とはずがたりは後深草院に仕えた女房二条が作者。鎌倉時代後期の徳治元(1306)年から徳治7(1313)年ころにかけて成立したと考えられている。物語の前半は主人公の女性と男性たちの恋愛泥沼劇。宮中の恋愛事情が赤裸々に語られた作品です。後半は出家したあとの自由に旅する話をつづっている。

この時代、宮中ではどんな恋愛が繰り広げられていたのでしょうか。それじゃあ、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に「とはずがたり」について解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化が専門の元大学教員。気になることがあったらいろいろ調べている。とはずがたりは長らく存在が知られていなかった作品。その暴露本的内容に興味を持ってまとめてみた。

「とはずがたり」とはどんな物語?

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とはずがたりの作者は後深草院に仕えた女房二条。鎌倉時代後期の徳治元(1306)年から徳治7(1313)年ころに成立したと考えられています。物語の前半は少女のころから後深草院に寵愛されながらも3人の男性と恋をするという恋愛泥沼劇。別の言い方をすると、宮中暴露本と言えよう作品です。後半は出家後の旅日記。ほぼ事実が語られている衝撃の告白本です。

「とはずがたり」の作者が生きた時代

天皇を頂点とする身分社会。これは平安時代と変わりありません。貴族が表舞台から去り、武士が支配者。女性は身分の高い男性に逆らうことができない点は同じです。宮中で働く女官たちは、天皇に命令されたら、何事も拒むことはできませんでした。

当時は、天皇をリタイアした「院」と呼ばれる「元天皇」が絶大な権力を握っていました。そのため現役の天皇との間に権力闘争がたびたび起こっていました。鎌倉幕府の仲介で話し合いがもたれ、元天皇による院政が廃止。後醍醐天皇による政治がスタートします。しかしながら後醍醐天皇は幕府討幕計画を起こして失敗。いっそう混沌としてきた不穏な時代でした。

二条と呼ばれた女性が「とはずがたり」の作者

とはずがたりの作者は二条。貴族久我雅忠の娘で、幼名は「あかこ」でした。2歳で母を亡くし、4歳のころに、幼い彼女にひと目ぼれした当時19歳の後深草院に引き取られ、14歳で院のオンナとなりました。そのころ、彼女にはひそかに「雪の曙」と呼んでいた想い人がいました。それでも院の寵愛を受け続けました。あかこは二条と呼ばれていましたが、后でもなく正式な女房でもない立場でした。

二条は後深草院の子どもを懐妊。その頃、二条の父親が亡くなって後ろ盾がないまま16歳で男児を出産します。その子は皇子という立場も曖昧なまま幼くして亡くなりました。恋人の雪の曙との間にも女児を生みます。女児は雪の曙がどこかへ連れて行きました。さらに二条は仁和寺の高僧とも関係をもち、男児二人を産みました。

ちなみに元天皇にはいろいろな呼称がありました。院は上皇あるいは太政天皇とも呼ばれていました。法皇というのは出家した上皇のこと。それぞれが権力を行使していたため、世の中はめちゃくちゃでした。今なら後深草院の行為は未成年者に対する犯罪。当時の権力者は何をしてもおとがめなしでした。宮中を舞台に繰り広げられる愛憎劇は現代の週刊誌のトップ記事に相当しそうですね。

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「とはずがたり」の前半は二条の恋愛遍歴

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とはずがたりとは「人に尋ねられたわけでもないのに、自分から語りだした物語」という意味。「何が何でも書きたかった、話したかった」という、開き直った二条の感情があふれています。すべてが事実かどうかは諸説あり。激動の時代を生き抜いた女性の告白記事ということは事実です。

男を手玉に取ったのか、男に翻弄されたのか

4歳で後深草院に引き取られた少女はで宮中で出会った「雪の曙」に想いを寄せます。後深草院はそれを知りながら、二条が14歳のときに自分のものに。院はそのころ29歳。「御所さま」と呼ばれていました。二条は御所さまとの間に男児をもうけますが、その子は死亡。雪の曙との間の女児とは引き離されました。ちなみに雪の曙は西園寺実兼であったようです。

二条がひそかに「有明の月」と呼んだ男性は仁和寺の高僧。二条に一目ぼれした有明の月は、二人の男児をもうけます。「有明の月」は御嵯峨院の皇子。後深草院の弟の1人がモデルという説があります。また二条は、近衛殿という男性とも関係を持ちました。背後には後深草院の手引きがありました。院は自らの指示で二条を他の男に抱かせていました。

二条の燃える恋の終焉

後深草院には、正妻である女性とその御方が産んだ姫君がいました。この時代、女性は男性からの求愛を拒否できず、出家のみが残された道でした。後深草院は二条と「雪の曙」「有明の月」「近衛大殿」との関係をすべて把握。ねちねちとオトコたちを苛めました。この辺りの展開は源氏物語とよく似ています。

「有明の月」は疫病で死亡。二条は出家を望みますが、いろいろな事情から思いとどまります。二条は「有明の月」が亡くなったあとも彼の二人目の子を産みました。次こそは自分の手で育てようと宮中を出ることを決意します。

