ミケランジェロ・ブオナローティは、イタリアルネサンスの全盛期に活躍した歴史的に有名な芸術家の一人。彫刻家、画家、建築家、詩人、社会活動家として活躍した。彼が制作した作品が美術館や博物館で展示されると、世界中から多数のファンが殺到する。代表作はピエタとダヴィデ像ですが、ほかにも多数。

ミケランジェロは、西洋美術史の全ての芸術家に多大なる影響を与えているため、教科書で関連する情報を目にすることは多いでしょう。そんなミケランジェロの生涯や名画や天井画などの作品について解説していこう。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化や歴史を専門とする元大学教員。仕事でイタリアに行く機会が多く、フィレンツェやローマは大好きな観光地の一つ。時間がある限り大聖堂や礼拝堂などの聖母像を見て回っている。そこでイタリアのアートを代表する存在のミケランジェロについて調べてみることにした。

ミケランジェロとはどのような芸術家?

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ミケランジェロの本名はミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ。1475年3月6日に生まれ、1564年2月18日に亡くなりました。亡くなったときの年齢は88歳。当時としてはかなりのご長寿でした。

さまざまな種類の作品を作った万能の芸術家

ミケランジェロが活躍したのはルネサンス期のイタリア。ミケランジェロの芸術家としての肩書は多岐に渡ります。ざっと触れると、彫刻家、画家、建築家、詩人、社会活動家など。西洋美術の歴史のあらゆる側面に影響を与え、ルネサンス期を代表する作品を数多く制作しています。

そんな多才なミケランジェロですが、彼自身が力を入れていたのは彫刻。それ以外の分野の作品は制作しているものの、数はそれほど多くありません。それにも関わらず歴史的に重要な作品と位置づけられています。ルネサンス期の理想とされたのは「万能」であること。そんな万能性を象徴する人物の一人がミケランジェロです。

書簡や回想などから生涯が詳細に分かる

ルネサンス期には歴史的に重要な人物がたくさんいますが、詳細が分からないことが多数です。しかしながらミケランジェロについては書簡、回想、スケッチなどが残存。そのため幼少期から晩年に至るまでミケランジェロの人生の詳細が把握することが可能となりました。

また、当時としては珍しく、生きているあいだに伝記が出版されたことでも知られています。西洋美術家としては初の快挙。それだけ当時のヨーロッパで際立った存在だったのでしょう。ミケランジェロが登場する伝記のひとつがジョルジョ・ヴァザーリ『画家・彫刻家・建築家列伝』。芸術家の頂点に君臨していると大絶賛されています。

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フィレンツェ共和国にて誕生したミケランジェロ

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ミケランジェロが生れたのは1475年3月6日。現在のイタリアのトスカーナ州アレッツォの周辺にあるフィレンツェ共和国、カプレーゼという地域でした。父親はルドヴィーコ・ディ・レオナルド・ディ・ブオナローティ・シモーニ、母親はフランチェスカ・ディ・ネリ・デル・ミニアート・シエーナでした。

母親はミケランジェロが6歳のときに死去

ミケランジェロの父親は、もともと銀行業を営んでいましたが失敗。フィレンツェ共和国の政府臨時職員として働いていました。母親の詳細は不明ですが、本人はトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサの末裔と自称していたそうです。それが本当であるのかは分かりません。

のちにミケランジェロの父親は、大理石採石場と小さな農園を経営するようになります。母親のフランチェスカは長いあいだ病気を患っており、長く闘病していました。ミケランジェロが6歳のときに母親は病死。ミケランジェロは、乳母の乳を飲んで育ったとのこと。石工の一家と一緒に住んでおり、そこで彫刻の素養を高めたと回想しています。

メディチ家が創設したプラトン・アカデミーに参加

母親が亡くなったあと、父親のルドヴィーコはミケランジェロに学問を学ばせようとしました。しかしながらミケランジェロ少年は学問に無関心。画家などとの交流を好むようになります。そしてミケランジェロは画家ドメニコ・ギルランダイオに弟子入り。14歳の若さで独り立ちすることを許されます。

ギルランダイオは、ミケランジェロをフィレンツェの権力者であるロレンツォ・デ・メディチに推薦。プラトン・アカデミーという人文主義のプライベートサークルに参加することになります。そこで一流の芸術家や知識人と交流。芸術家としての才能をさらに高めていきました。ロレンツォ・デ・メディチに依頼により制作された、ケンタウロスの戦いという作品も残っています。

