現代社会

3分で簡単「吉田茂」生い立ちや数々の解散・サンフランシスコ平和条約などを歴史好きライターがわかりやすく解説

造船疑獄で総辞職に追い込まれる吉田内閣

1954(昭和29)年、政府の造船計画とその関連法案をめぐる汚職事件が発覚しました。業界幹部や政官界の大物などが次々と逮捕される大事件へと発展します。

捜査の手は当時の与党である自由党にも及びました。吉田茂も証人喚問を要求されましたが、病気などを理由に出頭せず。自由党幹事長(当時)の佐藤栄作にいたっては逮捕状が請求されましたが、犬養健法務大臣が重要法案の審議中を理由に指揮権を発動し、逮捕を先送りしました(結果逮捕せず)。この造船疑獄がきっかけとなって吉田は内閣総辞職に追い込まれ、第5次まで続いた吉田内閣は終焉を迎えたのです。

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憲政史上、5度も総理に指名されたのは吉田茂しかいない。また、一度総理を辞した者が再び総理に返り咲いた例も、吉田茂と安倍晋三の2人だけだ。

総理大臣を辞任した後の吉田茂

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憲政史上類を見ない、5度も総理に指名された吉田茂。総理を辞した後はどのような政治家生命を送ったのでしょうか。

のちに自由民主党に入党して威光を示す

総理を辞した吉田茂は、1955(昭和30)年の自由民主党結党には参加しませんでした。しかし、池田勇人が仲介する形でのちに入党します。池田といえば、いわゆる吉田学校の中心人物の1人です。

政治家経験のほとんどなかった吉田が初めて内閣を組閣したとき、各省庁から有能な人材を集めて彼らをまとめ上げたのでした。そこには池田勇人や佐藤栄作など、のちに総理となるものが多く名を連ねました。吉田は彼らの後見人として、総理を辞した後も威光を示していたのです。吉田は1960年までに総選挙で7回当選しましたが、1963(昭和38)年の総選挙には出馬せず、政界を引退しました。

政界引退後の吉田茂

政界引退後も、吉田の自宅には連日政治家が次々と訪れ、依然として残る政界への影響力の大きさを表していました。その様子は大磯詣でと例えられ、吉田を元老とみなしたものもいたほどです。また、外交官時代からの手腕を生かして、中国や台湾などとの外交を橋渡ししています。

晩年も、回顧録に代表される数々の著作を世に送り出していました。しかし、1967(昭和42)年、佐藤栄作が総理大臣のときに吉田は死去。戦後初の国葬が日本武道館で執り行われました。

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吉田の総理在職中には、数々の重要法案が成立したぞ。教育基本法・学校教育法に労働三法、公職選挙法や独占禁止法など、すべて吉田内閣で成立したものだ。日本国憲法も吉田内閣の時代に公布・施行したな。

吉田茂は戦後日本の道筋を確立させた!

数々の舌禍事件や解散劇が印象的な吉田茂ですが、総理大臣在職中に今でも施行されている数々の法律を成立させたことを忘れてはなりません。そして、サンフランシスコ平和条約を批准したことにより、日本が独立国家として再出発できたことは何よりも重要です。領有権の争いなどは依然として残ったままですが、吉田の功績なくして今の日本はなかったといっても過言ではありません。

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