官営八幡製鉄所といえば教科書なんかでも1度目にした覚えはあるんじゃないか?現在の製鉄所は民間企業のものですが、官営八幡製鉄所は「官営」という名前の通り、当時の明治政府によって運営された製鉄所だったんです。今回は鉄鋼系の事務員としても働いているライターのけさまると一緒に官営八幡製鉄所の発足から発展、そして現在の民間製鉄所になるまでの変遷を詳しく追っていきます。

ライター/けさまる

普段は鉄鋼系の事務をしながら、大学時代の人文学科での経験を生かして執筆活動に取り組む。学生時代の研究テーマはイスラームについて。

官営八幡製鉄所とは

Higashida First Blast Furnace.JPG
Kugel~commonswiki - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

官営八幡製鉄所とは、1901年から本格的に操業が始まった、政府の運営する官営の製鉄所です。当時の八幡村だった福岡県北九州市八幡東区に設立され、現在は民間企業となった日本製鉄九州製鉄所の一部として稼働。そして稼働が終了した設備の一部は、明治日本の産業革命遺産として世界遺産に登録されています。

<時代背景1>世界の産業発展

1900年代初頭明治中期は日本を含む世界各地で産業発展を遂げていた時期です。ロシアは中国の満州を征服し、アメリカではライト兄弟が飛行機を発明しました。鉄鋼業界では国際的に著名な金融王モルガンが鋼鉄王カーネギーと手を結びU・Sスチールコーポレーションを設立させ、史上最大の鉄鋼合同企業が成立しました。

<時代背景2>日本の産業発展

日本では、日清戦争が終結し日清下関条約が締結され、ここから日露戦争へと歩みを進めようとしている時期です。国内産業の中心が農業から工業へと移り変わっていった時代でもあり、道には人力車や路面電車が行き交っていました。一方、電気やガス、水道といった社会インフラは個人宅まで普及しておらず、人々は水が必要であれば井戸から汲み、薪を燃やして料理を作る生活を送っていました。

官営八幡製鉄所の発足

1890年代後半から、日本では紡績業が著しく発展しました。そして綿糸紡績業の生産地と消費地をつなぐべく鉄道もまた急速に発展していきました。しかしその一方で発展に後れを取ってしまったのが造船や機械といった諸工業。この状況に対して政府は国産製鉄業脆弱性危機感を持つようになります。このとき国内の製鉄業は富国強兵国民生活という2つの需要に応えられる従来の規模を超える製鉄拠点を必要としていました。こうして1896年官営製鉄所設立案が成立し、官営製鉄所の設立が着実に進んでいくこととなりました。

新たな製鉄所の特徴と目的

政府によって設立が決定した官営八幡製鉄所の特徴と目的は従来のものとは異なっていました。当時国内で画期的だったのは鉄鉱石から鉄の成分を取り出す「製銑」から鋼を生成する「製鋼」そして実際に製品の形を作っていく「圧延」までを一貫して生産できたことです。

<目的1>武器製造が主流だった従来の製鉄所

Japanese soldiers near Chemulpo Korea August September 1904 Russo Japanese War.jpg
匿名 - Musee de l'Armee, Paris, パブリック・ドメイン, リンクによる

従来の製鉄所の目標は富国強兵に貢献することでした。明治維新以降国内の鋼の生産は、東京や横須賀、大阪の陸・海軍が中心的な担い手でした。こうした拠点で作られる武器は日清・日露戦争に突き進む日本軍を支えていくこととなるのです。また、官営八幡製鉄所の設立前にも同じく官営製鉄所存在しました。しかし原料の生産地が国内の東西に点在しており、それらをつなぐ拠点としての役割を果たせませんでした。こうした要因が重なり結局10基あった官営製鉄所の設備は小規模にとどまり、やがて全て閉鎖されました。

\次のページで「<目的2>主軸を武器から生活へ」を解説!/

<目的2>主軸を武器から生活へ

一方、八幡製鉄所は軍事物資の供給はもちろん、綿糸紡績業などを中心に発展してきた近代産業に必要な鉄鋼資材を供給することが大きな目的でした。そして、この鉄を国民生活に普及させるということは、近代国家として西洋諸国肩を並べるという意味でも非常に重要でした。

アメリカの民衆詩人、ホイットマンが残した詩の一節に上記をよく表したものがあります。彼は時を少しさかのぼり、1860年の日米修好通商条約が締結され日本の使節団がアメリカへ派遣された際に、一行をニューヨークのマンハッタン通りで迎えた人物です。

