下山事件とは戦後間もない日本で起きた事件で、国鉄が関係していることから他の国鉄関連の事件と合わせて「国鉄三大ミステリー事件」とも呼ばれているんです。そして今日まで事件は未解決のまま、事項を迎え迷宮入り。捜査は打ち切りになったものの事件の様々な見解が示唆されているんです。今日はその下山事件の起きた時代背景と、事件の詳細、事件をめぐる様々な見解まで含めて会社員ライターのけさまると一緒に見ていきます。

ライター/けさまる

普段は鉄鋼系の事務をしながら、大学時代の人文学科での経験を生かして執筆活動に取り組む。学生時代の研究テーマはイスラームについて。

下山事件とは

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不明 - http://otona.yomiuri.co.jp/history/assets_c/2009/06/anohi090705_02-3940.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

下山事件とは戦後間もない1949年に、当時の国鉄(現在のJR)総裁だった下山定則氏が出勤途中に送迎車から降りた後失踪し、その翌日に線路上で轢死体(電車にひかれた状態)となって発見された事件です。この時期、直近1ヶ月間に国鉄に関係した殺人事件が他に2件発生しており、下山事件を含むこの3件は「国鉄三大ミステリー」と呼ばれています。

<時代背景1>戦後日本の転換期

では1949年当時の社会はどのような状況だったのでしょうか。戦後間もない当時の日本は連合国軍の占領下にありました。世界情勢に目を向けると、アメリカとソ連の冷戦状態(資本主義のアメリカと社会主義のソ連の国際的対立)がすでに表面化しており、アメリカは日本の資本主義をさらに強化するべくドッジ・ラインという政策を実施し、これまで敷かれていた物価の統制を順次廃止し、自由競争を促進させました。これにより日本は世界市場復帰を果たした一方、国内ではデフレーションが進行し、「ドッジ不況」と呼ばれました。その他、物理学者の湯川秀樹氏がノーベル物理学賞を受賞したのもこの年でした。

<時代背景2>旧国鉄の方針転換

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国鉄は従来の国営(国が経営する)体制から、国有鉄道(最初の資本金は国が出資し、その後の経営は独立した会社として行う)へと方針転換を実施しました。これに伴い、国鉄赤字の要因の一つである多すぎる従業員の大規模リストラを実施することを決定しました。これを中心となって行ったのが、当時初代国鉄総裁に就任した下山定則氏でした。従業員が増えた要因の一つは戦争から戻った人々の働き口として大量に従業員を雇用していたことが挙げられ、リストラに際しては当時の労働組合によるストライキが起こるなど緊張が走りました。こうした背景があったため、下山氏の死については様々な憶測や考察が挙げられています。

事件の概要

当時国鉄の初代総裁に就任したばかりだった下山は、いつも通り送迎車に乗って出勤しました。その途中で日本橋の三越に寄るよう運転手に指示を出し、到着すると運転手をその場に待たせて一人三越の店内へと入っていきます。しかしその後、予定されていた重要な会議の時間になっても下山は送迎車に戻ることはなく失踪。そして翌日、足立区の立体交差部ガード下付近で轢死体となって発見されたのです。

失踪した国鉄総裁

失踪当日、下山は運転手に日本橋の三越に寄るよう指示を出しましたが、到着時点で開店前だったため周辺を車で走らせてから再度三越へ戻ってきました。そして運転手には5分程度で戻る旨を伝えて送迎車を後にします。しかし、日常的に下山は運転手を待たせて送迎車を降りることも多かったため、会議時間に下山が遅れたことで自宅に会議関係者から連絡が入るまで下山が失踪したことに誰も気づかなかったのでした。その後の調べで三越店内に下山の目撃情報があり、三越に入店したところまでは間違いないとされました。

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死後、線路上で発見

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失踪翌日、下山は轢死体となって発見されます。轢いたのは深夜に国鉄常盤線の下り方面を走る貨物列車でした。しかし、その後の調べで下山の死因は貨物列車に轢かれたことではなく、轢かれたのは死後である可能性が高いと判断されました。しかし、その一方で引かれたことが直接の死因であるとする意見もあり、捜査が二極化するポイントの一つとなったのです。

現場検証/保たれなかった証拠たち

捜査にとって肝心の遺体と現場の状況については遺体は損傷が激しく、生活反応等を検証することはできても直接の死因まで究明することはできませんでした。また、現場は当時雨が降っており、血液が流されていた可能性が高いとされたため、血液反応の大小が捜査に役立たなかったことも死因の2極化を招いた理由の一つです。

自殺という決着

その後も捜査上の意見は自殺(列車に轢かれたことが死因という主張)と他殺(死後列車に轢かれたという主張)で分かれますが、捜査一課はこの事件を自殺であると判断しました。しかし、当時日本を占領していたGHQからこの判断に待ったがかかり、自殺説の公式な発表は見送られました。捜査二課はその後も他殺の線で捜査を進めていきました。しかし、捜査二課の方で有力な他殺の根拠が見つかると、捜査一課は二課の捜査員たちをバラバラに分散異動させ、彼らの捜査を事実上強制終了させたのです。こうして事件は半ば強引に自殺として捜査の報告書が挙げられそのまま1964年に公訴時効が成立しました。

