今回は、自由民主党を一時政権与党の座から降ろした政治家、鳩山由紀夫を取り上げていこう。

彼の生い立ちや関わってきた政党、それに彼が首相時代に成し遂げられなかった普天間基地の沖縄県外移設などについて、現代社会に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

鳩山由紀夫が政治家になるまで

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まずは鳩山由紀夫が政治家になるまでの道のりを見ていきましょう。

曽祖父の代から代議士

鳩山由紀夫は、1947(昭和22)年に元外務大臣・鳩山威一郎の長男として生まれました。2学年下の弟に鳩山邦夫がおり、兄弟2人はのちに国会議員となります。

父と兄弟2人が国会議員というだけでもかなりのものだと感じるでしょう。しかし、鳩山由紀夫の祖父・鳩山一郎は自由民主党初代総裁でもある元内閣総理大臣です。曽祖父の鳩山和夫も衆議院議長を務めました。つまり、鳩山由紀夫は代々が国会議員である一族の4代目となります。

科学者から政界へ

政界入りは、弟である邦夫の方が先でした。田中角栄の秘書を務めたあと、1976(昭和51)年の衆議院総選挙に当時の新自由クラブから東京で出馬し、初当選を果たします。

鳩山由紀夫は東京大学工学部を卒業し、スタンフォード大学の大学院で博士号を取得したあと、専修大学で助教授(当時)となっていました。しかし、1984(昭和59)年に退職し、一転して政界入りを目指します。1986年の衆議院総選挙で、祖父の代からの地盤であった北海道で自民党公認候補として出馬し、見事に当選しました。

自民党の代議士から民主党の代表へ

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自民党から出馬して初当選を果たした鳩山由紀夫。しかし、のちに民主党の結成に加わります。一体何があったのでしょうか。

自民党を離党して新党さきがけに合流

鳩山由紀夫は自民党から出馬して2期当選します。しかし、1990年代に機運が高まった政治改革をめぐり、自民党内で対立しました。結局鳩山は自民党を離党することになります。

1993(平成5)年、武村正義らと新党さきがけを結成し、代表幹事に就任しました。そのさきがけから総選挙に出馬し、鳩山は3期目の当選。その選挙で自民党は大敗し、非自民による連立政権で細川護熙首相が誕生しました。細川内閣で、鳩山は内閣副官房長官に就任しています。

新党さきがけを離党し旧民主党結成

1994(平成6)年に、自民党に対抗できる野党勢力を集結させようと、当時の新生党や日本新党などが集結しました。新進党(当時)の誕生です。集まった国会議員の数は200名を超え、翌年に行われた参議院選挙でも大勝しました。

これに危機感を覚えたのが鳩山でした。自民党と新進党による二大政党化が進めば、その他の小政党が埋もれる危険性を感じていたのです。鳩山は、当時の新党さきがけと社民党から離党したメンバーに、菅直人や弟の鳩山邦夫などを加えて新党を結成しました。それが1996(平成8)年に発足した旧民主党です。

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鳩山由紀夫内閣の誕生

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自民党を離脱した鳩山由紀夫は、その後選挙で自民党に圧勝することとなります。それまでにどのような経緯があったのでしょうか。

相次ぐ自民党の短命政権

旧民主党旗揚げに鳩山が加わってから2年後の1998(平成10)年、民主党に当時の民政党などが合流し、さらに民主党の勢力が増します。2003(平成15)年になると、かつて新生党から分かれた自由党までが合流。ついに民主党が野党第一党になりました。

一方の自民党ですが、小泉純一郎が首相となった時期、特に郵政民営化が争点となった2005(平成17)年の総選挙では圧勝しました。しかし、その後継となった第1次安倍晋三内閣は、安倍の病気が理由でわずか1年で退陣。続く福田康夫・麻生太郎と、総理が1年で次々と交代する異例の事態が続きました。

民主党が総選挙で圧勝

2005(平成17)年の総選挙では自民党に大敗を喫した民主党でしたが、2007(平成19)年の統一地方選挙に勝ったあと、参議院選挙にも勝ちました。この時点で参議院では民主党が議席数で自民党を上回ります。そして鳩山は、2009(平成21)年に2度目の民主党代表就任となりました。

その年の7月に行われた総選挙。相次ぐ大臣の辞任やリーマンショックによる経済の低迷などにより、自民党の支持率が急落していました。そのダメージは大きく、自民党は改選前より議席が半分以下となる惨敗でした。その受け皿となったのが民主党で、308議席を獲得する圧勝を遂げ、ついに政権与党となったのです。

なぜ鳩山由紀夫内閣が短命に終わったのか?

