
その2「慙愧の念」
「慙愧(ざんき)の念」の「慙愧」とはもともと仏教で使われていた言葉です。「慚愧」とも書きます。「慙」は自分の行動を自ら恥じることを言い、「愧」は自分の行動を他人に対して恥じることです。つまり「慙愧」とは自分をはじめとして誰か他人に対しても自分自身を恥ずかしいと思うときに使います。ですから「慙愧の念」と言う場合は、自分自身の言動を振り返って自ら恥じる心や、他人に対して申し訳ないと思うときに使う言葉です。この言葉は自分に対してだけ使用するもので他人に対して使うことはありません。
その3「忸怩たる思い」
「忸怩(じくじ)たる思い」とは「深く恥じ入る思い」ということですから「汗顔の至り」の類義語と言えます。「忸」は恥ずかしく思うことで「怩」は恥じ入ることですから、同じ意味を重ねて恥ずかしい思いを強調した言葉です。特に自分の未熟さから計画に不具合が生じたりした場合などに「私の力不足で皆さんにご迷惑をおかけして忸怩たる思いです」というように、自分の力量が足りずにそれを恥じる場合に使います。
「汗顔の至り」の対義語は?
次に「汗顔の至り」の対義語を見ていきましょう。
その1「誇らしい」
「誇らしい」を「汗顔の至り」の対義語とすることには疑問はないでしょう。大切な物事を立派に成し遂げて得意満面、人に自慢したい気持ちを表しています。できれば「汗顔の至り」と恥じるより「誇らしい」気分になったほうがいいと思いますがいかがでしょうか。
その2「得得たる」
「得得たる」とは「得意な様子」「意にかなって満足する様子」を表します。従って「汗顔の至り」の対義語と言えるでしょう。「得得たる」は鎌倉時代初期の禅僧・道元が執筆した『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の言葉が由来となっています。
『正法眼蔵』の「行仏威儀」のなかに「しるべし、生死は仏道の行履なり、生死は仏家の調度なり。使也要使なり、明也明得なり。ゆゑに諸仏はこの通塞に明明なり、この要使に得得なり」との一文があります。
これを現代語にわかりやすく読み解くと「生きる死ぬといった事柄こそ、まさしく仏道が説き示してきたものであることを。生死こそが、仏道を歩む者が何よりも参究すべきものであることを理解しなさい。生死を説き示してきたからこそ、仏教は教えを説く際に生死の語を用いるのであり、生死を明らかにしてきたからこそ、仏教が明らかになるのです。だから仏祖方は生死という真理に対して明るかったし、その要を心得ていたのです」となります。
その3「得意げ」
「得意げ」もまた「誇らしそうな様子」とか「得意そうにしている」という意味で「汗顔の至り」の対義語です。この言葉は前に挙げた「誇らしい」「得得たる」と同じような意味を持っています。
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