自殺か他殺か深まる謎

本事件では状況証拠はでてくるものの物証に乏しく、捜査の方向性を定めることも難航しました。死因が自殺か他殺かを分ける根拠となった物証の一つが、轢死体に出ていた生活反応(生きている動物のみに発生する変化)のある皮下出血が見られたことでした。実際に解剖を実施した法医学者はこれを「下山が生前暴行を受けたため生活反応が現れた」という見解から他殺を主張し、この結果に対して異を唱える形で「列車に轢かれた際についたのではないか」と主張した法医学者は自殺を主張しました。

この他、事件に際していち早く自殺のスクープを手に入れたメディアは報道の方向性を変えることなく自殺説を主張し、その他メディアが他殺を主張する、といった状況も発生していました。また、その他他殺を示す証拠品も微量ながら上がっていたものの、捜査は自殺説へと舵を切っていきました。

自殺を主張する声

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自殺説の根拠として登場するのが「下山白書」と呼ばれる捜査記録です。この下山白書には捜査時の下山の目撃情報が複数記録されています。そのなかで特に有力とされたのが、下山が事件前に訪れたとされている旅館の主婦の証言でした。そこには事件前の午後2時頃下山が一人で旅館を訪れて一休みし、その後午後5時半頃に旅館を出るまでの証言が残されています。証言した主婦は事件が報道された後、その客の容姿が下山に酷似していたため目撃情報を提供したのでした。他にもここから午後10時頃まで下山の目撃情報が連続しており、その記録をつなぎ合わせると夜中に下山が線路に向かい自殺したとする説が濃厚となるのです。

自殺という決着への不信

しかし、この自殺説に対しては反対意見も多く、世論はむしろ他殺説に傾倒していました。他殺を主張する根拠としては、下山白書の情報には自殺説と矛盾する切り捨てられた目撃情報が存在している点、そして下山の靴から検出された自殺説の行動記録に合致しない塗料の付着。まず下山白書に関して切り捨てられた証言を要約すると「開店まもなく三越の店内で3~4人の男たちと合流し、5階の事務所に向かう」という行動記録が新たに追加されることになり、その後の下山の死に合流した人物たちが関係している可能性も出てきます。2点目の付着した塗料については、他殺と仮定して下山がどこかに拉致され、殺害されるまでにいた場所で付着したのではないかというのが、他殺を主張する根拠ですが、この物証について本格的に捜査が行われることはありませんでした。

ここまで、自殺と他殺それぞれの主張を追ってきました。整理すると警察の捜査においては捜査一課自殺を主張し、二課(と東京地検)他殺を主張。法医学会は実際に解剖を実施した医師たちは他殺を主張し、これに対して一部勢力から自殺説を唱える声がありました。新聞メディアは新聞社によって自殺と他殺で報道内容が分かれていました。自殺の根拠となったのは目撃情報を集約した下山白書の存在と司法解剖結果。一方他殺の根拠となったのは同じく司法解剖結果と下山白書から除外された目撃証言、そして靴に付着した塗料の存在でした。

事件を取り巻く関係者

この事件には複数の団体の関連が考えられていました。戦後間もない日本の転換期だったこともあり、GHQの関連を指摘する声も多く寄せられています。しかし、その多くは謎に包まれたままです。

GHQとの関連

この事件については度々、GHQとの関連が取り上げられています。その理由は当時GHQが彼ら主導で実施されていた共産主義の弾圧にこの下山事件を利用しようとしていたという説があるためです。というのも、当時下山が総裁に就任した国鉄は大規模なリストラを実施する時期にありました。そこで、共産主義者対抗措置としてこの事件を起こしたというシナリオに世論を誘導することで、さらに共産主義の弾圧に拍車をかけようとした、というのがGHQ関連説の内容です。

\次のページで「亜細亜産業の存在」を解説!/

亜細亜産業の存在

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他殺説の根拠の一つとして挙げられている靴に付着した塗料の存在。この塗料の販売業者として事件との関連が考えられていたのが「亜細亜産業」という会社でした。ここでは染料だけでなく、軍需品を始め多くの製品を取り扱い、その取引先にはGHQも含まれていたと言われています。この会社は当時、下山が目撃された三越のお店のすぐ近くにありました。そして事件の関係者の出入りが確認されているため捜査線上に上がってきたのです。この会社は政界の人物とのつながりがささやかれるなど秘密結社的な一面が見られる一方で確実な情報は少なく、関与はあくまで一説となっています。

時効後も残る謎ー筆者考察

この事件においては後世まで注目されているのは前述のとおり「下山の轢死は自殺か他殺か」という点です。自殺と他殺それぞれに異なる機関の思惑が重なり、戦後間もない日本の混乱を物語っていると言えるのではないでしょうか。そして、この事件が半ば強引に自殺として処理されたのには、当時のGHQからの圧力をも押し返す思惑が働いていたと考えられます。

