現代社会

3分で簡単「ロッキード事件」経緯や原因・田中角栄との関係は?行政書士試験合格ライターがわかりやすく解説

今回は、戦後最大の汚職事件と呼ばれる「ロッキード事件」について取り上げていきます。

政治とカネとの関係は今でも問題となっており、ロッキード事件を振り返ることで改めてその問題を認識することとなるでしょう。

事件の経緯や原因を、中心人物の1人である田中角栄との関係を織り交ぜながら、現代社会に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

田中角栄はいかにして総理大臣にまで登り詰めたのか?

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まずは「今太閤」と呼ばれた田中角栄が、総理大臣にまで駆け上がっていった過程を簡単に振り返ってみましょう。

「小卒」から立身出世して実業家に

1918(大正7)年、田中角栄は現在の新潟県柏崎市で8人兄弟の次男として生まれました。少年時代は成績優秀で、当時の高等小学校では総代として卒業式の答辞を読んだほどでした。しかし、実家が貧しい農家であったため学費を工面できず、角栄少年は中学校(現在の高等学校に相当)進学を断念しました。そうした経緯もあり、のちに田中は自らを「小卒」と称することもあったそうです。

進学を断念した田中はほどなく上京し、住み込みで働きながら中央工学校土木科の夜間部(現在の専門学校に相当)に通いました。その後、一度は建築事務所を設立しますが、田中は徴兵されて満州で兵役に就きます。しかし、病気のため除隊。1943(昭和18)年に田中土建工業を設立すると各方面から多くの仕事を請け負うようになり、全国でも上位50社に入るような業務実績を挙げました。

54歳にして総理大臣の座まで駆け上がる

1946(昭和21)年、第二次大戦終戦後初めての衆議院総選挙に田中角栄は出馬しました。しかし、あと一歩及ばずに落選。その翌年に日本国憲法が施行されると、新しい憲法の下で初めての衆議院総選挙が行われ、再び田中は出馬しました。郷里の新潟県から出馬した田中は初当選し、28歳にして代議士となります。

1957(昭和32)年の第1次岸信介改造内閣で郵政大臣(当時)に就任し、戦後初めて30代で入閣すると、その後は大蔵大臣(当時)や党幹事長など要職を次々と経験しました。1972(昭和47)年、『日本列島改造論』を公約として自民党総裁選挙に挑み、見事に当選。54歳にして日本国内閣総理大臣の座を手中に収めました。首相になってからの田中は特に外交で目覚ましい成果を挙げ、中国で周恩来首相や毛沢東主席と対談し、日中国交正常化を実現させました。

なぜロッキード事件は起きたのか?

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ところで、なぜロッキード事件が起こったのでしょうか。ここでは、ロッキード社と田中角栄の、両方の立場から見ていくことにしましょう。

ロッキード社の思惑とは

日本でロッキード事件といえば、田中角栄元総理の収賄事件として捉えられがちでしょう。しかし、アメリカの航空大手であるロッキード社(当時)が引き起こした汚職事件は、日本だけにはとどまりませんでした。オランダでは空軍の戦闘機導入をめぐり、ロッキード社から多額の資金が王室に流れ込んでいました。イタリアでは当時の大統領がロッキード社からの収賄で辞任に追い込まれ、サウジアラビアでは有力な武器商人がロッキード社から多額の資金を得ていたなど、ロッキード社の贈賄工作は広範囲に渡るものでした。

なぜロッキード社が世界中で不適切な献金をしていたのかというと、その理由は当時の業績不振にあります。社の威信をかけたトライスター旅客機の販売が伸びず、多額の負債を抱えるようになりました。そこでロッキード社が考えたのは、各国の政府や要人に働きかけて、自社の製品を導入してもらうようにお願いするというものでした。しかし、賄賂の絡むそうした活動は、もちろん犯罪行為です。

田中角栄の金権政治体質

多額の献金をばら撒いて利益を得ようとしていたロッキード社が一方的に悪いのかというと、もちろん田中角栄にも落ち度があります。田中角栄が若くして総理にまで上り詰めたのは、彼の才覚ももちろんあるでしょう。「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれるほど、知性と行動力を兼ね備えた傑物であったことは間違いありません。しかし、彼が最も力を発揮したのは集金能力とも言われます。

政治は数であり、数は力、力は金だ」、これは田中角栄が放ったとされる言葉です。政権を掌握するためには、他の党よりも1議席でも多く獲得しなければなりません。その「力」を得るためには「金」が必要であると、田中は熟知していました。収賄罪に問われることぐらい知っていたであろう田中が多額の献金を受けたのは、金の力を否でも応でも知っている田中だからこそと言えます。

ロッキード事件はどう裁かれたのか?

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では、ロッキード事件がどのように捜査され、どう裁かれたのでしょうか。ここでは判決が出るまでを見ていきましょう。

田中角栄内閣の退陣とロッキード事件発覚

田中の提唱した『日本列島改造論』は多くの耳目を集めましたが、皮肉なことに地価の上昇や物価高を招くことになります。そして1974年、田中角栄が関連する企業による不正な金脈問題が発覚しました。公共工事が行われるのを事前に知った上でその土地を安値で買収し、それを高値で売り抜けるというものです。それが大々的に報じられるようになると世間の反感を買い、内閣支持率が急激に低下して、田中角栄内閣は総辞職することとなりました。

1976年2月、アメリカ議会上院で行われた公聴会で、ロッキード社が世界中で多額の賄賂をバラ撒いていたことが明るみに出ます。その中で、右翼運動家の児玉誉士夫に巨額の献金が渡っていたことや、田中角栄に5億円の賄賂が渡されていたことなどが明らかとなりました。これを受けて衆議院予算委員会で証人喚問が開かれ、連日のテレビ中継で世間が釘付けになるほどでした。しかし、証人の1人である実業家の小佐野賢治が「記憶にございません」という証言を連発するなど、証人喚問での真相究明は期待外れに終わりました。

ロッキード事件の捜査と裁判

田中角栄の後に首相となった三木武夫は、アメリカのフォード大統領へ直々に事件の捜査への協力を要請するなど、事件の真相解明に積極的でした。しかし、この動きに身内の自民党内からいわゆる「三木おろし」を招くこととなり、衆議院の解散権を行使できずに任期満了で総選挙を迎えるという異例の事態となりました。ロッキード事件の余波で支持が離れた自民党は議席を減らし、三木は責任を取って総理を辞することとなります。

それでも捜査は異例のスピードで進められ、半年もの間に田中角栄など次々と逮捕者を生み、田中は受託収賄と外為法違反容疑で起訴されました。しかし、フィクサーと目された児玉誉士夫が病気のため出廷しないなど、事件の闇は残ったままとも言えます。東京地方裁判所で行われた公判は1983(昭和58)年に結審し、田中に懲役4年、追徴金5億円の実刑判決が下されました。総理経験者の有罪判決を受けて国会が紛糾し、いわゆる「田中判決解散」の後に行われた総選挙で自民党は過半数割れとなり、新自由クラブ(当時)との連立で政権を維持させるのがやっとでした。

\次のページで「ロッキード事件のその後」を解説!/

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