「帝銀事件」とは1948年に起こった銀行強盗殺人事件です。12名もの人間を毒殺するという犯罪の非道性から当時の日本を震撼させたこの事件。戦後の混乱期であり、捕まった被疑者を含め謎が多いことでも知られているんです。今回は文系ライターのけさまると一緒に解説していきます。

ライター/けさまる

普段は鉄鋼系の事務をしながら、大学時代の人文学科での経験を生かして執筆活動に取り組む。学生時代の研究テーマはイスラーム文化について。

帝銀事件とは

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帝都事件とは、1948年1月に東京都豊島区の帝国銀行(のちの三井銀行)で起こった銀行強盗殺人事件です。犯人は銀行員ら12人を毒殺し、現金と小切手を奪い、逃走しました。容疑者は逮捕され、死刑判決を受けるも無実を主張。その後、死刑は最後まで執行されることなく、犯人と思われる人物は獄中死。今なお、多くの謎が残されている事件です。

時代背景には何があった?

帝都事件があったのは1948年、太平洋戦争終結後の日本。当時の日本はアメリカGHQの実質的な支配下にあり、その指揮者であるマッカーサーの指令によって日本の民主化が推し進められていた時代です。事件の2年前に当たる1946年には日本国憲法が公布され、翌年には第1回参議院議員通常選挙が実施されました。やがて事件から2年後の1950年に始まった朝鮮戦争をきっかけに日本は高度経済成長期に突入しますがここではまだ、内政の立て直しがGHQの指令のもと急ピッチに進められていました。

その1.戦後間もない日本

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人々の生活はというと、終戦直後の食糧危機、浮浪者と闇市の増加といった混沌とした時代から抜け出しつつありました。教育改革制度によって子どもたちは学校に通って授業を受け、輸入食品に助けられながら学校給食が本格的に提供されるようになりました。また都市部では激しいインフレに見舞われたものの少しずつギャンブルを含む娯楽が社会に戻りつつありました。そして若者たちを中心にアメリカからの文化流入が盛んになったのもこのころからです。

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その2.伝染病を恐れる人々

事件で毒薬を飲ませる際に、犯人は赤痢の予防薬であると銀行員たちを騙して飲ませています。(詳しくは事件の概要にて説明)当時の日本では上下水道の整備が十分でなかったため、不衛生な環境が原因で起こるコレラや発疹チフスといった感染症が社会問題となっていました。これらの解決に乗り出すべく予防接種法が公布されたのもこの年でした。

戦後の混乱や、衛生面が整備されていないが故の伝染病の拡大など、戦後の社会環境もまたこの事件の手口や事件後の混乱に関わっているんだな。

さて、時代背景を押さえたところで事件の概要に入っていくぞ。

事件の概要

事件が起きたのは閉店直後の銀行でした。犯人は言葉巧みに銀行員たちを騙し、8歳から49歳までの16人に青酸化合物を飲ませ、結果12人が死亡。当時の日本で衝撃的な事件となりました。その後警察の捜査で画家の平沢貞通が容疑者として挙げられ逮捕。しかし、供述は二転三転し、最終的には無罪を主張するも死刑判決を受けます。ですが、その後獄中にて死亡するまで死刑が執行されることはありませんでした。そして現代まで、彼の無実を主張し法廷に立ち続けている人々がいるのです。

厚生省関係者に扮した強盗が侵入

事件が起こったのは銀行閉店直後の午後3時ごろ。東京都防疫班の腕章をつけた中年の男性が厚生省技官を名乗り、「近くの家で集団赤痢が発生したため、行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」と話し、予防薬と称して青酸化合物を飲ませます。薬は2回に分けて飲ませ、そのうちの1回目は行員たちを信用させるため犯人自らも服用。しかしその後、行員たちは胸が焼けるような感覚に襲われ2回目を飲んだ人から次々と倒れていきました。

現金を持って逃走

その間に犯人は現金16万4410円と小切手1万7450円分を持って逃走。このとき犯人が持ち去った金額は現代の価値に直すと約1,820万円に相当します。(当時の公務員の月収は5,200円程度)なお、持ち出された小切手は事件翌日に現金化されていましたが、小切手の盗難が確認されたのは事件から2日後の午前中になってからでした。

