今回は、政権奪取を現実的な目標としながらも、わずか2年でその活動を終えた政党である「民進党」について学んでいこう。

短命に終わった民進党を振り返ることで、政党同士の合併や連携など、政党のあり方について再考できるはずです。

民進党が短命に終わった理由や歴代党首、それに希望の党との合流などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

民主党政権の成立から下野まで

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まずは、民進党の前身である民主党について振り返ってみましょう。

鳩山内閣が成立するも1年持たず

1996(平成8)年に、当時の新党さきがけや社会民主党らの一部が合流し、民主党が結成されました。さらにその2年後には民政党などが、2003(平成15)年には自由党も加わり、その時点で野党第一党となります。そして、2009(平成21)年の総選挙で大勝し、民主党はついに政権与党となりました。

そういった経緯で成立した鳩山由紀夫内閣でしたが、総辞職まで1年かかりませんでした。事業仕分けなどは注目を集めましたが、沖縄の普天間基地移設などでつまずきます。組閣当時の高い支持率は急激に低下してしまい、献金問題なども重なった結果、鳩山内閣は退陣に追い込まれてしました。

菅と野田の内閣も長続きせず

鳩山内閣が総辞職した後、民主党の代表選挙で当選した菅直人が総理となりました。しかし、代表選挙で争った小沢一郎らのグループとの対立が深刻化します。さらに2011(平成23)年に起きた東日本大震災の対応をめぐる批判をかわしきれなかったため、菅内閣も1年あまりで総辞職となりました。

次の野田佳彦内閣でも、民主党の内部対立は収まりませんでした。小沢グループ以外にも党を離脱する者は相次ぎ、次の総選挙までにその数は100人を超えました。その総選挙で民主党は大敗し、約3年続いた民主党政権は終わりを迎えます。

下野後に浮上できなかった民主党

再び野党となった民主党の代表に海江田万里が就任。次の内閣(ネクストキャビネット)を復活させるなどをして、党の立て直しを図りました。しかし、それでも民主党離党の動きは止みませんでした。2013年(平成25)の参議院選挙で敗れ、それでも2014年(平成26)の衆議院総選挙では議席数を回復させましたが、海江田が小選挙区と比例代表でともに落選しました。

民主党の役員は国会議員から選ぶという党規約により、海江田は代表を辞任。代表選挙で当選した岡田克也が、9年ぶりに民主党代表へ返り咲きました。

民主党から民進党へ

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政権を手放した民主党は、その後民進党へと変わります。それまでにどのような経緯をたどったのでしょうか。

\次のページで「大阪維新の会が国政進出を目指す」を解説!/

大阪維新の会が国政進出を目指す

2010(平成22)年、橋下徹を中心として、大阪都構想を実現させるための政治団体である大阪維新の会が結成されます。10年たった現在、後継政党は関西で一大勢力となりました。大阪府を中心に、これまで多くの首長や議員を送り出しています。

その大阪維新の会が母体となり、国政進出を念頭にして2012(平成23)年に結成された政党が日本維新の会です。当時は自民党・民主党に次ぐ第三極として注目を集め、2012年の総選挙では野党第2の党へと躍進しました。しかし、当時日本維新の会の共同代表を務めた橋下と石原慎太郎が対立し、党は2つに分かれることとなります。

橋下徹の政治家引退

橋下徹と決別した石原慎太郎とそのグループは日本維新の会を離脱。のちに自民党と合流することになります。

一方橋下は、日本維新の会を解散させ、結いの党を解散させた江田憲司らと合流。新たに維新の党を結成し、橋下と江田の2人が共同代表となりました。2014(平成25)年の総選挙では前回とほぼ同じ議席数でしたが、翌年に行われた最初の大阪都構想の住民投票は反対票多数で否決。橋下は任期満了後の大阪市長選挙には出馬せず、政治家を引退すると発表しました。

民進党の結党

大阪都構想が否決され、維新の党は松野頼久を新しい代表に選出しました。しかし、野党再編をうかがう松野に反旗を翻す者が次々と現れ、彼らはおおさか維新の会結成へと向かいます。

残った松野らは、民主党との連携を図りました。2015(平成26)年には、衆議院の統一会派を結成。翌年に民主党が維新の党を吸収合併することで両者は合意します。そして、2016(平成27)年3月に民進党の結党大会が開かれ、代表を岡田克也にすることなどが承認されました。

短命に終わった民進党としての活動

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民主党が維新の党を取り込む形で結成された民進党。結党後の活動はどのようなものだったのでしょうか。