フィレンツェの政争に翻弄された青年ミケランジェロ

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恵まれた環境のなかで創作活動をしていたミケランジェロ。それが一転する出来事がおこります。それがパトロンとして経済的支援を受けていたロレンツォ・デ・メディチの死去。潤沢な資金をもつメディチ家の庇護から離れることを余儀なくされました。

パトロンだったロレンツォ・デ・メディチの死去

ロレンツォ・デ・メディチはメディチ家最盛時の当主。肩書はないものの、当時のフィレンツェ共和国を支配していました。とても気前がいい人物で一般市民にも大盤振る舞い。当時の若手芸術家のパトロンとして、潤沢な資金を惜しみなく使っていました。ロレンツォ・デ・メディチがルネサンス芸術を開花させたと言ってもいいでしょう。

早い段階でミケランジェロに彫刻の才能を見出した人物。自分の屋敷に住まわせて生活の面倒をみていました。彼自身、芸術に対する造詣が深く、すぐれた批評も残しています。メディチ家は痛風の持病に苦しんでおり、ロレンツォもその一人。痛風の血筋を断ち切るために結婚相手を選んだという逸話も。晩年は寝たきりになったすえに亡くなりました。

フィレンツェ外のメディチ家のサポートにより創作活動継続

後ろ盾を失ったミケランジェロは父親のもとへ帰ります。ミケランジェロは、修道院付属病院で亡くなった人の身体をもらい受け、人体の仕組みの研究に没頭。それにより、さらに詳細な彫刻を制作しようと考えたのです。遺体を提供していた修道院長の依頼によりキリスト磔刑像を制作。現在、サント・スピリト教会に残っています。

フィレンツェを支配していたメディチ家は政争に負けて失墜。そこでミケランジェロはフィレンツェ外のメディチ家の支援を頼り、ボローニャに転居します。政争が落ち着いたころにフィレンツェに戻りましたが新政府から仕事の依頼を受けることはできませんでした。そこでミケランジェロは、フィレンツェに落ち着いたあとも外のメディチ家の支援を頼ります。

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代表作のピエタが生れたのはローマ活動時代

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1496年、ミケランジェロが21歳のときにローマに移動。そこで創作活動を再開します。彼をローマに招いたのが枢機卿ラファエーレ・リアーリオ。ローマ滞在期間に、ミケランジェロの代表作のひとつとなる彫刻ピエタが生れます。

教皇庁のフランス大使からピエタ制作を依頼

ミケランジェロの代表作であるピエタの制作が打診されたのが1497年11月。ローマ教皇庁のフランス大使が依頼者でした。ピエタは、サン・ピエトロのピエタ、フィレンツェのピエタ、パレストリーナのピエタ、ロンダニーニのピエタの4体から構成される彫刻作品。聖母子像として位置づけられています。

ピエタはの基本的なモチーフは、磔刑に処されたあとに十字架から降ろされたイエス・キリストの亡骸を抱く聖母マリア。ルエネサンス期の理想が集約された最高傑作と言われています。この作品の特徴は、大理石の一枚岩から制作された彫刻であること。これまでのピエタでは年老いたマリアの悲しみが強調されてきましたが、ミケランジェロはマリアを若々しい女神として形作りました。

ジャニコロの丘にミケランジェロの住居が存在

ローマにいたころのミケランジェロはロレート聖母教会周辺に住まいを構えていました。実際の住まいは1874年に取り壊されました。新たな所有者が遺構を保存していましたがそれも破壊。ミケランジェロの住まいは、ジャニコロの丘に復元されています。

ジャニコロの丘は「現代のローマ七丘」の一つ。ヴァチカンの丘の南側に広がっています。ローマ市内を一望できる、ペトロ殉教の地とされていることから、有数の観光スポットとして知られるように。ペトロ殉教を祈念するサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会が建てられています。

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ミケランジェロはフィレンツェ共和国に戻りダヴィデ像を制作

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メディチ家のフィレンツェ追放の主な首謀者だったのが聖職者ジロラモ・サヴォナローラ。ルネサンス芸術に対して否定的な立場をとる人でもありました。そんなサヴォナローラが失脚したことをきっかけにミケランジェロはフィレンツェに戻ります。

ダヴィデ像はフィレンツェの自主性のシンボル

ミケランジェロがフィレンツェに戻ったのが1499年から1501年のあいだ。2年ほどにすぎません。しかしながらこの時期に、資金の枯渇などから中断していた彫刻群の制作が再開され、代表作のダヴィデ像が生れます。ダヴィデの彫刻の制作の意図はフィレンツェの自主性をあらわすことでした。