事件の発覚

The scene of Teigin incident.JPG
毎日新聞社 - 『アサヒグラフ』 1948年2月25日号, パブリック・ドメイン, リンクによる

1回目の薬を飲んだ段階で、行員たちはのどに異変を感じでいたものの、まだ予防薬だと信じていたといいます。その後、2回目を飲んだ人が次々と倒れていき、事件が発覚したのは2回目の薬を飲んでから30分以上あとのこと。倒れていた女性行員のうちの一人が気絶状態から意識を取り戻し、外に知らせるべくやっとの思いで這い出したことで初めて閉店後の銀行で何かしらの異変が起きていることに周囲の人が気付きます。しかしその後現場に駆け付けた交番の巡査は行内で起こったのが銀行強盗であるとすぐに理解できず、現場の保存も十分にできませんでした。

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容疑者の逮捕

捜査線上には旧軍関係者等も浮かびましたが、最終的に容疑者として逮捕されたのは画家の平沢貞通。逮捕のきっかけになったのは事件で犯人が差し出した名刺でした。名刺は実在する人物が使用していたものが転用されており、実際の名刺の持ち主はそれを渡した日付・場所・相手を記録に残していました。その名刺の行方を追う中で、名刺交換した人物のひとりであった平沢が容疑者として浮上。

捜査の主流は旧軍関係者の線でしたが、一旦逮捕して取り調べたうえで事件との関係性の有無をはっきりさせることになったのです。

冤罪か有罪かー深まる謎

逮捕直後は平沢は無罪であるという説が有力でしたが、その後の捜査で平沢が過去に詐欺事件を起こしていたことが発覚すると、一気に有罪とする説が強まりました。被害者に当初面通りした際に犯人の顔と一致していると答えた人物はいませんでしたが、面通りを繰り返すうちに似ているという証言も増えていき、最終的には平沢が犯人であると被害者側から証言が上がりました。

平沢は逮捕当初は一貫して否認していましたが、1ヶ月ほど経過すると自供を始めます。最終的に今回の帝銀事件と他類似の2件の容疑で起訴され、死刑判決を受けました。

警察の方向性

Teigin case.jpg
警視庁 - http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/teigin4-1.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

平沢の容疑については状況証拠しかなく、当初は警察内部でも平沢は無実であるという説が有力でした。というのも、今回の事件において犯人は、毒薬を2回に分けて服用させて1回目は自分で飲んで安全性を保障する、飲み方も確実に体内に届くようレクチャーするなど、薬物に関して一定の知識が必要な犯行を行っています。一方で画家の平沢にはそういった知識がありませんでした。しかし、過去に起きた別の詐欺事件について平沢が容疑を認めると状況は一転。平沢が犯人とする説が有力となりました。その後の平沢の自白については、被疑者が検察側へ送致される前から聴取を行うという異例の状況で行われました。その際に適切な手段がとられていたのかどうかについては現在も意見が分かれています。

無罪を主張するも死刑判決に

1948年12月から始まった第1回公判において、平沢は自らの自白を覆し、無罪を主張。しかし、1950年に死刑判決、その後控訴、上告するもともに棄却され1955年最高裁にて平沢の死刑が確定しました。確かに平沢は帝銀事件に関して犯人と断定付けるには不自然な点がありました。しかしその一方で前項に述べた詐欺事件のような余罪があったためか、核心を濁すような証言が多かったとも言われています。

しかし、帝銀事件に関しては平沢の無実を叫ぶ声も多く1962年、作家の森川哲郎によって「平沢貞通を救う会」が発足し、再審請求や死刑執行阻止などの活動に取り組みました。平沢の生前の再審請求は彼らの活動により18回にも及びましたが結果はいずれも棄却。平沢は死刑囚として長い時間を獄中で過ごしました。