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総選挙での圧勝を受けて誕生した鳩山由紀夫内閣ですが、その後1年も持たずに退陣してしまいます。一体何があったのでしょうか。

金銭問題の発覚

総選挙での大勝後に成立した鳩山内閣は、政治主導・脱官僚をスローガンに、国家戦略室行政刷新会議を設置します。事業仕分けを行い、官公庁に眠るとされた、いわゆる埋蔵金をあぶり出そうとしたのです。しかし、その目的は果たせず、公約に掲げていた子供手当てや高速道路無料化などを完全な形で実現できませんでした。

さらに、鳩山は個人の問題でもつまずきます。親族から受け取っていた政治資金の虚偽記載などが発覚しました。民主党内で強大な影響力を持っていた小沢一郎が金銭問題で立件されたばかりのタイミングであったため(小沢の判決は無罪)、より印象が悪くなるものでした。

普天間基地移設の不調

温室効果ガスの削減目標に言及した「鳩山イニシアチブ」など、理系の博士である鳩山らしい取り組みもありました。高校の授業料無償化を実現させたのも鳩山内閣です。しかし、沖縄の普天間基地移設が実現できなかったことで、人々は鳩山政権に不信感を募らせてしまいます。

総選挙では普天間基地の移設を民主党の公約に掲げて、「最低でも県外」という意向を鳩山は示していました。沖縄県民にとっては宿願というべき案件でしたが、自民党政権時代にアメリカと合意済みだった辺野古への移設計画を一転して覆すことはできませんでした。結局当初の辺野古移設に落ち着いてしまったため、公約を守れなかった内閣の支持率は急落したのです。

\次のページで「なぜ普天間基地が沖縄県外に移転できないのか?」を解説!/

なぜ普天間基地が沖縄県外に移転できないのか?

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ところで、なぜ鳩山由紀夫が提唱した、普天間基地の沖縄県外移設が実現できないのでしょうか。それにはこれらの理由があります。

アメリカの防衛戦略上変更が難しい

アメリカの最大のライバルは中国であるといえます。もちろん中国との軍事衝突は避けたいのですが、防衛上中国を牽制するためには、中国の近くに米軍基地があればアメリカにとって都合がいいわけです。

アメリカ領内ですと、グアムに米軍の空軍基地があります。しかし、中国まで5000キロ離れていて、いざという時に後れを取りかねません。韓国にも米軍基地はありますが、北朝鮮に近すぎる上に、韓国からの米軍撤退が進んでいます。そういったことを踏まえれば、日本は軍事拠点としてとても重要な場所となり、その中でも中国や北朝鮮に近い沖縄はアメリカにとって都合のいい場所となるわけです。

候補地に名乗り出る自治体がない

そもそも普天間基地の移設問題は、米軍のヘリコプターが墜落したことなどに端を発します。そういったリスクのあるものを、自ら進んで招致しようという自治体はなかなか現れません。現にオスプレイの飛行計画が公表されただけでも、その経路となる場所で反対運動が起こる状況です。

鳩山内閣時代には、沖縄県外移設の最有力候補地として鹿児島県の徳之島が検討されています。ですが、島にある自治体の首長はいずれも反対の立場を取り、島民大会でも移設反対の意思があらわとなりました。やはり、基地問題は高度な政治性を含有しているため、一朝一夕では解決できません。鳩山は、そういった見通しを誤っていたといえます。

内閣総辞職後の鳩山由紀夫と基地問題

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普天間基地の県外移設が不調に終わり、総理を辞することとなった鳩山由紀夫。その後の彼と基地問題はどうなったでしょうか。

鳩山由紀夫は2012年で政界を引退

2010(平成22)年6月の鳩山内閣総辞職後、菅直人がその後を引き継ぎました。しかし、東日本大震災の対応などが不十分だったため、2011(平成23)年の統一補欠選挙に敗北。その責任を取る形で、菅は1年余りで総理を辞任します。

菅の後は野田佳彦でした。しかし、鳩山は野田政権と政治運営などで対立します。結局2012(平成24)年の総選挙では民主党の公認を得られず、選挙も出馬せずにそのまま政界を引退し、民主党を離党しました。その総選挙で民主党は敗れ、政権を手放すこととなります。

辺野古の埋立て工事は難航

普天間基地の移転先となった沖縄県名護市辺野古。2017(平成29)年から、新しい飛行場を作るための工事が始まりました。当初は完成までに10年くらいかかるとの見通しでした。

しかし、辺野古の工事は現在難航しています。護岸を造成後に埋め立て工事が始まったのですが、4年を経過した時点でまだ全体の1割も進んでいません。しかも、埋め立て予定地に軟弱地盤が見つかり、新たな工事が必要となりました。根強い建設反対運動や周辺の環境問題などもあり、完成させるには一筋縄では行かないようです。

気になる鳩山由紀夫の現在は?