しかし、こうした思惑はメディアにおいてすべてが報道されるわけではありません。それは現代においても同じことです。事件の報道と私たちにもたらされる情報の間には必ず誰かの意図や思惑が反映されています。実質真相は未解決のままですが、真相を想像して思いを巡らせるだけでなく、なぜ自殺説で押し切る結果になったのかという事に目を向けることも重要ではないでしょうか。

後世に残る多くの創作

下山事件の発生から70年以上が経過し、時効成立からも60年近くの月日が流れました。国鉄という一大組織の大改編、戦後の混乱、転換期とも言われたこの年に起きた事件は書籍や映画の題材としても多く取り上げられました。真相は今となっては闇の中ですが、後世のこうした創作には著者それぞれの真相の考察が必ず存在します。こうした作品の中には警察の捜査でたどり着けなかった真実が紛れているのかもしれません。そしてこうした著作には、なぜ真相が謎のままなのかという考察も含まれています。

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現代社会

国鉄三大ミステリーとも呼ばれる「下山事件」とは?時代背景と事件の詳細、考察を含めて会社員ライターが分かりやすくわかりやすく解説!

下山事件とは戦後間もない日本で起きた事件で、国鉄が関係していることから他の国鉄関連の事件と合わせて「国鉄三大ミステリー事件」とも呼ばれているんです。そして今日まで事件は未解決のまま、事項を迎え迷宮入り。捜査は打ち切りになったものの事件の様々な見解が示唆されているんです。今日はその下山事件の起きた時代背景と、事件の詳細、事件をめぐる様々な見解まで含めて会社員ライターのけさまると一緒に見ていきます。

ライター/けさまる

普段は鉄鋼系の事務をしながら、大学時代の人文学科での経験を生かして執筆活動に取り組む。学生時代の研究テーマはイスラームについて。

下山事件とは

下山事件とは戦後間もない1949年に、当時の国鉄(現在のJR)総裁だった下山定則氏が出勤途中に送迎車から降りた後失踪し、その翌日に線路上で轢死体(電車にひかれた状態)となって発見された事件です。この時期、直近1ヶ月間に国鉄に関係した殺人事件が他に2件発生しており、下山事件を含むこの3件は「国鉄三大ミステリー」と呼ばれています。

<時代背景1>戦後日本の転換期

では1949年当時の社会はどのような状況だったのでしょうか。戦後間もない当時の日本は連合国軍の占領下にありました。世界情勢に目を向けると、アメリカとソ連の冷戦状態(資本主義のアメリカと社会主義のソ連の国際的対立)がすでに表面化しており、アメリカは日本の資本主義をさらに強化するべくドッジ・ラインという政策を実施し、これまで敷かれていた物価の統制を順次廃止し、自由競争を促進させました。これにより日本は世界市場復帰を果たした一方、国内ではデフレーションが進行し、「ドッジ不況」と呼ばれました。その他、物理学者の湯川秀樹氏がノーベル物理学賞を受賞したのもこの年でした。

<時代背景2>旧国鉄の方針転換

image by iStockphoto

国鉄は従来の国営(国が経営する)体制から、国有鉄道(最初の資本金は国が出資し、その後の経営は独立した会社として行う)へと方針転換を実施しました。これに伴い、国鉄赤字の要因の一つである多すぎる従業員の大規模リストラを実施することを決定しました。これを中心となって行ったのが、当時初代国鉄総裁に就任した下山定則氏でした。従業員が増えた要因の一つは戦争から戻った人々の働き口として大量に従業員を雇用していたことが挙げられ、リストラに際しては当時の労働組合によるストライキが起こるなど緊張が走りました。こうした背景があったため、下山氏の死については様々な憶測や考察が挙げられています。

事件の概要

当時国鉄の初代総裁に就任したばかりだった下山は、いつも通り送迎車に乗って出勤しました。その途中で日本橋の三越に寄るよう運転手に指示を出し、到着すると運転手をその場に待たせて一人三越の店内へと入っていきます。しかしその後、予定されていた重要な会議の時間になっても下山は送迎車に戻ることはなく失踪。そして翌日、足立区の立体交差部ガード下付近で轢死体となって発見されたのです。

失踪した国鉄総裁

失踪当日、下山は運転手に日本橋の三越に寄るよう指示を出しましたが、到着時点で開店前だったため周辺を車で走らせてから再度三越へ戻ってきました。そして運転手には5分程度で戻る旨を伝えて送迎車を後にします。しかし、日常的に下山は運転手を待たせて送迎車を降りることも多かったため、会議時間に下山が遅れたことで自宅に会議関係者から連絡が入るまで下山が失踪したことに誰も気づかなかったのでした。その後の調べで三越店内に下山の目撃情報があり、三越に入店したところまでは間違いないとされました。

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