フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは、ドイツ・プロイセン王国出身の哲学者。人間と世界の関係について探求し、キリスト教中心の神学界に論争を巻き起こしたことでも知られている。教科書では「超人」というワードを聞くことが多いが、その意味を理解することはなかなか大変です。

そこで、ニーチェが何を主張したのか、哲学界にどのような影響を与えたのか、彼の言葉や名言とあわせて世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。大学生のころニーチェに興味を持ち、演劇論の古典でもある「悲劇の誕生」の翻訳読破にチャレンジしたことがある。日本の若者にも圧倒的支持を受けていたニーチェ。彼の思想が現在、どんな意味を持つのが紹介したい。

ニーチェとはどのような人物?

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フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは、これまでの哲学の価値観を破壊させた、最後は精神を病んで亡くなったなど、ラディカルなイメージが強い人物。実際はどんな人だったのでしょうか。

信心深い牧師を父に持つニーチェ

ニーチェが生れたのは1844年10月15日。プロイセン王国領にある小さな村で生を受けました。父親はカール・ルートヴィヒ。ルター派の裕福な牧師だったことから、ニーチェも将来は牧師になることが望まれていました。

ニーチェが父親と過ごした時間はたったの5年。父親は、誤って転んで頭を打ったことが原因で亡くなります。続いて弟も病気のために死去。父親の死去により収入が絶たれたニーチェは故郷を去って親戚の力を借りて生活することになります。

優秀な青年であったニーチェ

学校に通っていた時代のニーチェはとても多才。とくに音楽と国語に秀でていました。また、友だちの影響などもあり、スポーツ、音楽、絵画などの創作活動に励むという一面もありました。塾に通ってギリシア語ラテン語の基本を学んだのもこのころです。

ニーチェの多才ぶりを知ったドイツの名門校であるプフォルタ学院が、給費制として転学することをすすめてきます。ニーチェはプフォルタ学院にてさらに才能が開花しました。プフォルタ学院は全寮制の学校。そのため保守的なキリスト教世界から離れるきっかけにもなります。

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大学で神学を捨てることを決意したニーチェ

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ニーチェの哲学の思想は、これまでのキリスト教中心の西欧世界を揺るがせ、神学者を中心に多くの論争を巻き起こしたことでも知られています。ニーチェがキリスト教と一定の距離を置いたのが大学時代でした。

牧師の跡を継がないことは異例

プフォルタ学院を優秀な成績で卒業したニーチェはボン大学に進学。神学部と哲学部に籍を置きました。ニーチェの家は牧師が多く、母親も息子が牧師になることを願ってしました。そのため神学部に籍を置いたのです。

ところがニーチェは、神学に対する興味は失せて代わりに古典文献に取り組むようになりました。そのため、1年もしないうちに進学の勉強をストップ。母親に牧師の職を継がないことを伝えます。牧師の家でその職を継がないことは田舎では異例のことでした。

バーゼル大学の教授び推薦されたニーチェ

大学におけるニーチェの成績はとても優秀。それを高く評価されてスイスのバーゼル大学に古典文献学の教授として推薦されました。博士号を取得しておらず、教育資格も取っていないことを考えると異例の大抜擢です。

ニーチェが望んでいたのは哲学を教えること。しかしその願いは却下され、古代ギリシアの古典を教えることになりました。これがニーチェの学問の転換期になります。古代哲学や芸術の専門家と親交を深め、知識を蓄積したニーチェは「悲劇の誕生」を出版するに至りました。

「悲劇の誕生」は現在の演劇論でもよく取り上げられる古典の名著。造形芸術と音楽芸術を、それぞれアポロンとをディオニュソスというギリシアの神に例えて芸術の本質を明らかにしようとしました。ニーチェが芸術の最高形態と見なしたのが悲劇。アポロンの理性とディオニュソスの情動性を併せ持った最高傑作であることを見事に論じました。

ニーチェはどんな哲学を確立させた?

