今回は、戦後の日本を復興させる道筋を作った政治家、吉田茂について学んでいこう。

彼の生い立ちや数々の衆議院解散劇、それに彼の集大成ともいえるサンフランシスコ平和条約について、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

趣味はスポーツ観戦や神社仏閣巡りなどと多彩。幅広い知識を駆使して様々なジャンルに対応できるwebライターとして活動中。

政治家になる前の吉田茂はどのような人物だったのか

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個性的な言動で戦後の日本を牽引した吉田茂。果たして政治家になる前はどのように過ごしたのでしょうか。

養子の身から東大へ

1878(明治11)年、東京で元土佐藩士の実業家、竹内綱の五男として吉田茂は生まれます。竹内は炭鉱や鉄道などの経営に尽力し、衆議院議員も務めた人物です。しかし、茂の母親の身元は現在でも特定されていません。

茂は3歳のときに竹内の親友で実業家の吉田健三の養子となりました。11歳のときに養父は亡くなり、巨額の遺産を手にするのですが、養母のもとで茂は厳しく育てられます。そのかいもあり、茂は学習院高等学科(現在の学習院大学)と東京帝国大学法科大学(現在の東京大学大学院)を卒業しました。

外交官として活躍

大学を卒業した吉田茂は、外交官試験を受けて合格。しかし、欧米勤務が出世コースとされる風潮で、吉田はまず中国の領事館に勤務することとなりました。その後、イギリス大使なども経験しましたが、外交官としてのキャリアの大半を中国で過ごすことになります。

外務次官などを務めたのち、1939(昭和14)年に外務省を退官。その後は戦争終結に向けての外交工作に奔走しましたが、1945(昭和20)年軍部によって逮捕されました。約40日間拘留される事態となったのですが、戦後にマッカーサーが吉田を懇意にするなど、その経験が生きることになったのです。

終戦から吉田茂が総理大臣に就任するまで

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戦時中は外交に尽力した吉田茂ですが、当時の彼は政治家ではありませんでした。そんな彼が、なぜ戦後の日本を託される政治家となったのでしょうか。

外務大臣として入閣

日本国憲法下の現在でも、国会議員以外の者が大臣に任命されることがあります。戦前の吉田茂も、外交手腕を買われて外務大臣に推されたことがありました。しかし、軍部が停戦工作に動く吉田の就任を阻んだとされます。

終戦後、吉田は東久邇宮稔彦王内閣の外務大臣として迎えられました。それが吉田の政治家としての第一歩となります。続く幣原喜重郎内閣でも外相となり、終戦直後における日本の外交を一身に引き受けたのです。それと同時に、勅命のみで選挙を必要としない貴族院議員にも選出されました。

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選挙未経験で総理総裁に

1946(昭和21)年4月、戦後初の衆議院総選挙が行われました。当時の日本自由党が第一党となったのですが、過半数の議席を獲得できませんでした。日本進歩党の幣原喜重郎総理は、日本社会党と連携することで内閣を継続させようとしましたが、各党からの猛反発にあったことで結局総辞職することとなります。

そうなった場合には、日本自由党の総裁であった鳩山一郎が組閣する資格を有していたのですが、鳩山はGHQから公職追放の処分を受けてしまいました。そこで白羽の矢が立ったのが吉田茂でした。吉田は何度も固辞しましたが、鳩山の説得に折れる形で日本自由党の総裁に就任し、内閣総理大臣となったのです。

下野するも返り咲く吉田茂

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総理大臣となった吉田茂は、その後解散と組閣を繰り返します。いったいどのような経緯でそうなったのでしょうか。

衆院選に初当選するも下野

日本国憲法が公布されたことにより、日本の内閣総理大臣は国会議員であることが求められるようになります。また、貴族院を廃止して参議院を置いたため、吉田茂は1947(昭和22)年の総選挙に日本自由党から立候補しました。吉田は当時の中選挙区(高知全県区・定員5)で見事トップ当選を果たします。

しかし、与党第一党の座は日本社会党に奪われてしまいました。社会党は吉田を首相に据えたまま与党として協力する道を模索しましたが、吉田はこれを拒否。内閣総辞職をして社会党に政権を明け渡しました。

民主自由党結党と第2次吉田内閣

総選挙での結果を受けて吉田内閣が総辞職したのち、日本初の社会党を中心とする片山哲内閣が立ち上げられました。しかし、社会党内部での対立などで政権運営に行き詰まり、1年も持たずに片山内閣は倒れる事態となります。その後に続いた芦田均内閣も、戦後最大級の疑獄である昭和電工事件に巻き込まれ、数ヶ月で崩壊しました。

