現代社会

3分で簡単「吉田茂」生い立ちや数々の解散・サンフランシスコ平和条約などを歴史好きライターがわかりやすく解説

選挙未経験で総理総裁に

1946(昭和21)年4月、戦後初の衆議院総選挙が行われました。当時の日本自由党が第一党となったのですが、過半数の議席を獲得できませんでした。日本進歩党の幣原喜重郎総理は、日本社会党と連携することで内閣を継続させようとしましたが、各党からの猛反発にあったことで結局総辞職することとなります。

そうなった場合には、日本自由党の総裁であった鳩山一郎が組閣する資格を有していたのですが、鳩山はGHQから公職追放の処分を受けてしまいました。そこで白羽の矢が立ったのが吉田茂でした。吉田は何度も固辞しましたが、鳩山の説得に折れる形で日本自由党の総裁に就任し、内閣総理大臣となったのです。

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吉田茂が初めて総理になったときはまだ大日本帝国憲法下にあったため、国会議員ではなくても総理になれたのだ。当時の吉田は貴族院議員ではあったのだが、総選挙の洗礼はまだ受けていなかった。よって、日本国憲法が改正されない限り、吉田茂は総選挙で当選せずに日本国首相となった最後の人物となるぞ。

下野するも返り咲く吉田茂

image by iStockphoto

総理大臣となった吉田茂は、その後解散と組閣を繰り返します。いったいどのような経緯でそうなったのでしょうか。

衆院選に初当選するも下野

日本国憲法が公布されたことにより、日本の内閣総理大臣は国会議員であることが求められるようになります。また、貴族院を廃止して参議院を置いたため、吉田茂は1947(昭和22)年の総選挙に日本自由党から立候補しました。吉田は当時の中選挙区(高知全県区・定員5)で見事トップ当選を果たします。

しかし、与党第一党の座は日本社会党に奪われてしまいました。社会党は吉田を首相に据えたまま与党として協力する道を模索しましたが、吉田はこれを拒否。内閣総辞職をして社会党に政権を明け渡しました。

民主自由党結党と第2次吉田内閣

総選挙での結果を受けて吉田内閣が総辞職したのち、日本初の社会党を中心とする片山哲内閣が立ち上げられました。しかし、社会党内部での対立などで政権運営に行き詰まり、1年も持たずに片山内閣は倒れる事態となります。その後に続いた芦田均内閣も、戦後最大級の疑獄である昭和電工事件に巻き込まれ、数ヶ月で崩壊しました。

下野していた吉田は、民主党を離党した幣原喜重郎や田中角栄らの民主クラブと合流。合併により民主自由党を立ち上げ、吉田が初代総裁となりました。その後の首班氏名で吉田が総理大臣となり、民主自由党単独で第2次吉田内閣を発足させます。

馴れ合い解散後の第3次吉田内閣

第2次吉田内閣が成立したものの、与党の民主自由党は過半数の議席を有していなかったため、野党が不信任案を提出すれば可決される見込みが予想されました。しかし、昭和電工事件の影響で負けるのが予想できた野党側が解散を歓迎しませんでした。結局は、GHQの介入などで衆議院は第2次吉田内閣組閣後からわずか2ヶ月で解散となりました。

このように、与野党が予想した通りに衆議院が解散したため、一連の動きは馴れ合い解散と呼ばれます。選挙の結果は、やはり野党側が敗れて民主自由党が圧勝。すぐさま第3次吉田内閣が成立しました。

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2021年にも行われた日本国憲法第7条に基づく衆議院解散は、馴れ合い解散が初めてだったぞ。憲法第69条のみが解散の根拠とみなされていた当時に、吉田内閣が7条も根拠となるという解釈を持ち出して、衆議院解散に持ち込んだのだ。

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