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ニーチェは難しい哲学を確立させたと思われがちです。しかし実際は、難解だった哲学を人間にとって身近なものにしたと言ったほうがいいでしょう。これまでの哲学思想を踏まえながら、社会のなかで生きる、自分の人生を生きることの意味を論じました。

哲学史におけるニーチェの位置づけ

ニーチェは、古典文献学を専門としていたことから、これまでの哲学の概要に精通していました。ソクラテス以前のギリシア哲学だけではなく、「生の哲学」の創始者であるアルトゥル・ショーペンハウアーからも多くのことを吸収しました。ニーチェはとにかく読書オタク。幅広く膨大な知識を吸収し、伝統的な哲学や西洋文明を一刀両断します。

ニーチェの哲学史における位置づけは実存主義の先駆者。実存主義とは19世紀のヨーロッパで流行した思想で、今ここにある人間をひとつの実存ととらえ、自ら人生を切り開くことの意味を追求した思想。神の存在を絶対視するキリスト教世界を覆すような内容でした。

 

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今では当たり前のように「自分らしく生きる」「自分で道を切り開く」という考え方が浸透しています。しかしニーチェの時代、人間の運命を決めるのは自分ではなく神。個人よりも自分のまわりにある環境や価値観のほうが優位とされていました。ニーチェにとって、自分の運命を周囲の環境や目に見えない何かにゆだねるのではなく、自分で考え選択することが大切。しかしながら、人間が自分の力で存在し続けることは困難であり、いつの間にか群衆のなかに埋もれてしまう。それが人間の不幸であると考えました。

ニーチェ哲学の代表的な概念

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ニーチェの哲学を有名にした概念のひとつが「超人」。何だかすごい人のことを言っているようですが、そこに収まらないのが「超人」という概念です。そこでニーチェがどのように「超人」という概念を論じたのか見ていきましょう。

「超人」には自分で自分を乗り越えて到達する

これまでの哲学では人間は動物とは異なる理性的な生物であるというのが前提にありました。しかしながらニーチェにとって人間は、信仰が確立していないと、恨みなどの負の感情に左右される非理性的な生物にすぎません。負の感情をルサンチマンと表現。これが人間の苦悩の元になってると考えました。

「ツァラトゥストラはかく語りき」のなかでニーチェは、人間は負の感情を乗り越えた存在になるべきだと主張。登場人物であるツァラトゥストラが、日々の楽しみに浮かれ騒いでいる人々に対して「超人」について説きました。それは、神に依存するのではなく、自分自身によって乗り越えるものだとも言いました。

「ツァラトゥストラはかく語りき」は、ニーチェの分身であるツァラトゥストラが、「超人」をはじめとするニーチェの思想を物語形式で話していくもの。いわばニーチェ入門書と言えよう内容です。ニーチェは「神が死んだ」と述べたと聞くことがあると思いますが、これもツァラトゥストラのセリフのひとつ。「神が死んだ」と叫んだ理由は人々が、神ではなく自分自身を向き合うきっかけを作るためでした。ある意味、現実を直視しようとした人なのかもしれません。

ナチズムに悪用された「超人」の概念

「超人」という考え方は、20世紀に入りヒトラー率いるナチスドイツの政策の根拠として利用されます。そのきっかけは、ニーチェの妹であるエリザベートが研究メモを反ユダヤ主義に渡していたからという説がひとつ。また、のちにヒトラーが熱狂する音楽家ワグナーが、「超人」をドイツの未来を切り開く概念だと言ったからという見方もあります。

どちらがきっかけだったとしても、ニーチェは自分の思想がナチスドイツの政策に利用されることを望んでいなかったでしょう。ドイツでは、ヒトラーが現れるまえから反ユダヤ主義者が活動を展開していました。ニーチェはそれを嫌悪していたと言われています。「超人」がユダヤ人を虐殺する政策の裏付けとされることがニーチェの本意ではなかったことは確かです。

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フリーランスとして生涯を生きたニーチェ

Geburtshaus Friedrich Nietzsches mit Skulpturengruppe Röcken.jpg
By Elsteraue, CC BY-SA 3.0, Link

ニーチェは大学教授としての職を得ましたが、病気がちだったことを理由にその職を辞します。その後は、療養に適した場所を転々としながら執筆活動を継続。支援者の経済的サポートを受けながら自身の考察をまとめていきました。

健康がすぐれず教授職を退職

ニーチェは子供のころから病気がち。もともと強い近視だったことから目の不調に悩まされていました。さらには片頭痛や胃痛も抱えていました。さらには、馬から落ちたりジフテリアにかかったりするなど、体調を崩す要因が重なります。頭痛がさらに激しくなり、仕事を続けることが難しいと判断したニーチェは大学を辞めることを決意しました。