死刑執行を待ちながらの獄中死

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1974年11月、平沢は心臓発作により当時収容されていた宮城刑務所から東北大学付属病院へ搬送されました。それは平沢にとって実に26年ぶりの出獄でした。当時全国でも12か所しかなかったICUに入れられ、国際最高レベルの治療を受けました。そして約1か月半入院したのち、再び宮城刑務所へ戻ります。

それから10年以上が経った1987年5月、平沢は肺炎を患い八王子医療刑務所にて病死。この時もまだ平沢の死刑執行命令に法務大臣の署名はありませんでした。

\次のページで「死後も続く冤罪論争」を解説!/

死後も続く冤罪論争

平沢の死後も、有罪判決は冤罪であり真犯人は別にいるという主張が長らく続いています。それには複数の根拠があり、いずれも平沢逮捕の決め手となった状況証拠に反論する形で主張されています。その状況証拠として代表的なのが、事件翌日に平沢が大金を引き出しているがその出所が不明であること、そして、帝銀事件の少し前に起きた類似の強盗未遂事件の関係者が平沢の面通りをした際に犯人だと断言したことです。

大金の出所

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平沢が犯人と決定づけられた理由の一つが事件直後に手に入れていた大金の出所が不明だったことが挙げられます。警察や弁護団、平沢の親族も、このお金の出所が分かれば容疑を晴らせるかもしれない、と再三彼に問い詰めますが最後まで平沢は話そうとしませんでした。この大金についても諸説ありますが、平沢が描いた絵の代金であるとも言われています。

その絵の内容は概ね2つの説に分かれており、1つは平沢の描いた春画の代金であり、彼自身春画で生計を立てることに抵抗があったため話さなかったとする説。もう一つは本物の金を使用した虎の金屏風を売った代金だったもののこの金屏風は不正に入手したお金のやり取りをごまかすための道具として利用していたため最後までお金の出所を明かさなかったという説もあります。

2つの類似未遂事件

この帝銀事件が起こる前、1947年10月と1948年1月に類似の未遂事件が発生しています。1件目は帝銀事件と同様の方法で当時の銀行にいた行員たちが薬を飲まされましたが、特に体の変異等はなく金銭を強奪されることもありませんでした。そして、2件目でも同様の文句で薬を飲ませようとしましたが、当時の行員たちが結局薬を飲もうとしなかったため、消毒薬を撒いて逃走した事件です。どちらも未遂であり、金銭的な被害も出ていません。

これら2つの事件に居合わせた行員たちは帝銀事件の時と異なり平沢が犯人である、もしくは非常に似ていると証言しています。当時この2件の未遂事件と帝銀事件は単独の同一犯であると断定されていたため、帝銀事件もまた平沢が犯人であると断定。但し、帝銀事件の際には平沢にはアリバイがあるため、先の未遂事件に関わっていたとしても帝銀事件とは無関係であり、犯人は別にいると主張されています。

残された記録傾向への筆者考察

帝銀事件の手がかりとして代表的な資料の一つが「甲斐手記」(甲斐捜査一課係長による手書きの捜査手記)の存在。ここには当時の捜査の重要な手掛かりが数多く記されていますが、情報が詳細に書かれているかと思えば、重要かつ、確実に知り得たであろう情報が記載されていなかったり捜査の糸口になりそうな記述があってもその内容について深く捜査されずに終わっていたりと、証拠が挙がる前に捜査が打ち切られているようなケースが多く見受けられます。

こうしたことと時代背景から今回の事件にはアメリカの進駐軍が大きく関わっていると陰謀論を唱える人も。事件から70年以上が経過した今その真相は謎のままですが、こうした捜査の記録を見ると、事件について決して国民に開示できず、もみ消された事実が大なり小なり存在した可能性は非常に高いと考えられるのではないでしょうか。

日本の犯罪史に残る残虐性と謎

今回の「帝銀事件」において逮捕された平沢氏が死刑囚として過ごした時間は約40年。彼の関係者は直近では2015年にも再審請求を行っており、事件から70年以上たった今でも終わっていません。そして冤罪か犯人か、いまだに決着はつかないまま。戦後の混乱期であったため、真犯人についてオカルトめいた説も見受けられます。しかし、どういった予測がされようと、12人もの人が亡くなった強盗事件が過去の日本で起きているという事実を埋もれさせてはならないのではないでしょうか

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現代社会

3分で分かる「帝銀事件」戦後の日本を震撼させたこの事件の背景と概要・現代まで続く冤罪の議論まで文系ライターが分かりやすくわかりやすく解説!