フィレンツェ滞在中に完成することはなく、1503年以降はほかの仕事を並行させながら完成させました。ダヴィデ像の配置場所は二転三転するものの、最終的にヴェッキオ宮殿の入口脇に決定。もともとドナテッロのブロンズ像が置かれていました。それを撤去することで反メディチ家という立場を意図します。メディチ家の支援を受けてきたミケランジェロにとっては複雑な結果となりました。

人体に関する詳細な知識のもと制作された

ダヴィデ像の芸術的な評価はさまざまありますが、そのひとつが人体に関する詳細な知識のもと制作されたこと。これまでミケランジェロは人体を正確に彫刻するために解剖を続けていました。その成果がダヴィデ像で結実したと言えるでしょう。

ミケランジェロが目指していたのは彫刻に魂を宿らせること。魂が宿っている彫刻こそが理想であるというミケランジェロの信念をあらわした作品です。ただ、細かく図っていくと、均衡がとれていない箇所がいくつもあるとのこと。均衡がとれた状態で鑑賞できるように、あえて不均衡にしていると推測されています。

ミケランジェロはルネサンスの異端児だった

ミケランジェロは自分を彫刻家としてとらえていましたが、絵画の分野でも頭角をあらわします。代表作がシスティーナ礼拝堂天井画。その一部である最後の審判は、キリストの再臨から現世の終末に至る前の流れを描く壮大で複雑な作品です。最後の審判ではキリストも聖母マリアも衣服を纏っていません。それは当時としては冒涜。そういう点では、ミケランジェロはルネサンスの理想であると同時に反逆者でもあったのかもしれません。その真意を知るのは本人のみですが、どんな意図で制作したのか想像してみるのもいいですね。

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イタリアヨーロッパの歴史世界史

ルネサンスを代表する万能の人「ミケランジェロ」とはどんな人?才能あふれる生涯について元大学教員が5分でわかりやすく解説

ミケランジェロ・ブオナローティは、イタリアルネサンスの全盛期に活躍した歴史的に有名な芸術家の一人。彫刻家、画家、建築家、詩人、社会活動家として活躍した。彼が制作した作品が美術館や博物館で展示されると、世界中から多数のファンが殺到する。代表作はピエタとダヴィデ像ですが、ほかにも多数。

ミケランジェロは、西洋美術史の全ての芸術家に多大なる影響を与えているため、教科書で関連する情報を目にすることは多いでしょう。そんなミケランジェロの生涯や名画や天井画などの作品について解説していこう。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化や歴史を専門とする元大学教員。仕事でイタリアに行く機会が多く、フィレンツェやローマは大好きな観光地の一つ。時間がある限り大聖堂や礼拝堂などの聖母像を見て回っている。そこでイタリアのアートを代表する存在のミケランジェロについて調べてみることにした。

ミケランジェロとはどのような芸術家?

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ミケランジェロの本名はミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ。1475年3月6日に生まれ、1564年2月18日に亡くなりました。亡くなったときの年齢は88歳。当時としてはかなりのご長寿でした。

さまざまな種類の作品を作った万能の芸術家

ミケランジェロが活躍したのはルネサンス期のイタリア。ミケランジェロの芸術家としての肩書は多岐に渡ります。ざっと触れると、彫刻家、画家、建築家、詩人、社会活動家など。西洋美術の歴史のあらゆる側面に影響を与え、ルネサンス期を代表する作品を数多く制作しています。

そんな多才なミケランジェロですが、彼自身が力を入れていたのは彫刻。それ以外の分野の作品は制作しているものの、数はそれほど多くありません。それにも関わらず歴史的に重要な作品と位置づけられています。ルネサンス期の理想とされたのは「万能」であること。そんな万能性を象徴する人物の一人がミケランジェロです。

書簡や回想などから生涯が詳細に分かる

ルネサンス期には歴史的に重要な人物がたくさんいますが、詳細が分からないことが多数です。しかしながらミケランジェロについては書簡、回想、スケッチなどが残存。そのため幼少期から晩年に至るまでミケランジェロの人生の詳細が把握することが可能となりました。

また、当時としては珍しく、生きているあいだに伝記が出版されたことでも知られています。西洋美術家としては初の快挙。それだけ当時のヨーロッパで際立った存在だったのでしょう。ミケランジェロが登場する伝記のひとつがジョルジョ・ヴァザーリ『画家・彫刻家・建築家列伝』。芸術家の頂点に君臨していると大絶賛されています。

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