下野していた吉田は、民主党を離党した幣原喜重郎や田中角栄らの民主クラブと合流。合併により民主自由党を立ち上げ、吉田が初代総裁となりました。その後の首班氏名で吉田が総理大臣となり、民主自由党単独で第2次吉田内閣を発足させます。

馴れ合い解散後の第3次吉田内閣

第2次吉田内閣が成立したものの、与党の民主自由党は過半数の議席を有していなかったため、野党が不信任案を提出すれば可決される見込みが予想されました。しかし、昭和電工事件の影響で負けるのが予想できた野党側が解散を歓迎しませんでした。結局は、GHQの介入などで衆議院は第2次吉田内閣組閣後からわずか2ヶ月で解散となりました。

このように、与野党が予想した通りに衆議院が解散したため、一連の動きは馴れ合い解散と呼ばれます。選挙の結果は、やはり野党側が敗れて民主自由党が圧勝。すぐさま第3次吉田内閣が成立しました。

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サンフランシスコ平和条約の意義とは

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吉田茂が実現させた最重要政策といえるのが、サンフランシスコ平和条約の締結です。実現までにはどのようないきさつがあったのでしょうか。

なぜ終戦から条約締結まで6年もかかったのか?

講和条約を結んで連合国軍による占領を終結させようという動き自体は、終戦直後からありました。しかし、第二次世界大戦後も冷戦状態となって欧米諸国と社会主義国家が対立し、日本がすべての国と講和条約を結ぶのは難しい状態でした。

しかし、1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争で東西の対立が顕著になると、日米間のみなど国ごとの単独講和もやむなしの論調が強まりました。そして、1951(昭和26)年に首相の吉田茂を主席全権として日本はサンフランシスコで行われた講和会議に参加。当時のソ連など批准しなかった国や、中国など会議に参加しなかった国もありましたが、48の連合国と日本との間で平和条約締結を実現させました。

サンフランシスコ平和条約の内容は?

サンフランシスコ平和条約を批准したことにより、日本と他国との戦争状態が正式に終結しました。それにより、朝鮮半島の独立を認めるなど、日本が戦争によって得た数々の権限や請求権を放棄することになります。連合国軍が日本から撤退することも決まりました。しかし、米軍の日本駐留や領土問題など、依然として残る問題もあります。

また、日本国民の主権回復が正式に保障されたことも、この平和条約で重要な事項です。日本の集団的自衛権が認められ、安全保障条約に参加できるようになりました。憲法上の争いはありますが、自衛隊の設立はそのことが根拠となっています。

抜き打ち解散後に第4次吉田内閣成立

サンフランシスコ平和条約の締結により、GHQは日本から撤退しました。すると、公職追放されていた鳩山一郎が処分を解かれて自由党(1950年に民主自由党と民主党の一部が合流)に復帰し、吉田茂に退陣を要求します。GHQの撤退を実現させたタイミングは、吉田にとってきりが良かったのかもしれません。

しかし、吉田は政権運営に意欲を失うことはありませんでした。身内でもあるはずの鳩山派を封じるために、なんと衆議院を解散させました。それが抜き打ち解散と呼ばれるものです。結果としては鳩山派の議席を失わせましたが、自由党全体の議席も減らすことになりました。

バカヤロー解散と造船疑獄

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サンフランシスコ平和条約を発効させた後も政権運営に意欲を見せた吉田茂ですが、次第にその勢いは失われていきます。その一部始終を見ていきましょう。

バカヤロー解散するも第5次吉田内閣へ

1953(昭和28)年、衆議院予算委員会をきっかけに与野党が激しく対立する事態となりました。詰問された吉田茂が思わず「バカ野郎」とつぶやき、それをマイクが拾って野党議員の耳に入ったのです。発言は取り消されましたが、そのことで内閣不信任案が提出されました。しかも鳩山一郎ら約30名が離党して不信任決議で賛成に回ったため、吉田は衆議院を解散せざるをえませんでした。

いわゆるバカヤロー解散をもって行われた総選挙は、与党の自由党が過半数を大きく割り込む結果に。改進党の閣外協力を得て、どうにか第5次吉田内閣を成立させました。

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造船疑獄で総辞職に追い込まれる吉田内閣

1954(昭和29)年、政府の造船計画とその関連法案をめぐる汚職事件が発覚しました。業界幹部や政官界の大物などが次々と逮捕される大事件へと発展します。

捜査の手は当時の与党である自由党にも及びました。吉田茂も証人喚問を要求されましたが、病気などを理由に出頭せず。自由党幹事長(当時)の佐藤栄作にいたっては逮捕状が請求されましたが、犬養健法務大臣が重要法案の審議中を理由に指揮権を発動し、逮捕を先送りしました(結果逮捕せず)。この造船疑獄がきっかけとなって吉田は内閣総辞職に追い込まれ、第5次まで続いた吉田内閣は終焉を迎えたのです。