死後も続く冤罪論争

平沢の死後も、有罪判決は冤罪であり真犯人は別にいるという主張が長らく続いています。それには複数の根拠があり、いずれも平沢逮捕の決め手となった状況証拠に反論する形で主張されています。その状況証拠として代表的なのが、事件翌日に平沢が大金を引き出しているがその出所が不明であること、そして、帝銀事件の少し前に起きた類似の強盗未遂事件の関係者が平沢の面通りをした際に犯人だと断言したことです。

大金の出所

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平沢が犯人と決定づけられた理由の一つが事件直後に手に入れていた大金の出所が不明だったことが挙げられます。警察や弁護団、平沢の親族も、このお金の出所が分かれば容疑を晴らせるかもしれない、と再三彼に問い詰めますが最後まで平沢は話そうとしませんでした。この大金についても諸説ありますが、平沢が描いた絵の代金であるとも言われています。

その絵の内容は概ね2つの説に分かれており、1つは平沢の描いた春画の代金であり、彼自身春画で生計を立てることに抵抗があったため話さなかったとする説。もう一つは本物の金を使用した虎の金屏風を売った代金だったもののこの金屏風は不正に入手したお金のやり取りをごまかすための道具として利用していたため最後までお金の出所を明かさなかったという説もあります。

2つの類似未遂事件

この帝銀事件が起こる前、1947年10月と1948年1月に類似の未遂事件が発生しています。1件目は帝銀事件と同様の方法で当時の銀行にいた行員たちが薬を飲まされましたが、特に体の変異等はなく金銭を強奪されることもありませんでした。そして、2件目でも同様の文句で薬を飲ませようとしましたが、当時の行員たちが結局薬を飲もうとしなかったため、消毒薬を撒いて逃走した事件です。どちらも未遂であり、金銭的な被害も出ていません。

これら2つの事件に居合わせた行員たちは帝銀事件の時と異なり平沢が犯人である、もしくは非常に似ていると証言しています。当時この2件の未遂事件と帝銀事件は単独の同一犯であると断定されていたため、帝銀事件もまた平沢が犯人であると断定。但し、帝銀事件の際には平沢にはアリバイがあるため、先の未遂事件に関わっていたとしても帝銀事件とは無関係であり、犯人は別にいると主張されています。

残された記録傾向への筆者考察

帝銀事件の手がかりとして代表的な資料の一つが「甲斐手記」(甲斐捜査一課係長による手書きの捜査手記)の存在。ここには当時の捜査の重要な手掛かりが数多く記されていますが、情報が詳細に書かれているかと思えば、重要かつ、確実に知り得たであろう情報が記載されていなかったり捜査の糸口になりそうな記述があってもその内容について深く捜査されずに終わっていたりと、証拠が挙がる前に捜査が打ち切られているようなケースが多く見受けられます。

こうしたことと時代背景から今回の事件にはアメリカの進駐軍が大きく関わっていると陰謀論を唱える人も。事件から70年以上が経過した今その真相は謎のままですが、こうした捜査の記録を見ると、事件について決して国民に開示できず、もみ消された事実が大なり小なり存在した可能性は非常に高いと考えられるのではないでしょうか。

日本の犯罪史に残る残虐性と謎

今回の「帝銀事件」において逮捕された平沢氏が死刑囚として過ごした時間は約40年。彼の関係者は直近では2015年にも再審請求を行っており、事件から70年以上たった今でも終わっていません。そして冤罪か犯人か、いまだに決着はつかないまま。戦後の混乱期であったため、真犯人についてオカルトめいた説も見受けられます。しかし、どういった予測がされようと、12人もの人が亡くなった強盗事件が過去の日本で起きているという事実を埋もれさせてはならないのではないでしょうか

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