分の経験や技術を活かし、シニアボランティアとして海外に渡る人も出てきました。おもに発展途上地域に渡航し、製造技術や農業技術を伝えることで、国際交流を促進させました。

なかでも活躍の場を広げたのがエンジニアです。中国や東南アジア諸国に製造メーカーが多数進出。そこで技術を伝えるために現地で再就職するケースも増えました。団塊の世代が日本人が海外で働く基盤を作ったと言ってもいいかもしれません。

日本のものづくりを支えた団塊の世代

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団塊の世代と言えば日本をものづくり大国に押し上げたことを忘れてはならないでしょう。日本の高度経済成長を加速させた要因のひとつが製造業の急成長。団塊の世代はさまざまなかたちで製造メーカーの業務に携わりました。

団塊の世代が成長させた製造業

団塊の世代の時代に成長したのが自動車メーカー。トヨタ、日産、ホンダなどが急成長し、下請けの会社も多数生まれました。また、住宅ローンが浸透したこともあり、働き盛りのタイミングでマイホームを取得する家庭が増加。そこで成長したのがミサワホームです。

核家族化が進んだことで「一家に一台」という考え方が増加。家電を購入する家庭が増えてきます。車に加えてテレビ、冷蔵庫。電話などの売り上げが大きく伸びました。そこでソニー、シャープ、NECなどが頭角をあらわすことに。海外に進出した製造メーカーも多く、今でも日本は自動車や家電のイメージが強く残っています。

組織化された年功序列と終身雇用で保護された

ものづくりで急成長した日本の企業は社員を手厚く保護します。会社の規模が大きくなるにつれて厳格に組織化。社長、部長、課長、係長、そのほかの細かい役職が作られ、年齢により序列化されました。当時はまじめに働いてさえいれば、年齢と共に役職と給与がアップすると信じられていました。

また、いちど就職したら定年までその会社で働ける終身雇用も定着。極端な言い方をすれば、能力が十分でなくても、まじめに働いていれば雇用が保証されていたのです。今とくらべたら、雇用の安定性という面では、恵まれた世代でした。

終身雇用は、働く側としては恵まれている一面もあるが、長らく同じ会社にいると甘えが出てくるのが自然な流れ。また、有能な人材がいても会社に迎え入れることが難しくなるデメリットがあります。実は、終身雇用が一般的な国は少なく、基本的に海外では「実力主義」「能力主義」が当たり前。また、日本は不況に陥ったことで終身雇用を保証することもできなくなりました。そのため今の日本では、終身雇用はあいまいな形となっています。

団塊の世代は私たちの「今」と密接に関連

団塊の世代は日本の人口構成に大きな影響を与えました。団塊の世代の人口の多さからその後の世代は就職難に陥った、医療費の税金負担が大きくなったなど、ネガティブに捉えられることも少なくありません。しかしながら今の日本の経済的安定をもたらしたのも団塊の世代。さまざまな角度から私たちの生活との関連を見ていくことで、団塊の世代がもたらしたものが理解できるようになるでしょう。

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日本史昭和

昭和の日本の成長を支えた「団塊の世代」とは何か?時代背景や特徴を元大学教員が5分でわかりやすく解説

若年時代は反体制運動に熱中した団塊の世代

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団塊の世代は、戦争を経験していないものの、戦争の記憶が濃厚に残っている日本に生まれました。そのため反戦意識がとても高く、学生運動やデモに参加することも多々ありました。そのため「憲法第9条」に思い入れがある人も少なくありません。

インテリは毛沢東思想や反ベトナム戦争を支持

団塊の世代はこれまでの価値観に対して疑問を持ち、日本の伝統から距離をとろうとする傾向があります。団塊の世代の一部は民主主義に疑問をもち、その反動として中国の毛沢東思想に傾倒することもありました。