民進党が掲げた政策はどのようなものであったか

民進党はリベラル・中道左派の政党でした。憲法第9条に自衛隊を明記することに反対し、原発ゼロ実現などを政策として掲げていました。これらは政権与党の自民党とは違う立場を取っています。

また、党の綱領では生活者や働く者などの立場に立つ・既得権や癒着の構造と闘うなどと明記し、市民に寄り添う政党であることを強調しました。多様性を認め、男女共同参画を推進させるなど、近年クローズアップされたマイノリティ問題にも言及しています。東日本大震災の復興実現も綱領に盛り込まれていました。

都知事選と参院選で存在感を示せず

民進党の結党から3か月となる2016(平成28)年7月の参議院選挙では、民進党・日本共産党・社会民主党・生活の党が合意して、候補者を1本化させました。しかし、与党の自民、公明両党とおおさか維新の会が議席を増やす結果に。共産・社民・生活はほぼ現状維持でしたが、民進党だけは議席数を減らしました。

さらに、参院選からわずか3週間後に実施されたのが東京都知事選挙でした。参院選で統一候補を送り込んだ野党4党は、ジャーナリストの鳥越俊太郎を推薦。しかし、鳥越や自公などが推薦した増田寛也らを破り、小池百合子が初当選しました。

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蓮舫が代表に就くも都議会議員選で敗北

都知事選から2か月後の2016(平成28)年9月、民進党の代表選挙が行われました。それまで民進党の代表を務めていた岡田克也は、参院選などの責任を取る形で出馬しませんでした。結果は蓮舫が圧勝し、岡田の後任となりました。

土井たか子以来野党第一党の女性党首となった蓮舫。期待の声は大きかったのですが、2017(平成29)年の都議会議員選挙で敗れると、その勢いを一気に失いました。さらには自身の二重国籍問題なども重なり、蓮舫は1年たたずして代表の座から退くことになったのです。

頓挫した希望の党との合流

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民進党のターニングポイントとなったのが、希望の党との合流構想です。なぜ民進党は希望の党と接近し、そして合流構想は頓挫したのでしょうか。

小池百合子の新党構想

2016年の東京都知事選挙で当選した小池百合子は、かつて所属した自民党などの推薦を得ないまま選挙戦を戦いました。よって、そのまま都政を担おうとすれば、議会はすべて野党となる状況でした。そこで小池は、自らの選挙戦に協力してくれた都議会議員を中心とする会派を立ち上げました。それが都民ファーストの会です。

都民ファーストの会は翌年の都議会議員選挙で大勝し、過半数の議席を獲得しました。都で政治基盤を固めた小池は、さらに国政進出をも狙おうと動いていたのです。

希望の党との合流を決断する民進党

2017(平成29)年9月25日、北朝鮮問題や消費増税などに対する国民の信を問うのを目的として、当時の安倍晋三首相が衆議院の解散を決めたと表明しました。同じ日に小池百合子都知事は、国政政党である希望の党立ち上げを発表。総選挙への意欲を見せたのです。

それに呼応したのが、蓮舫の後に民進党の代表となった前原誠司でした。小池と前原が極秘のうちに対談し、民進党が希望の党に合流にすることなどが取り決められました。総選挙に向けては一大勢力として戦うことを決意しましたが、それにより結党からまもなくして民進党を解散させることになります。

相次ぐ民進党からの離党

民進党の立場で言えば、党を解散させてまで希望の党と合流し、与党に対抗できることをアピールしたかったはずです。しかし、小池百合子は、希望の党が提示する政策に合わない議員は排除すると言い切りました。この「排除の論理」が持ち上がったことで、すべての民進党議員が希望の党に合流できるわけではないという憶測が流れます。

特にリベラル系議員の反発はすさまじく、枝野幸男をはじめとするグループは立憲民主党を立ち上げて、希望の党と完全に袂を分かちました。また、一部の議員は無所属のまま立候補を決意するなど、合流を断念する議員が続出する始末でした。結党直後は大きかった希望の党への期待感が、次第に薄れていきました。

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民進党の解体

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希望の党との合流が不調に終わった民進党は、そこから一気に存在意義を失います。総選挙出馬から民主党が消滅するまでの流れを駆け足で見ていきましょう。

立憲民主党に後塵を拝する

2017(平成29)年の衆院選に、希望の党からは小選挙区と比例区を合わせて200人以上の公認候補が立候補しました。小池百合子都知事にも出馬の噂は流れましたが、都政に専念するという意向から出馬しませんでした。おおさか維新の会から2016(平成28)年から党名変更した日本維新の会(2014年解散の政党とは別)とも候補者を1本化するなど、他の野党との選挙協力も進みました。