 

(中略)それではようやく東洋がやってくるのだ。(中略)そびえたつ美しい大理石と鉄の建物が向き合って並び、その間の空間を歩いて渡る。私たちの都会へ、今日私たちの<対極>が訪れてくる(中略)

<特徴>原料から製品まで一貫製造を可能に

この章の冒頭でも少し紹介しましたが、八幡製鉄所が当時革新的だったのは製銑(鉄鉱石→鉄)から製鋼(鉄→鋼)圧延(鋼→製品)までの過程を一貫して実施できることにありました。というのも、製鉄には鉄鉱石石炭が必須となりますが八幡製鉄所以前、この2つの原材料は国内では東西で点在しておりこれらをつなげる拠点を築くことができませんでした。しかし、日本は日清戦争に勝利し中国大陸へ進出。中国から九州を窓口石炭を確保できるようになると中国の鉄鉱石と福岡(筑豊)石炭を結ぶ用地としての機能を八幡製鉄所がようやく果たせることになったのです。

製鉄所の発展を支えた人々

官営八幡製鉄所の開業当時の製鉄規模は、当時の列強諸国には遠く及ばないものでありその生産が軌道に乗るまでには多くの困難がありました。これらを乗り越えるのに多くの技術者や職工たちの苦労があり、当時村だった八幡の町はこの製鉄所とともに発展してきました。

海外への傾倒による経営失敗

官営八幡製鉄所は当時のドイツに技術を習いドイツ式設備が導入されていました。そのため、ドイツから複数人の技術者指導者として日本に招かれました。しかし、彼らの指導者としての能力は日本政府が期待したレベルには見合わず、また現場の職工たちとの軋轢も顕著になっていきました。

肝心の設備も上手く稼働せず、当時見込まれてい生産量250t/日はただでさえ列強の10,000t越/日レベルに遠く及ばないものでしたが、実績はそれをさらに下回る130t/日が最大という有様でした。やがて所内のコークス炉も稼働停止し、日本はその設備技術・経営ともに見直しを余儀なくされました。

立て直しに奔走する技術者たち

日本の技術者・政府関係者は一刻も早く当時の状況に打開策を講じる必要がありました。そこで当時の製鉄所長官は、以前八幡製鉄所の設立に携わった工学部教授とその門下生たちに急遽電報を送り、官営八幡製鉄所の立て直し依頼。彼らは設備不良の原因徹底的に究明していきました。これまですべての設備、設備士を海外に依存してきた日本でしたが、ここで初めてその大きな欠陥科学的に明らかにされていったのです。やがて官営八幡製鉄所は日露戦争以降、当初の目標値超える生産量を記録しました。

現場を支えた職工たちの存在

image by iStockphoto

こうした八幡製鉄所の発展を支え続けたのは、製鉄所で働いていた職工たちです。製鉄所の開業当時、全国各地の農漁村から労働者たちが集められ、職工として雇われました。そしてそこに、従来別の製鉄所ですでに職工として働いていたものも加えられました。

高炉の操業に関しては、従来の労働よりもはるかに高度な知識技能が求められましたが彼らの給料待遇は決して高くありませんでした。また、製鉄所での作業は多くの労働災害が発生し、その結果身体に障害が残ったり、死者が出たりすることも多くありました。官営八幡製鉄所の発展はこうした犠牲の上に成り立つものでもあったのです。

八幡の町とのつながり

製鉄所の開業により、八幡村とそこから電車でつながる戸畑村は人口も一気に増加し、やがて「鉄都」と呼ばれるようになりました。人口の統計では開業翌年、八幡村はそれまでの5倍弱、戸畑村は2倍弱の人口増加となりました。八幡村内は空間が分割され、官舎や金融機関、商店街、職工訓練所などが設けられました。詩人の北原白秋が昭和5年に作った「八幡小唄」にて次のように詠っています。

また工場から立ち上ると海の色を変えるほどの工業廃水は当時の繁栄の象徴であり、同時に以降の公害問題へもつながっていくものでした。

山へ山へと 八幡はのぼる はがねつむように 家がたつ(八幡小唄一節/北原白秋)

