3分で分かる「帝銀事件」戦後の日本を震撼させたこの事件の背景と概要・現代まで続く冤罪の議論まで文系ライターが分かりやすくわかりやすく解説!
死後も続く冤罪論争
平沢の死後も、有罪判決は冤罪であり真犯人は別にいるという主張が長らく続いています。それには複数の根拠があり、いずれも平沢逮捕の決め手となった状況証拠に反論する形で主張されています。その状況証拠として代表的なのが、事件翌日に平沢が大金を引き出しているがその出所が不明であること、そして、帝銀事件の少し前に起きた類似の強盗未遂事件の関係者が平沢の面通りをした際に犯人だと断言したことです。
大金の出所
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平沢が犯人と決定づけられた理由の一つが事件直後に手に入れていた大金の出所が不明だったことが挙げられます。警察や弁護団、平沢の親族も、このお金の出所が分かれば容疑を晴らせるかもしれない、と再三彼に問い詰めますが最後まで平沢は話そうとしませんでした。この大金についても諸説ありますが、平沢が描いた絵の代金であるとも言われています。
その絵の内容は概ね2つの説に分かれており、1つは平沢の描いた春画の代金であり、彼自身春画で生計を立てることに抵抗があったため話さなかったとする説。もう一つは本物の金を使用した虎の金屏風を売った代金だったもののこの金屏風は不正に入手したお金のやり取りをごまかすための道具として利用していたため最後までお金の出所を明かさなかったという説もあります。
2つの類似未遂事件
この帝銀事件が起こる前、1947年10月と1948年1月に類似の未遂事件が発生しています。1件目は帝銀事件と同様の方法で当時の銀行にいた行員たちが薬を飲まされましたが、特に体の変異等はなく金銭を強奪されることもありませんでした。そして、2件目でも同様の文句で薬を飲ませようとしましたが、当時の行員たちが結局薬を飲もうとしなかったため、消毒薬を撒いて逃走した事件です。どちらも未遂であり、金銭的な被害も出ていません。
これら2つの事件に居合わせた行員たちは帝銀事件の時と異なり平沢が犯人である、もしくは非常に似ていると証言しています。当時この2件の未遂事件と帝銀事件は単独の同一犯であると断定されていたため、帝銀事件もまた平沢が犯人であると断定。但し、帝銀事件の際には平沢にはアリバイがあるため、先の未遂事件に関わっていたとしても帝銀事件とは無関係であり、犯人は別にいると主張されています。
残された記録傾向への筆者考察
帝銀事件の手がかりとして代表的な資料の一つが「甲斐手記」(甲斐捜査一課係長による手書きの捜査手記)の存在。ここには当時の捜査の重要な手掛かりが数多く記されていますが、情報が詳細に書かれているかと思えば、重要かつ、確実に知り得たであろう情報が記載されていなかったり、捜査の糸口になりそうな記述があってもその内容について深く捜査されずに終わっていたりと、証拠が挙がる前に捜査が打ち切られているようなケースが多く見受けられます。
こうしたことと時代背景から今回の事件にはアメリカの進駐軍が大きく関わっていると陰謀論を唱える人も。事件から70年以上が経過した今その真相は謎のままですが、こうした捜査の記録を見ると、事件について決して国民に開示できず、もみ消された事実が大なり小なり存在した可能性は非常に高いと考えられるのではないでしょうか。
日本の犯罪史に残る残虐性と謎
今回の「帝銀事件」において逮捕された平沢氏が死刑囚として過ごした時間は約40年。彼の関係者は直近では2015年にも再審請求を行っており、事件から70年以上たった今でも終わっていません。そして冤罪か犯人か、いまだに決着はつかないまま。戦後の混乱期であったため、真犯人についてオカルトめいた説も見受けられます。しかし、どういった予測がされようと、12人もの人が亡くなった強盗事件が過去の日本で起きているという事実を埋もれさせてはならないのではないでしょうか