選挙の結果、希望の党は小選挙区と比例区で合わせて50議席にとどまり、政権奪取には程遠い結果に。55議席を獲得した立憲民主党をも下回る結果となりました。自民党は単独でも過半数の議席を得て、自公の連立が維持されるという結果でした。

民進党と希望の党との合併

民進党が希望の党と合併するという賭けは実らず、これを主導した前原誠司は責任を取って代表を辞任しました。合併話は撤回され、民進党はその時点では存続していくことが決まります。新たに大塚耕平が党の代表となりました。

党としては分かれてしまったものの、もとは民進党にいたグループと統一会派として手を組もうとする動きもあったようです。しかし、立憲民主党からは断られたばかりか、民進党の内部からも反発がありました。民進党を離党して、立憲民主党に加わる議員が相次ぐような有様でした。

国民民主党の結党と民進党の消滅

2018(平成30)年に入り、改めて民進党と希望の党とで合併する話が沸き起こりました。しかし、両党から反発の声が挙がり、民進党から立憲民主党へ鞍替えするという動きが加速。結局、集まったのは衆参合わせて60人あまりと、立憲民主党を上回ることができませんでした。

手続きとしては、希望の党から一部の議員が民進党に合流する形を取り、政党名を国民民主党と改めました。代表には大塚耕平と、希望の党から合流した玉木雄一郎が共同で就任。党名変更を届け出たことにより、民進党はわずか2年でその歴史を終えることになりました。

政党同士の安易な連携は良い結果を生まない!

新たに政権を担える政党として大きな期待が寄せられていた民進党は、希望の党との連携により勢力拡大を図りました。しかし、その連携は思ったようには進まず、逆に勢力を削ぐ形となったのです。民主党と維新の党との合併で生まれた民進党は、希望の党との合併によりわずか2年で消滅してしまいました。議席数を求めるばかりに理念や政策が違う政党同士が連携しても、必ずしも良い結果は生まれないことを肝に銘じるべきでしょう。

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現代社会

3分で簡単「民進党」なぜ短命に終わった?歴代党首や希望の党との合流などを行政書士試験合格ライターがわかりやすく解説

今回は、政権奪取を現実的な目標としながらも、わずか2年でその活動を終えた政党である「民進党」について学んでいこう。

短命に終わった民進党を振り返ることで、政党同士の合併や連携など、政党のあり方について再考できるはずです。

民進党が短命に終わった理由や歴代党首、それに希望の党との合流などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

民主党政権の成立から下野まで

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まずは、民進党の前身である民主党について振り返ってみましょう。

鳩山内閣が成立するも1年持たず

1996(平成8)年に、当時の新党さきがけや社会民主党らの一部が合流し、民主党が結成されました。さらにその2年後には民政党などが、2003(平成15)年には自由党も加わり、その時点で野党第一党となります。そして、2009(平成21)年の総選挙で大勝し、民主党はついに政権与党となりました。

そういった経緯で成立した鳩山由紀夫内閣でしたが、総辞職まで1年かかりませんでした。事業仕分けなどは注目を集めましたが、沖縄の普天間基地移設などでつまずきます。組閣当時の高い支持率は急激に低下してしまい、献金問題なども重なった結果、鳩山内閣は退陣に追い込まれてしました。

菅と野田の内閣も長続きせず

鳩山内閣が総辞職した後、民主党の代表選挙で当選した菅直人が総理となりました。しかし、代表選挙で争った小沢一郎らのグループとの対立が深刻化します。さらに2011(平成23)年に起きた東日本大震災の対応をめぐる批判をかわしきれなかったため、菅内閣も1年あまりで総辞職となりました。

次の野田佳彦内閣でも、民主党の内部対立は収まりませんでした。小沢グループ以外にも党を離脱する者は相次ぎ、次の総選挙までにその数は100人を超えました。その総選挙で民主党は大敗し、約3年続いた民主党政権は終わりを迎えます。

下野後に浮上できなかった民主党

再び野党となった民主党の代表に海江田万里が就任。次の内閣(ネクストキャビネット)を復活させるなどをして、党の立て直しを図りました。しかし、それでも民主党離党の動きは止みませんでした。2013年(平成25)の参議院選挙で敗れ、それでも2014年(平成26)の衆議院総選挙では議席数を回復させましたが、海江田が小選挙区と比例代表でともに落選しました。

民主党の役員は国会議員から選ぶという党規約により、海江田は代表を辞任。代表選挙で当選した岡田克也が、9年ぶりに民主党代表へ返り咲きました。

民主党から民進党へ

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政権を手放した民主党は、その後民進党へと変わります。それまでにどのような経緯をたどったのでしょうか。

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