官営から半官半民企業へ

開業当時は大幅な赤字となった官営八幡製鉄所でしたが、1910年に初の黒字を達成し、3期にわたる設備拡張計画を遂行し、30年以上をかけて製銑は10倍圧延は7倍の能力増を達成しました。日露戦争の終結以降より良質で安価な鉄を供給する必要性が主張されるようになり、さらに安定した鉄の供給が求められるようになりました。これより少しづつ官営から民間へと製鉄所の運営が移っていきます

鉄鋼協会の設立

1915年2月製鉄に関する学術経済、その他一切の問題を研究調査し、さらなる改良を目指すことを目的として、鉄鋼研究の専門工学会である日本鉄鋼協会が創立されました。創立者たちの留学先でもあるドイツの鉄鋼協会を模範としたものでありましたが、これは従来海外に全ての技術導入を依存してきた日本が自主的に合理性・科学性を追求する過程に入ったことを意味する大変画期的な転機でもありました。

科学技術への目覚め

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日本鉄鋼協会の創立を転機として、日本の鉄鋼技術史は鉱工業技術の段階から科学的技術段階へ一歩前進したと言えます。それを象徴するのは鉄鋼協会創立から4年後に東北帝国大学付属鉄鋼研究所が創立され、後に金属材料研究所へ組織拡大されたこと、そして、八幡製鉄所内にも製鉄研究所が創立されたことです。これらの研究機関により従来の工業的研究科学的研究問題を互いに結び付けて考える土台が形成されていきました。

半官半民経営への転換

やがて、日本の鉄鋼業の収支・運営を根本的に見直すべく製鉄鋼調査会が創立されました。この組織の一番の目的は、製鉄所が政府から自立した運営をするための対策を立てることにありました。

その結果、当時の鉄鋼業界は官営八幡製鉄所以外に強固な一貫製造設備を備えた製鉄所が少なく、この未熟な連携状態のまま相互の製鉄所間で無益な競争に走っていること、それが各製鉄所の経営難、ひいては鉄鋼業界の不振の原因となっていると考えられました。その状態を打破すべく八幡製鉄所を半官半民合同経営とすることを国策として決定しました。こうして官営八幡製鉄所は段階的に民間運営へと移り変わっていくのです。

\次のページで「度々転換期を迎える製鉄業界ー筆者考察」を解説!/

度々転換期を迎える製鉄業界ー筆者考察

鉄鋼業界は、常に時代の社会情勢に大きく左右され、時には鉄鋼業が社会に影響を及ぼすこともありました。こうした社会情勢との密接な結びつきは官営八幡製鉄所が開業した1900年代から現代にいたるまで変わっていません。

<考察1>官営八幡製鉄所における転換期

これまで見てきた八幡製鉄所の歩みにおいては二回大きな転機がありました。一つは海外の設備技術、指導への依存状態から脱却したこと、二つめは官営から半官半民の運営に切り替え、徐々に民間に運営主体を移していったことです。前者においては科学的根拠を、後者においては各製鉄所の生産能力と売り上げの実績をもとに舵きりを行いました。

こうした実際の数値やデータを基にした大胆な転換が今日までの鉄鋼産業の発展につながっているのです。そして、こうした改革が日本の経済そのものの発展を左右する一因ともなってきたと言えるでしょう。

<考察2>再び転換期を迎える製鉄業

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今、製鉄業は再び体制の見直し求められています。現状としてまず、以前から鉄の需要は下がっていたが(東京オリンピック等に伴う特需的状況を除いて)コロナの蔓延によりさらに需要が下がっていること二つ目にSDGsの一環として二酸化炭素排出量を抑えたクリーンな製鉄技術を世界的に求められていることそして三つ目に海外のより低コストな鉄が日本にも多く流入していること、こうした状況がポイントとして挙げられるでしょう。

上記の内容から高度経済成長期と同じように量産するだけではこれからの時代にはそぐわないと言えます。こうした社会の需要に国家の一大産業として応えるべく、研究、開発を含めてその方法を探っていかなければなりません。これもまた一つの大きな転換期と言えるのではないでしょうか。

製鉄業は国家の一大産業の一つと言えます。だからこそ私たちの日常生活、ひいては日本経済に時に左右され、時に影響を与えてきたのです。移り変わりの激しい現代だからこそ、より柔軟な対応が求められるのは他の産業とも共通の課題であると言えます。