また、1950年代から1970年代にかけて激化したベトナム戦争に反対する立場もとります。大学生が中心となりベトナム戦争の中止を訴えるデモがたびたびおこなわれました。反戦意識が強くあらわれた音楽が流行したのもこの時代です。

フォークソングにはさまざまな種類があるが、もともとはアコースティックギターやバンジョーなどを演奏しながら歌うもの。日本では独自に発展して、引き語りをしながら権威の腐敗に怒りをぶつけるスタイルが目立つようになりました。しかしながら学生運動が停滞したあとは大手レコード会社のプロデュースのもと、大衆的な内容のフォークソングがヒット。吉田拓郎、南こうせつ、荒井由実などの人気歌手を生み出しました。

東大紛争終焉後は破壊的に行為から距離をとる

団塊の世代の反戦運動を引っ張ったのは大学に通うインテリ層です。そのメッカのひとつが東大。大学を運営する方法をめぐって、一部の学生と大学当局が対立。学生たちば大学の民主化や医学部研修生の待遇の改善などを訴えました。

東大紛争は新左翼を巻き込んで過激化。安田行動を武力行使で占拠するものの退去させられました。過激化する行為で気持ちが冷めてしまい、安田行動占拠をきっかけに、学生運動から撤退する人が続出したとも言われています。

結婚後の団塊の世代は集合住宅で生活

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団塊の世代が結婚するタイミングになると住宅が不足する事態に陥ります。そこで登場したのが集合住宅。ひとつの建物にたくさんの部屋をつくり、大量入居を実現させました。

大企業は集合住宅を社宅として生活を支援

団塊の世代のライフスタイルを思い出させる集合住宅は今でも各所にあります。その代表格が団地。ひとつの区画に大量の集合住宅をつくり、何千人もの家庭が住めるようにしました。近くにはスーパーや自商店街が形成され、その地域の発展にも寄与します。

従業員の生活を支えるために大企業は集合住宅を社宅に利用。そこに社員を住まわせました。そこで社員とその家族が同じ建物のなかで生活することになります。会社の上下関係が日々の生活に持ち込まれて苦労する会社員やその妻も多かったというのも納得ですね。

女性は専業主婦、子どもは2人の家族像が定着

団塊の世代は、集合住宅が整備されたことに加え、お見合いよりも恋愛結婚が増えたことで、早々に実家を離れました。そこで親からは独立した核家族を形成するようになります。

男女差別が残っていたこと、政府が専業主婦を優遇する制度を作ったことなどから、仕事を辞めて家庭に入る女性がほとんどでした。団塊の世代が理想として家族構成は夫と妻に2人の子ども。女性は25歳までに結婚するのが当たり前とする風潮がありました。

団塊の世代は、夫は会社の組織社会で、妻は社宅の組織社会で生きることに。とくに妻は夫の出世の状況により社宅での立ち位置が変化。また、妻の社宅での立ち振る舞いが夫の出世に影響したという逸話もあります。今でも社宅にそういう一面が残っていそうですね。

団塊の世代の一斉退職で懸念された2007年問題

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団塊の世代は日本の歴史のなかでも一気に人口が増加した世代。そのため団塊の世代が一気に退職したあと日本の企業や社会にどのような影響が出るのか懸念されるようになりました。退職ピークの時期から2007年問題と名付けられました。

人材確保を目的に高齢者雇用を制度化

団塊の世代は高度経済成長期に日本を支え、とくに製造業などのものづくり分野で貢献した人が多いという特徴があります。そこで人材が一気に去ることを懸念し、定年後も一定の条件のもと働き続けられる高齢者雇用を制度化する企業が出てきました。

2006年4月に「改正高齢者雇用安定法」が成立。65歳まで働き続けることを推奨する仕組みが作られました。高齢者雇用は、働き盛りの世代よりも安い給与で雇用できることもあり、とくに大企業は積極的に導入しました。今でも「再雇用」という形でこの制度は定着しています。

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