「とはずがたり」の後半は二条の出家後の話

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32歳で出家を果たした二条は諸国を放浪。歌や紀行文を書いた西行法師に強い憧れを持ち、諸国を旅しました。熱田神宮、伊豆の三島社、鎌倉の鶴岡八幡宮、武蔵野国川口、善光寺、浅草などをめぐります。

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女西行として周遊する二条

旅をするにも多額の資金が必要です。当時として場贅沢な世界一周のようなもの。二条は貴族の出身であり、莫大な遺産を相続するのみならず、多額の給与を朝廷からもらっており、資金は潤沢でした。二条の旅は、懺悔と後悔と西行への憧れにふけったもの。行く先々で歌を詠み、その地で出会った人々と交流しました。トラブルに巻き込まれる様子が描かれるなど、西行の「山家集」の影響が強く見られました。

34歳、奈良の神社や寺を詣でて京へ帰る途中に石清水八幡宮で後深草院と再会します。御所さまもすでに出家の身。それでも二条は忘れられない女性でした。御所さまから度々誘われたが断り続けた二条。伏見で再会したときに体を交えず心が通じあいます。

男性たちとの永久の別れ

二条は45歳。生きながらえてしまったと、生きていること自体を恥じるようになりました。二条にしか分からない複雑な感情があったのでしょう。備後の国で出会った遊女たちの優しさに触れ、自分は遊女の生き方と似ていると感じるようになります。そして、自分を肯定するしかない、否定したら死ぬしかないと思うようになりました。

そのようなとき、御所さまの正妻の死が伝えられます。御所さまをめぐる恋敵だった女性。そんな諍いも過ぎ去りました。そして二条は「雪の曙」を訪ねます。年老いた彼は二条のことを認識できません。そんな彼を見て二条は黙って立ち去ります。追い打ちをかけるように届いたのが御所さまの崩御の知らせ。葬送の列を二条は泣きながら裸足で追いかけました。

「とはずがたり」の主要人物である後深草天皇とは?

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二条の人生を翻弄したのが後深草天皇。激動の時代を生きた実在する天皇のひとりです。この当時、現職の天皇であっても命の危険にさらされていました。皇位をめぐる身内の争いが多発していたからです。

暇つぶしに女遊びに没頭するしかなかった

後深草天皇は寛永2(1243)年に生まれ、嘉元2(1304)年に崩御した、第89代の天皇。後嵯峨天皇の第三皇子で、寛元4(1246)年に3歳で天皇に即位します。実権を握っていたのは父の後嵯峨上皇。後嵯峨院は、後の亀山天皇にあたる後深草の弟を気に入っており、後深草は父親に仕事を取り上げられた状態でした。ブラブラ遊んでいましたが、正元元(1259)年に16歳で弟に譲位、亀山天皇の時代になりました。

弟の時代に仕事のない青年が没頭したことは女遊び。19歳で幼い「あかこ」に出会って目をつけました。後深草と二条には深い因縁がありました。二条の母は後深草の乳母。初めての女性として、性の手ほどきをしてくれた人物でした。別の男性と結婚した乳母への恋心を忘れられなかった後深草。乳母の生んだ女児を自分の女にすると決めていたのです。

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政治力を発揮することなく終わった人生

権力は鎌倉幕府に移り、宮廷では退廃と厭世の気分が流行。男同士の恋愛も盛んになりました。日本の歴史では男同士の恋愛は普通にあり、決して特別視されたり非難されたりすることはありませんでした。源氏物語のなかにも、光源氏が少年を抱くシーンが存在。後深草はそちらのほうも多忙でした。

弟の亀山天皇に譲位した後も、父の後嵯峨が亀山を寵愛。自ら院政を執ることは不可能でした。かなりのフラストレーションがたまっていたのでしょう。好色と男色に溺れました。皇位皇統が乱れることを憂えた執権北条時政の仲介により、自分の二男伏見天皇が即位したときに院政を執れました。その時44歳、当時としては老齢でした。

天下の孤本と呼ばれた「とはずがたり」

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ヒロインの二条の人生は数奇なもの。それと同じくらいに、とはずがたりという本の運命も数奇なものでした。第二次世界大戦の勃発したころまで、この世に知られることはなく、日本の一般市民に公開されたのは1950年でした。

「とはずがたり」の伝本は5巻のみ

とはずがたりは宮内庁書陵部桂宮家の本のみが現存。江戸時代初期の写本です。この写本は長らく世に埋もれていたままでした。それを昭和15(1940)年に国文学者の山岸徳兵が発見します。その時は、宮内庁図書寮に地理の本として分類されていました。山岸氏は一読してこれは「蜻蛉日記」にも匹敵すると直感したそうです。

この写本以外には存在しないので「天下の孤本」と呼ばれるように。その後、戦争が勃発。人々は戦後の食糧難時代を生きることに必死で古典どころではありませんでした。一般に公開されたのは1950年。センセーショナルな内容は世に大きな衝撃を与えました。ほとんどが虚構という説から、一部が虚構、全体的に事実であるなど、さまざまな説が入り乱れます。現在は歴史の一端を知る一級の資料という認識で落ち着きました。