経済成長の礎を築いた一大工場

これまで見てきた通り、製鉄所は重厚長大産業の中心的存在です。同時に社会の変遷に合わせて幾度も転換期を迎え、技術革新を経て現代まで続いてきました。そして今も、三交代体制で365日絶えず燃え続けている高炉の火。日本の産業は重工系から軽薄短小(半導体やICチップなど)産業やサービス業へ主軸が移るときだと指摘されて久しいこの頃。こうした環境下でどのように生き残っていくのか、官営製鉄所の先人たちからの知恵のバトンはもう現代の私たちのところに渡っているのです。

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現代社会

官営八幡製鉄所は今と何が違う?場所や現在・歴史を現役鉄鋼系勤務ライターが分かりやすくわかりやすく解説

官営八幡製鉄所といえば教科書なんかでも1度目にした覚えはあるんじゃないか?現在の製鉄所は民間企業のものですが、官営八幡製鉄所は「官営」という名前の通り、当時の明治政府によって運営された製鉄所だったんです。今回は鉄鋼系の事務員としても働いているライターのけさまると一緒に官営八幡製鉄所の発足から発展、そして現在の民間製鉄所になるまでの変遷を詳しく追っていきます。

ライター/けさまる

普段は鉄鋼系の事務をしながら、大学時代の人文学科での経験を生かして執筆活動に取り組む。学生時代の研究テーマはイスラームについて。

官営八幡製鉄所とは

Higashida First Blast Furnace.JPG
Kugel~commonswiki投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

官営八幡製鉄所とは、1901年から本格的に操業が始まった、政府の運営する官営の製鉄所です。当時の八幡村だった福岡県北九州市八幡東区に設立され、現在は民間企業となった日本製鉄九州製鉄所の一部として稼働。そして稼働が終了した設備の一部は、明治日本の産業革命遺産として世界遺産に登録されています。

<時代背景1>世界の産業発展

1900年代初頭明治中期は日本を含む世界各地で産業発展を遂げていた時期です。ロシアは中国の満州を征服し、アメリカではライト兄弟が飛行機を発明しました。鉄鋼業界では国際的に著名な金融王モルガンが鋼鉄王カーネギーと手を結びU・Sスチールコーポレーションを設立させ、史上最大の鉄鋼合同企業が成立しました。

<時代背景2>日本の産業発展

日本では、日清戦争が終結し日清下関条約が締結され、ここから日露戦争へと歩みを進めようとしている時期です。国内産業の中心が農業から工業へと移り変わっていった時代でもあり、道には人力車や路面電車が行き交っていました。一方、電気やガス、水道といった社会インフラは個人宅まで普及しておらず、人々は水が必要であれば井戸から汲み、薪を燃やして料理を作る生活を送っていました。

官営八幡製鉄所の発足

1890年代後半から、日本では紡績業が著しく発展しました。そして綿糸紡績業の生産地と消費地をつなぐべく鉄道もまた急速に発展していきました。しかしその一方で発展に後れを取ってしまったのが造船や機械といった諸工業。この状況に対して政府は国産製鉄業脆弱性危機感を持つようになります。このとき国内の製鉄業は富国強兵国民生活という2つの需要に応えられる従来の規模を超える製鉄拠点を必要としていました。こうして1896年官営製鉄所設立案が成立し、官営製鉄所の設立が着実に進んでいくこととなりました。

新たな製鉄所の特徴と目的

政府によって設立が決定した官営八幡製鉄所の特徴と目的は従来のものとは異なっていました。当時国内で画期的だったのは鉄鉱石から鉄の成分を取り出す「製銑」から鋼を生成する「製鋼」そして実際に製品の形を作っていく「圧延」までを一貫して生産できたことです。

<目的1>武器製造が主流だった従来の製鉄所

Japanese soldiers near Chemulpo Korea August September 1904 Russo Japanese War.jpg
匿名 – Musee de l’Armee, Paris, パブリック・ドメイン, リンクによる

従来の製鉄所の目標は富国強兵に貢献することでした。明治維新以降国内の鋼の生産は、東京や横須賀、大阪の陸・海軍が中心的な担い手でした。こうした拠点で作られる武器は日清・日露戦争に突き進む日本軍を支えていくこととなるのです。また、官営八幡製鉄所の設立前にも同じく官営製鉄所存在しました。しかし原料の生産地が国内の東西に点在しており、それらをつなぐ拠点としての役割を果たせませんでした。こうした要因が重なり結局10基あった官営製鉄所の設備は小規模にとどまり、やがて全て閉鎖されました。

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