
3分で簡単「吉田茂」生い立ちや数々の解散・サンフランシスコ平和条約などを歴史好きライターがわかりやすく解説
彼の生い立ちや数々の衆議院解散劇、それに彼の集大成ともいえるサンフランシスコ平和条約について、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。
- 政治家になる前の吉田茂はどのような人物だったのか
- 養子の身から東大へ
- 外交官として活躍
- 終戦から吉田茂が総理大臣に就任するまで
- 外務大臣として入閣
- 選挙未経験で総理総裁に
- 下野するも返り咲く吉田茂
- 衆院選に初当選するも下野
- 民主自由党結党と第2次吉田内閣
- 馴れ合い解散後の第3次吉田内閣
- サンフランシスコ平和条約の意義とは
- なぜ終戦から条約締結まで6年もかかったのか?
- サンフランシスコ平和条約の内容は?
- 抜き打ち解散後に第4次吉田内閣成立
- バカヤロー解散と造船疑獄
- バカヤロー解散するも第5次吉田内閣へ
- 造船疑獄で総辞職に追い込まれる吉田内閣
- 総理大臣を辞任した後の吉田茂
- のちに自由民主党に入党して威光を示す
- 政界引退後の吉田茂
- 吉田茂は戦後日本の道筋を確立させた!
この記事の目次

ライター/タケル
趣味はスポーツ観戦や神社仏閣巡りなどと多彩。幅広い知識を駆使して様々なジャンルに対応できるwebライターとして活動中。
養子の身から東大へ
1878(明治11)年、東京で元土佐藩士の実業家、竹内綱の五男として吉田茂は生まれます。竹内は炭鉱や鉄道などの経営に尽力し、衆議院議員も務めた人物です。しかし、茂の母親の身元は現在でも特定されていません。
茂は3歳のときに竹内の親友で実業家の吉田健三の養子となりました。11歳のときに養父は亡くなり、巨額の遺産を手にするのですが、養母のもとで茂は厳しく育てられます。そのかいもあり、茂は学習院高等学科(現在の学習院大学)と東京帝国大学法科大学(現在の東京大学大学院)を卒業しました。
外交官として活躍
大学を卒業した吉田茂は、外交官試験を受けて合格。しかし、欧米勤務が出世コースとされる風潮で、吉田はまず中国の領事館に勤務することとなりました。その後、イギリス大使なども経験しましたが、外交官としてのキャリアの大半を中国で過ごすことになります。
外務次官などを務めたのち、1939(昭和14)年に外務省を退官。その後は戦争終結に向けての外交工作に奔走しましたが、1945(昭和20)年軍部によって逮捕されました。約40日間拘留される事態となったのですが、戦後にマッカーサーが吉田を懇意にするなど、その経験が生きることになったのです。
終戦から吉田茂が総理大臣に就任するまで

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戦時中は外交に尽力した吉田茂ですが、当時の彼は政治家ではありませんでした。そんな彼が、なぜ戦後の日本を託される政治家となったのでしょうか。
外務大臣として入閣
日本国憲法下の現在でも、国会議員以外の者が大臣に任命されることがあります。戦前の吉田茂も、外交手腕を買われて外務大臣に推されたことがありました。しかし、軍部が停戦工作に動く吉田の就任を阻んだとされます。
終戦後、吉田は東久邇宮稔彦王内閣の外務大臣として迎えられました。それが吉田の政治家としての第一歩となります。続く幣原喜重郎内閣でも外相となり、終戦直後における日本の外交を一身に引き受けたのです。それと同時に、勅命のみで選挙を必要としない貴族院議員にも選出されました。
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