3分で簡単「昭和の日」なぜ制定された?みどりの日との関係は?昭和という元号や昭和天皇などについて歴史好きライターがわかりやすく解説
昭和の日が制定された理由やみどりの日との関係、それに昭和という元号や昭和天皇などについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。
ライター/タケル
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なぜ昭和の日は制定された?
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まずは昭和の日が制定された経緯を見ていきましょう。
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もとは昭和天皇の誕生日
1988(昭和63)年までは、4月29日を天皇誕生日として祝日に定めていました。当時即位していた昭和天皇の誕生日です。天皇の誕生日が法律で祝日として定められたのは、昭和天皇が初めてでした。1948(昭和23)年のことです。
法律で定められる前、天皇の誕生日は天長節として祝われていました。少なくとも8世紀の光仁天皇の時代には天長節が祝われた記録があります。その後、天長節は一時廃れましたが、明治天皇の時代に復活しました。そして、大正時代を経て、昭和の初期まで天長節は続くことになります。
みどりの日を経て昭和の日へ
1989(昭和64)年1月7日に昭和天皇が崩御して、その子である明仁殿下が即位しました。それにより、天皇誕生日が12月23日に移動することとなります。その流れであれば、4月29日の祝日はなくなっていたのかもしれません。しかし、ゴールデンウィークを維持するためにそのまま祝日として残すこととなったのです。
1989(平成元)年からは、4月29日がみどりの日になりました。昭和天皇が植物に造詣が深かったことがその理由です。さらに2007(平成19)年から4月29日は昭和の日とし、みどりの日は5月4日に移動と改められました。
昭和に改元された頃はどのような時代だったのか
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では、昭和という時代はいったいどのようなものだったのでしょうか。まずは昭和に改元された頃から振り返ってみましょう。
1週間だけの昭和元年
1926(大正15)年、長年療養生活を続けていた大正天皇が崩御しました。その日のうちに、大正天皇の長男で摂政を務めていた皇太子の裕仁親王が即位すると、年号も昭和に改められました。
年号の出典は、中国の四書五経の一つである『書経』でした。「百姓(ひゃくせい)昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和す」から2文字を取って「昭和」としたのです。その日は12月25日だったため、31日には昭和元年が終わることとなり、年が明けた西暦1927年は昭和2年となりました。
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金融不安と軍部の台頭
昭和に入って間もなく、第一次世界大戦後の戦後不況と関東大震災の処理が重なり、金融恐慌が起こります。さらにはウォール街の株価大暴落を発端とした世界恐慌に巻き込まれ、日本でも昭和恐慌となって深刻な不況へと陥りました。経済の立て直しへ躍起になる当時の日本が目指したのは、植民地支配による勢力の拡大でした。
そういったことで、結果として軍部の台頭を許すことなります。その一部である関東軍は中国北東部を侵攻し、満州国を成立させました。五・一五事件や二・二六事件なども起こり、軍部はますます暴走します。ついには満州国撤退勧告に抗議する形で日本は国際連盟を脱退し、世界から孤立するようになったのです。
太平洋戦争の終結
1941(昭和16)年に日本がハワイの真珠湾を攻撃したことで、太平洋戦争が始まりました。はじめは日本軍が攻勢を強め、太平洋の島々と東南アジア、それに中国本土へまで侵攻するという状況でした。軍需物資の生産が最優先とされたために国民生活は困窮し、多くの若者が戦地や兵器工場に赴くよう強いられました。
しかし、連合国軍の反撃にあった日本は、徐々に戦局を悪くしていきます。その事実をひた隠しにしたまま戦いを続けましたが、日本の各地で空襲に遭い、広島と長崎には原子力爆弾を投下されました。日本がポツダム宣言を受諾したことで戦争は終結し、国民は敗戦の事実を昭和天皇による玉音放送で知ることになったのです。
戦後から昭和が終わるまではどのような時代だったのか
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太平洋戦争の終結後、日本は大きく変貌していくこととなります。そこから昭和が終わるまでの期間を一気に振り返っていきましょう。
高度経済成長に沸く日本
太平洋戦争に敗れた日本は、戦後復興が大きな課題となっていました。しかし、朝鮮戦争による特需景気をきっかけに、驚異的な復興を遂げることとなります。1956(昭和31)年に発表された経済白書には、「もはや戦後ではない」という言葉が記されたほどでした。
1950年代の「神武景気」や「岩戸景気」、1960年代の「オリンピック景気」や「いざなぎ景気」と好景気が立て続けに訪れて、日本は高度経済成長を迎えました。その結果、日本の国民総生産(GNP)は世界2位にまで上昇しています。1970年代以降も日本の経済は拡大を続け、株式や不動産の価格は平成のバブル崩壊まで急激に上昇していきました。
55年体制が継続する政界
一方政界は、戦時中にすべての政党が解体されたものの、終戦後には新しい政党が乱立して分裂や合流を繰り返しました。その結果、保守系の自由民主党と、革新系の日本社会党に大きく分かれることになります。いわゆる55年体制の始まりです。
1955(昭和30)年以降は自民党が政権を一貫して握り、それに社会党・公明党・共産党などといった野党が対立するという構図が続きました。結果として、55年体制は40年近く維持されることとなります。非自民系政党による8党の連立政権である細川護熙内閣が成立したのは、1993(平成5)年のことでした。
昭和天皇の崩御
1988(昭和63)年は、リクルート事件が問題化する一方で、日本はバブル景気に湧く年でした。その頃に昭和天皇が体調不良で入院するようになり、その病状はニュースなどで連日事細かに報道されました。それにつれて、多くのイベント中止やテレビ番組の差し替えなど、日本全体が自粛ムードに包まれるという状況でした。
翌1989年(昭和64)年1月7日に昭和天皇は崩御し、その日のうちに皇太子の明仁親王(現在の上皇陛下)が即位。元号は昭和から平成に改められました。そのような形で60年以上続いた激動の昭和という時代が終わったのです。
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