総理大臣を辞任した後の吉田茂

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憲政史上類を見ない、5度も総理に指名された吉田茂。総理を辞した後はどのような政治家生命を送ったのでしょうか。

のちに自由民主党に入党して威光を示す

総理を辞した吉田茂は、1955(昭和30)年の自由民主党結党には参加しませんでした。しかし、池田勇人が仲介する形でのちに入党します。池田といえば、いわゆる吉田学校の中心人物の1人です。

政治家経験のほとんどなかった吉田が初めて内閣を組閣したとき、各省庁から有能な人材を集めて彼らをまとめ上げたのでした。そこには池田勇人や佐藤栄作など、のちに総理となるものが多く名を連ねました。吉田は彼らの後見人として、総理を辞した後も威光を示していたのです。吉田は1960年までに総選挙で7回当選しましたが、1963(昭和38)年の総選挙には出馬せず、政界を引退しました。

政界引退後の吉田茂

政界引退後も、吉田の自宅には連日政治家が次々と訪れ、依然として残る政界への影響力の大きさを表していました。その様子は大磯詣でと例えられ、吉田を元老とみなしたものもいたほどです。また、外交官時代からの手腕を生かして、中国や台湾などとの外交を橋渡ししています。

晩年も、回顧録に代表される数々の著作を世に送り出していました。しかし、1967(昭和42)年、佐藤栄作が総理大臣のときに吉田は死去。戦後初の国葬が日本武道館で執り行われました。

吉田茂は戦後日本の道筋を確立させた!

数々の舌禍事件や解散劇が印象的な吉田茂ですが、総理大臣在職中に今でも施行されている数々の法律を成立させたことを忘れてはなりません。そして、サンフランシスコ平和条約を批准したことにより、日本が独立国家として再出発できたことは何よりも重要です。領有権の争いなどは依然として残ったままですが、吉田の功績なくして今の日本はなかったといっても過言ではありません。

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3分で簡単「吉田茂」生い立ちや数々の解散・サンフランシスコ平和条約などを歴史好きライターがわかりやすく解説

今回は、戦後の日本を復興させる道筋を作った政治家、吉田茂について学んでいこう。

彼の生い立ちや数々の衆議院解散劇、それに彼の集大成ともいえるサンフランシスコ平和条約について、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

趣味はスポーツ観戦や神社仏閣巡りなどと多彩。幅広い知識を駆使して様々なジャンルに対応できるwebライターとして活動中。

政治家になる前の吉田茂はどのような人物だったのか

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個性的な言動で戦後の日本を牽引した吉田茂。果たして政治家になる前はどのように過ごしたのでしょうか。

養子の身から東大へ

1878(明治11)年、東京で元土佐藩士の実業家、竹内綱の五男として吉田茂は生まれます。竹内は炭鉱や鉄道などの経営に尽力し、衆議院議員も務めた人物です。しかし、茂の母親の身元は現在でも特定されていません。

茂は3歳のときに竹内の親友で実業家の吉田健三の養子となりました。11歳のときに養父は亡くなり、巨額の遺産を手にするのですが、養母のもとで茂は厳しく育てられます。そのかいもあり、茂は学習院高等学科(現在の学習院大学)と東京帝国大学法科大学(現在の東京大学大学院)を卒業しました。

外交官として活躍

大学を卒業した吉田茂は、外交官試験を受けて合格。しかし、欧米勤務が出世コースとされる風潮で、吉田はまず中国の領事館に勤務することとなりました。その後、イギリス大使なども経験しましたが、外交官としてのキャリアの大半を中国で過ごすことになります。

外務次官などを務めたのち、1939(昭和14)年に外務省を退官。その後は戦争終結に向けての外交工作に奔走しましたが、1945(昭和20)年軍部によって逮捕されました。約40日間拘留される事態となったのですが、戦後にマッカーサーが吉田を懇意にするなど、その経験が生きることになったのです。

終戦から吉田茂が総理大臣に就任するまで

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戦時中は外交に尽力した吉田茂ですが、当時の彼は政治家ではありませんでした。そんな彼が、なぜ戦後の日本を託される政治家となったのでしょうか。

外務大臣として入閣

日本国憲法下の現在でも、国会議員以外の者が大臣に任命されることがあります。戦前の吉田茂も、外交手腕を買われて外務大臣に推されたことがありました。しかし、軍部が停戦工作に動く吉田の就任を阻んだとされます。

終戦後、吉田は東久邇宮稔彦王内閣の外務大臣として迎えられました。それが吉田の政治家としての第一歩となります。続く幣原喜重郎内閣でも外相となり、終戦直後における日本の外交を一身に引き受けたのです。それと同時に、勅命のみで選挙を必要としない貴族院議員にも選出されました。

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