バーゼル大学からの年金とパトロンからの経済支援を支えに、フリーとなったニーチェは気候のよい場所を探して、あちらこちらを転々とする日々。どこにも属さず、フリーの哲学者として執筆活動を続けます。このときニーチェの身の回りの世話をしたのが妹のエリーザベト。しかし彼女が、反ユダヤ主義者のベルンハルト・フェルスターと結婚したことにより関係性が悪くなってしまいました。

晩年は精神を病んだニーチェ

もともと健康状態がすぐれなかったニーチェですが、精神状態も悪くなっていきます。癇癪をおこすことが増え、イタリアのトリノ市に行ったとき、警察にやっかいになる騒ぎを起こしてしまいました。さらにニーチェは、心配する友人たちにあてて、自分をブッダ、ディオニュソス、カエサル、ナポレオンなどと同一視する、奇妙な手紙を送るようになります。

手紙を見て心配した友人たちはニーチェを精神病院に入れるように助言。晩年は精神病院で過ごすことになりました。1900年8月25日にニーチェは55歳で死去。死因は肺炎でした。ニーチェの遺体は家族の意向により父の隣に埋葬されます。ニーチェの遺言は一部の友人のみでひっそりと葬儀をすること。しかしこの遺言は守られず、妹のエリザベートは軍の関係者や権威ある知識人を呼び、大々的に行われました。

ニーチェは現代人に生き方を示唆した哲学者

ニーチェの哲学者、西洋の人々のキリスト教を中心とする価値観とのかかわり方に一石を投じたもの。キリスト教に限らず、私たちのまわりには思考や行動をがんじがらめにする、さまざまな価値観があります。それから自由になり、自分の意志で考え判断することの重要性を説いたニーチェの思想はとても普遍的であり現代的。ニーチェの著作はどれも力強い表現にあふれており読者に力を与えてくれます。自分の心に響くフレーズを探すような気軽な気持ちで読んでみてもいいのではないでしょうか。

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ドイツナチスドイツプロイセン王国ヨーロッパの歴史世界史

「ニーチェ」って誰?人間と世界の関係を探究した哲学者の人生と思想について元大学教員が5分でわかりやすく解説

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは、ドイツ・プロイセン王国出身の哲学者。人間と世界の関係について探求し、キリスト教中心の神学界に論争を巻き起こしたことでも知られている。教科書では「超人」というワードを聞くことが多いが、その意味を理解することはなかなか大変です。

そこで、ニーチェが何を主張したのか、哲学界にどのような影響を与えたのか、彼の言葉や名言とあわせて世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。大学生のころニーチェに興味を持ち、演劇論の古典でもある「悲劇の誕生」の翻訳読破にチャレンジしたことがある。日本の若者にも圧倒的支持を受けていたニーチェ。彼の思想が現在、どんな意味を持つのが紹介したい。

ニーチェとはどのような人物?

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フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは、これまでの哲学の価値観を破壊させた、最後は精神を病んで亡くなったなど、ラディカルなイメージが強い人物。実際はどんな人だったのでしょうか。

信心深い牧師を父に持つニーチェ

ニーチェが生れたのは1844年10月15日。プロイセン王国領にある小さな村で生を受けました。父親はカール・ルートヴィヒ。ルター派の裕福な牧師だったことから、ニーチェも将来は牧師になることが望まれていました。

ニーチェが父親と過ごした時間はたったの5年。父親は、誤って転んで頭を打ったことが原因で亡くなります。続いて弟も病気のために死去。父親の死去により収入が絶たれたニーチェは故郷を去って親戚の力を借りて生活することになります。

優秀な青年であったニーチェ

学校に通っていた時代のニーチェはとても多才。とくに音楽と国語に秀でていました。また、友だちの影響などもあり、スポーツ、音楽、絵画などの創作活動に励むという一面もありました。塾に通ってギリシア語ラテン語の基本を学んだのもこのころです。

ニーチェの多才ぶりを知ったドイツの名門校であるプフォルタ学院が、給費制として転学することをすすめてきます。ニーチェはプフォルタ学院にてさらに才能が開花しました。プフォルタ学院は全寮制の学校。そのため保守的なキリスト教世界から離れるきっかけにもなります。

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