いろいろな作品と「とはずがたり」の関連性

とはずがたりは、先行する作品からの影響を受けているのみならず、その後の作品に多大な影響を与えています。先行する作品の影響のひとつが源氏物語。前半の展開や作品中の和歌に源氏物語の強い影響が見られます。特に後深草が幼い赤子を引き取り、妻の1人にしてしまう展開はまさに「若紫」。事実は小説より奇なりという諺があるように、二条の告白の信ぴょう性は説得力があります。

もうひとつが西行の生き方の影響。西行は平安後期の歌人で、北面の武士として鳥羽院に仕え、23歳で出家、諸国を歩き和歌を詠んだ人物です。西行の生き方に強く憧れた二条。愛憎渦巻く宮中を離れ、自由に歌を詠みたかったという気持ちがあふれ出ています。

「とはずがたり」から見えるのは作者の心の声

この物語は歴史的事実かどうかが長らく議論されてきました。天皇のセンセーショナルな人生が描かれているため、事実関係の有無が重要だったのでしょう。はっきりしないことも多いのですが、リアルに人間を描いていることは事実。私たちはこの作品を通じて、書きたいから書く、そんな作者の心の声を聞くことができます。とはずものがたりが描いたのは荒れ果てた世の中を生き抜いた一人の女性の成長物語。だからこそ、激動の今であっても、共鳴できる点が多いのでしょう。

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平安時代日本史鎌倉時代

宮中の恋愛泥沼劇!「とはずがたり」そのあらすじについて元大学教員が5分でわかりやすく解説

とはずがたりは後深草院に仕えた女房二条が作者。鎌倉時代後期の徳治元(1306)年から徳治7(1313)年ころにかけて成立したと考えられている。物語の前半は主人公の女性と男性たちの恋愛泥沼劇。宮中の恋愛事情が赤裸々に語られた作品です。後半は出家したあとの自由に旅する話をつづっている。

この時代、宮中ではどんな恋愛が繰り広げられていたのでしょうか。それじゃあ、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に「とはずがたり」について解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化が専門の元大学教員。気になることがあったらいろいろ調べている。とはずがたりは長らく存在が知られていなかった作品。その暴露本的内容に興味を持ってまとめてみた。

「とはずがたり」とはどんな物語?

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とはずがたりの作者は後深草院に仕えた女房二条。鎌倉時代後期の徳治元(1306)年から徳治7(1313)年ころに成立したと考えられています。物語の前半は少女のころから後深草院に寵愛されながらも3人の男性と恋をするという恋愛泥沼劇。別の言い方をすると、宮中暴露本と言えよう作品です。後半は出家後の旅日記。ほぼ事実が語られている衝撃の告白本です。

「とはずがたり」の作者が生きた時代

天皇を頂点とする身分社会。これは平安時代と変わりありません。貴族が表舞台から去り、武士が支配者。女性は身分の高い男性に逆らうことができない点は同じです。宮中で働く女官たちは、天皇に命令されたら、何事も拒むことはできませんでした。

当時は、天皇をリタイアした「院」と呼ばれる「元天皇」が絶大な権力を握っていました。そのため現役の天皇との間に権力闘争がたびたび起こっていました。鎌倉幕府の仲介で話し合いがもたれ、元天皇による院政が廃止。後醍醐天皇による政治がスタートします。しかしながら後醍醐天皇は幕府討幕計画を起こして失敗。いっそう混沌としてきた不穏な時代でした。

二条と呼ばれた女性が「とはずがたり」の作者

とはずがたりの作者は二条。貴族久我雅忠の娘で、幼名は「あかこ」でした。2歳で母を亡くし、4歳のころに、幼い彼女にひと目ぼれした当時19歳の後深草院に引き取られ、14歳で院のオンナとなりました。そのころ、彼女にはひそかに「雪の曙」と呼んでいた想い人がいました。それでも院の寵愛を受け続けました。あかこは二条と呼ばれていましたが、后でもなく正式な女房でもない立場でした。

二条は後深草院の子どもを懐妊。その頃、二条の父親が亡くなって後ろ盾がないまま16歳で男児を出産します。その子は皇子という立場も曖昧なまま幼くして亡くなりました。恋人の雪の曙との間にも女児を生みます。女児は雪の曙がどこかへ連れて行きました。さらに二条は仁和寺の高僧とも関係をもち、男児二人を産みました。

ちなみに元天皇にはいろいろな呼称がありました。院は上皇あるいは太政天皇とも呼ばれていました。法皇というのは出家した上皇のこと。それぞれが権力を行使していたため、世の中はめちゃくちゃでした。今なら後深草院の行為は未成年者に対する犯罪。当時の権力者は何をしてもおとがめなしでした。宮中を舞台に繰り広げられる愛憎劇は現代の週刊誌のトップ記事に相当しそうですね。

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