今回は、2012年より自民党と連立政権を維持して与党となっている公明党について取り上げていこう。

公明党の主な政策や代表となっている人物、それに政教分離問題などについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

公明党のはじまり

image by iStockphoto

まずは公明党がどのような過程を経て結党されたか説明していきましょう。

1956年に国政で初めての議席

戦後になり宗教法人としての規模を拡大させた創価学会。その中の文化部が、1950年代から政界進出に挑むようになります。国民の生活を変えるには政治を変える必要があると、当時の首脳部が考えたためです。はじめは無所属で出馬した候補者を、創価学会が支援するという形を取りました。

1956(昭和31)年の参議院選挙で3名の当選者を出した創価学会は、ここから国政に進出します。1961(昭和36)年には、さらにその勢いを強化させようと公明政治連盟を結成しました。のちの公明党となる団体です。

1964年に公明党と名を変える

1964(昭和39)年、公明政治連盟が改組され、名前も公明党に改められました。創価学会から組織を独立させるのがその理由です。結党大会は1万人以上の党員が集まる大規模なものでした。

1967(昭和42)年には衆参両院で合わせて45議席を獲得するようになり、自民党・社会党(当時)に続く第3の勢力としての地位を築くようになります。その頃から1980年代にかけては、社会党や民社党(当時)と連携を取って、自民党と対立する路線を歩んでいました。しかし、自民党の壁は高く、その間はずっと野党として活動するしかありませんでした。

公明党が掲げる政治理念とは?

image by iStockphoto

では、公明党はどのような政治理念を掲げているのでしょうか。

福祉に力を入れる

公明党は特に福祉政策に力を入れてきており、「福祉の党」と呼ぶ人もいるほどです。党の綱領にも「生命・生活・生存を最大に尊重する人間主義を貫く」「人間・人類の幸福追求を目的とする」といった文言が並んでいます。

障害者自立支援法を自民党とともに成立させ、障害者が福祉サービスを利用しやすくしました。2016(平成28)年に成立した無給年金者救済法により、年金受給資格期間が10年に短縮されています。1999(平成11)年の小渕内閣時代に発行された地域振興券や、消費税率を10%に引き上げた際に導入された軽減税率は、公明党の意向が強く反映されたものです。

\次のページで「中道主義を標榜」を解説!/

中道主義を標榜

結党以来、公明党は中道主義を保っていました。右派と左派どちらにも偏らない政治を行うというものです。公明党の綱領でも「人間主義イコール中道主義」であると掲げ、中正な政治を取り組もうとする姿勢がうかがえます。

中選挙区制度下の1960年代には、公明党など中道を標榜していた政党が勢力を伸ばしていました。しかし、現在の総選挙では小選挙区制を採用しているため、保守とリベラルといった二極化に向かっているのが現状です。よって、真の意味での中道を貫くことが難しくなっています。

現在の代表とは?

image by iStockphoto

公明党の最高責任者である党代表。そのポストを務めるのはいったいどんな人物なのでしょうか。

かつては代表という役職ではなかった

公明党が結成された当時、最高責任者に相当する役職は代表ではなく委員長でした。初代委員長には原島宏治が就任しましたが、間もなく急死します。その後を辻武寿が務め、3代目の竹入義勝は委員長を20年近く務めました。任期中には社公民3党による野党連合を実現させ、ロッキード事件に揺れる自民党を大敗に追い込んでいます。

1994(平成6)年の分党後、その片割れである公明と新党平和が合併して、公明党が再結成されたのは1998(平成10)年のことでした。その際に、委員長から現在の代表に改称されています。代表には、新党平和の代表を務めていた神崎武法が就任し、2006(平成18)年まで代表の座に収まりました。

2009年より山口那津男が代表を務める

神崎武法の後任として、後に安倍内閣で国土交通大臣を務めた太田昭宏が公明党の代表となりました。しかし、2009(平成21)年の総選挙で太田は落選し、党代表を辞任することとなります。その後任が、2021(令和3)年の現在まで代表を務める山口那津男です。

山口は、東京大学法学部を卒業後、司法試験に合格して弁護士となりました。1990(平成2)年に神崎武法の誘いを受けて衆議院総選挙に出馬し、当選します。その後、3期目を目指す選挙で落選しましたが、2001(平成13)年に参議院へ鞍替え出馬して当選。党の代表となってからは自民との連立政権を成立させ、2党の関係を調整する役割を担っています。

