
3分で簡単「吉田茂」生い立ちや数々の解散・サンフランシスコ平和条約などを歴史好きライターがわかりやすく解説
サンフランシスコ平和条約の意義とは

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吉田茂が実現させた最重要政策といえるのが、サンフランシスコ平和条約の締結です。実現までにはどのようないきさつがあったのでしょうか。
なぜ終戦から条約締結まで6年もかかったのか?
講和条約を結んで連合国軍による占領を終結させようという動き自体は、終戦直後からありました。しかし、第二次世界大戦後も冷戦状態となって欧米諸国と社会主義国家が対立し、日本がすべての国と講和条約を結ぶのは難しい状態でした。
しかし、1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争で東西の対立が顕著になると、日米間のみなど国ごとの単独講和もやむなしの論調が強まりました。そして、1951(昭和26)年に首相の吉田茂を主席全権として、日本はサンフランシスコで行われた講和会議に参加。当時のソ連など批准しなかった国や、中国など会議に参加しなかった国もありましたが、48の連合国と日本との間で平和条約締結を実現させました。
サンフランシスコ平和条約の内容は?
サンフランシスコ平和条約を批准したことにより、日本と他国との戦争状態が正式に終結しました。それにより、朝鮮半島の独立を認めるなど、日本が戦争によって得た数々の権限や請求権を放棄することになります。連合国軍が日本から撤退することも決まりました。しかし、米軍の日本駐留や領土問題など、依然として残る問題もあります。
また、日本国民の主権回復が正式に保障されたことも、この平和条約で重要な事項です。日本の集団的自衛権が認められ、安全保障条約に参加できるようになりました。憲法上の争いはありますが、自衛隊の設立はそのことが根拠となっています。
抜き打ち解散後に第4次吉田内閣成立
サンフランシスコ平和条約の締結により、GHQは日本から撤退しました。すると、公職追放されていた鳩山一郎が処分を解かれて自由党(1950年に民主自由党と民主党の一部が合流)に復帰し、吉田茂に退陣を要求します。GHQの撤退を実現させたタイミングは、吉田にとってきりが良かったのかもしれません。
しかし、吉田は政権運営に意欲を失うことはありませんでした。身内でもあるはずの鳩山派を封じるために、なんと衆議院を解散させました。それが抜き打ち解散と呼ばれるものです。結果としては鳩山派の議席を失わせましたが、自由党全体の議席も減らすことになりました。
バカヤロー解散と造船疑獄

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サンフランシスコ平和条約を発効させた後も政権運営に意欲を見せた吉田茂ですが、次第にその勢いは失われていきます。その一部始終を見ていきましょう。
バカヤロー解散するも第5次吉田内閣へ
1953(昭和28)年、衆議院予算委員会をきっかけに与野党が激しく対立する事態となりました。詰問された吉田茂が思わず「バカ野郎」とつぶやき、それをマイクが拾って野党議員の耳に入ったのです。発言は取り消されましたが、そのことで内閣不信任案が提出されました。しかも鳩山一郎ら約30名が離党して不信任決議で賛成に回ったため、吉田は衆議院を解散せざるをえませんでした。
いわゆるバカヤロー解散をもって行われた総選挙は、与党の自由党が過半数を大きく割り込む結果に。改進党の閣外協力を得て、どうにか第5次吉田内閣を成立させました。
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