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政界を引退した鳩山由紀夫の現在が気になります。一体どんな活動をしているのでしょうか。

\次のページで「SNSで独自の評論を展開」を解説!/

SNSで独自の評論を展開

政界引退後の鳩山由紀夫は、ツイッターなどで独自の評論を発信しています。総理経験者の意見が手軽に聞けるのは、とても貴重なことなのかもしれません。事実、鳩山のツイッターのフォロワー数は80万人を超えているので、鳩山の意見を聞きたいと思っている人は多いようです。

ただし、その評論が現在における日本の国益や施策などと合致しないため、各方面から困惑の声が挙がっています。特に外交分野では、日本のこれまで一貫してきた歴史認識などとは異なる意見を発信しているため、混乱を招く可能性も否定できません。

新党結成の動きも?

2019年、鳩山は新党を結成すると表明しました。党名は「共和党」とし、自らは党首を意味する「棟梁」の座に就きました。「棟梁」は大工のリーダーとして使われることの多い言葉ですので、政党の代表者として使われるのは珍しいことです。

ただし、本人は否定しましたが、党名の「共和党」は天皇制を廃する意向があるのではと物議を醸しています。「道楽で政党を作らないでほしい」という辛辣な意見もありました。しかし、2030年までに共和党から30人の国会議員を誕生させたいと鳩山は意気込んでいます。

鳩山由紀夫の政界復帰はあるのか今後も注目しよう!

現在は政界から遠ざかっている鳩山由紀夫ですが、自らの政治姿勢を発信したり新党構想を発表したりするなど、政界復帰への意欲はまだ失われていません。選挙に再び鳩山が出馬することはあるのか、今後も注目すべきでしょう。

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現代社会

3分で簡単「鳩山由紀夫」生い立ちや政党・普天間基地との関係などを行政書士試験合格ライターがわかりやすく解説

今回は、自由民主党を一時政権与党の座から降ろした政治家、鳩山由紀夫を取り上げていこう。

彼の生い立ちや関わってきた政党、それに彼が首相時代に成し遂げられなかった普天間基地の沖縄県外移設などについて、現代社会に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

鳩山由紀夫が政治家になるまで

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まずは鳩山由紀夫が政治家になるまでの道のりを見ていきましょう。

曽祖父の代から代議士

鳩山由紀夫は、1947(昭和22)年に元外務大臣・鳩山威一郎の長男として生まれました。2学年下の弟に鳩山邦夫がおり、兄弟2人はのちに国会議員となります。

父と兄弟2人が国会議員というだけでもかなりのものだと感じるでしょう。しかし、鳩山由紀夫の祖父・鳩山一郎は自由民主党初代総裁でもある元内閣総理大臣です。曽祖父の鳩山和夫も衆議院議長を務めました。つまり、鳩山由紀夫は代々が国会議員である一族の4代目となります。

科学者から政界へ

政界入りは、弟である邦夫の方が先でした。田中角栄の秘書を務めたあと、1976(昭和51)年の衆議院総選挙に当時の新自由クラブから東京で出馬し、初当選を果たします。

鳩山由紀夫は東京大学工学部を卒業し、スタンフォード大学の大学院で博士号を取得したあと、専修大学で助教授(当時)となっていました。しかし、1984(昭和59)年に退職し、一転して政界入りを目指します。1986年の衆議院総選挙で、祖父の代からの地盤であった北海道で自民党公認候補として出馬し、見事に当選しました。

自民党の代議士から民主党の代表へ

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自民党から出馬して初当選を果たした鳩山由紀夫。しかし、のちに民主党の結成に加わります。一体何があったのでしょうか。

自民党を離党して新党さきがけに合流

鳩山由紀夫は自民党から出馬して2期当選します。しかし、1990年代に機運が高まった政治改革をめぐり、自民党内で対立しました。結局鳩山は自民党を離党することになります。

1993(平成5)年、武村正義らと新党さきがけを結成し、代表幹事に就任しました。そのさきがけから総選挙に出馬し、鳩山は3期目の当選。その選挙で自民党は大敗し、非自民による連立政権で細川護熙首相が誕生しました。細川内閣で、鳩山は内閣副官房長官に就任しています。

新党さきがけを離党し旧民主党結成

1994(平成6)年に、自民党に対抗できる野党勢力を集結させようと、当時の新生党や日本新党などが集結しました。新進党(当時)の誕生です。集まった国会議員の数は200名を超え、翌年に行われた参議院選挙でも大勝しました。

これに危機感を覚えたのが鳩山でした。自民党と新進党による二大政党化が進めば、その他の小政党が埋もれる危険性を感じていたのです。鳩山は、当時の新党さきがけと社民党から離党したメンバーに、菅直人や弟の鳩山邦夫などを加えて新党を結成しました。それが1996(平成8)年に発足した旧民主党です。

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