連立政権と公明党

image by iStockphoto

公明党はこれまで連立で政権に参加しています。それぞれどんな状況だったのかを見ていきましょう。

\次のページで「細川内閣の8党連立政権に参加」を解説!/

細川内閣の8党連立政権に参加

1993(平成5)年、自民党が小沢一郎らの造反により分裂し、さらに総選挙で惨敗して過半数の議席を維持できなくなりました。それらに乗じて自民党や共産党などを除く8つの政党が連立し、新しい政権を発足させます。それが細川護熙内閣です。公明党にとっては結党以来初となる政権参加でした。

公明党からは、当時の委員長だった石田幸四郎をはじめ4人が入閣します。発足当初の内閣の支持率は非常に高く、世間からは特に政治改革を期待されていました。しかし、国民福祉税構想の発表から支持率は急落します。結局、8党の足並みが揃わなくなったことも加わり、細川内閣は1年と持たず総辞職してしまいました。

羽田内閣に参加するも短命に

細川内閣の総辞職を受けて、羽田孜が内閣運営を引き継ぎます。公明党からは6人が入閣しました。しかし、連立から社会党(当時)が離脱し、連立政権は議会での過半数維持が困難になります。不信任決議案の可決が濃厚となった羽田内閣は、わずか2ヶ月で総辞職に追い込まれました。

自民党と社会党、それに新党さきがけの3党は、当時の社会党委員長だった村山富市を擁立して連立政権を樹立します。政権の座から降りた公明党は、のちに新進党(当時)に参加する公明新党と、そのまま残って創価学会の支持を受ける公明という2つの政党に分裂しました。しかし、1998年に公明が母体となり、公明党が再結成されています。

自公政権で安定多数

1994(平成6)年からの自社さ3党による連立は、やがて議席数を回復させた自民党の単独政権となります。しかし、幾度の野党再編を経て結成された民主党が2009(平成21)年の総選挙で圧勝し、再び自民党から政権を奪いました。その間の公明党は野党に甘んじるばかりでした。

2012(平成24)年の総選挙で自民党が圧勝すると、公明党との連立で政権の座に返り咲きました。それ以来、総選挙において自民党が単独で過半数を獲得しても、自公2党での連立政権は維持されています。その時期の歴代すべての内閣では、国土交通大臣を公明党の議員が務めることが既定路線となっているようです。

公明党と政教分離

image by iStockphoto

公明党について常に議論となるのが、政教分離の問題です。果たして公明党の存在は否定されるべきなのでしょうか。

言論出版妨害事件とは

1969(昭和44)年、政治評論家の藤原弘達が、創価学会と公明党を批判する内容の著書を出版する計画を立てていました。その中では、創価学会と公明党の関係は政教一致ではないかと述べています。その情報を察知した創価学会の関係者が、著書の書き直しや販売中止などを要求しました。

しかし、藤原は翻意せず、著書の出版に踏み切ります。すると、学会関係者が書店などに著書を販売しないよう働きかける事案が相次ぎました。国会でも議論となる騒ぎとなったため、当時の創価学会会長である池田大作が謝罪するという事態になったのです。これら一連の騒動を言論出版妨害事件と呼びます。

公明党の見解

公明党の公式ホームページには、公明党と創価学会との関係や、政教分離についての見解が記されています。もちろん政教一致を肯定したものではありません。そういった批判を全く的外れなものと一蹴している状況です。

それによると、憲法が規制対象としているものを国家権力と解釈しています。国家権力が特定の宗教を擁護したり、国民に強制したりすることが憲法違反であるとしているのです。そして、創価学会という宗教団体が、公明党という政党を支援することはなんら憲法違反にはならないと述べています。

\次のページで「政権与党に公明党がいることの是非」を解説!/

政権与党に公明党がいることの是非

確かに言論出版妨害事件は憲法に抵触する問題でした。しかし、それ以降は創価学会並びに関連団体がそれに類する大きな騒動を起こしたと報告されていません。また、憲法では宗教団体の政治参加を禁じていませんし、公明党の綱領も宗教色が薄められたものに変えられています。

しかし、日本国憲法第20条には、「いかなる宗教団体も国からの特権を受けることや政治上の権力行使をしてはならない」という旨が定められているのです。政権与党に公明党がある場合、政府に関わりを持てることで創価学会が特権を受けられる可能性を否定できません。そういったことが実際に起こらないように、何かしらの配慮が求められるはずです。

公明党が今後直面するであろう問題は?

image by iStockphoto

2021年現在、自民党と連立して政権を担っている公明党。今後はどのような問題に直面することが考えられるのでしょうか。

連立維持と政治理念のどちらを優先させるのか

2012年より公明党は自民党と連立政権を組んでいますが、この両党は政策が必ずしも一致しているわけではありません。そもそも自民党は保守公明党は中道と、政治理念に違いがあります。そんな2つの党が連立を維持させるには、ある程度の譲歩が求められるわけです。

たとえば、公明党は原発ゼロ社会を目指すことを公約としています。しかし、自民党はそういった政策を掲げていません。また、自民党が目指している憲法改正に対し、公明党は慎重な姿勢を取っています。よって、公明党は連立の維持と政治理念との間でバランスを保つ必要性に迫られるでしょう。

下野した後の立ち位置をどうするか

自民党と連立政権を組んでいる間は、維持している状態を保てばいいということになります。しかし、選挙がある以上はいつまでも政権与党でいられるわけではありません。いつかは下野して再び野党となる時が来ます。

公明党が野党となった場合、まず考えられるのは自民党との連携を続けることです。しかし、あまりにも自民党との距離が近過ぎると、自民党ばかりが注目されて公明党が埋もれてしまう可能性も否定できません。別の党との連立を模索するにも、その場合には野合との批判は避けられないでしょう。よって、野党となった時の公明党は、立ち位置を慎重に見極めることがとても重要となります。

公明党が今後どう国会で存在感を示すのか注目しよう

2012年から公明党は自民党と連立し、政権を担当しています。公明党が政教分離の原則に反しないよう注視するのはもちろんですが、いかに公明党が連立政権で独自色を出していくのかについても注目すべきでしょう。数合わせのためだけに存在する政党は必要とされないはずです。

" /> 3分で簡単「公明党」どんな政策を掲げている?代表や政教分離問題などを行政書士試験合格ライターがわかりやすく解説 – Study-Z
現代社会

3分で簡単「公明党」どんな政策を掲げている?代表や政教分離問題などを行政書士試験合格ライターがわかりやすく解説

今回は、2012年より自民党と連立政権を維持して与党となっている公明党について取り上げていこう。

公明党の主な政策や代表となっている人物、それに政教分離問題などについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

公明党のはじまり

image by iStockphoto

まずは公明党がどのような過程を経て結党されたか説明していきましょう。

1956年に国政で初めての議席

戦後になり宗教法人としての規模を拡大させた創価学会。その中の文化部が、1950年代から政界進出に挑むようになります。国民の生活を変えるには政治を変える必要があると、当時の首脳部が考えたためです。はじめは無所属で出馬した候補者を、創価学会が支援するという形を取りました。

1956(昭和31)年の参議院選挙で3名の当選者を出した創価学会は、ここから国政に進出します。1961(昭和36)年には、さらにその勢いを強化させようと公明政治連盟を結成しました。のちの公明党となる団体です。

1964年に公明党と名を変える

1964(昭和39)年、公明政治連盟が改組され、名前も公明党に改められました。創価学会から組織を独立させるのがその理由です。結党大会は1万人以上の党員が集まる大規模なものでした。

1967(昭和42)年には衆参両院で合わせて45議席を獲得するようになり、自民党・社会党(当時)に続く第3の勢力としての地位を築くようになります。その頃から1980年代にかけては、社会党や民社党(当時)と連携を取って、自民党と対立する路線を歩んでいました。しかし、自民党の壁は高く、その間はずっと野党として活動するしかありませんでした。

公明党が掲げる政治理念とは?

image by iStockphoto

では、公明党はどのような政治理念を掲げているのでしょうか。

福祉に力を入れる

公明党は特に福祉政策に力を入れてきており、「福祉の党」と呼ぶ人もいるほどです。党の綱領にも「生命・生活・生存を最大に尊重する人間主義を貫く」「人間・人類の幸福追求を目的とする」といった文言が並んでいます。

障害者自立支援法を自民党とともに成立させ、障害者が福祉サービスを利用しやすくしました。2016(平成28)年に成立した無給年金者救済法により、年金受給資格期間が10年に短縮されています。1999(平成11)年の小渕内閣時代に発行された地域振興券や、消費税率を10%に引き上げた際に導入された軽減税率は、公明党の意向が強く反映されたものです。

\次のページで「中道主義を標榜」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: