何かが社会で大流行したとき、それが大衆文化と表現されることが多いでしょう。現代はマスメディアの発達により、多数の人々が同じ文化を共有することが可能となった。

大衆文化はどのような過程を経て発展したのか、日本と世界の大衆文化の普及について、現代社会に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化や歴史を専門とする元大学教員。昔の映画やドラマについて調べることを得意とする。そこで大衆文化の発達について歴史的な視点から解説する。

大衆文化とは何?

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大衆文化とは、社会を占める多くの人々に享受されている文化のこと。一部のひとではなく、多数の人々に対して一気に発信され、それが広く浸透するタイプの文化を指します。

ハイカルチャーの逆にある文化

歴史的に文化というと、学問、文化、美術、音楽などの芸術のことを指していました。これらを発信する、あるいは享受できる人はほんの一部。社会の上位に位置する富裕層や特権階級、知識人、教養人などブルジョワ階級に限定されてきました。これらは、高尚な芸術という意味でハイカルチャーと呼ばれます。

ハイカルチャーに該当する文化は世界各国に存在。日本であれば公家または武家のような支配階級が享受していた文化がそれに該当します。たとえば、紫式部の「源氏物語」はハイカルチャーのひとつ。平安時代に広く読まれていますが、言語を読めない一般庶民はそれを享受する対象とはないからです。

ハイカルチャーを担っていたのは?

ヨーロッパを例にすると、ハイカルチャーを担ってきたのは主にエリートの男性。絵画であれば、画家は男性、モデルは女性、鑑賞者は男性という図式が一般的です。ハイカルチャーを持つ集団は、自分たちの文化がもっとも高級であると考え、下層階級の人々はその意味を理解できないと考えていました。

ハイカルチャーを支えていたのはパトロン。もともとは貴族や王族がその役割を担っていましたが、財をなした商人がパトロンとなることもありました。芸術家や知識人は、パトロンによる経済的サポートを受けながら創作活動をおこなっていました。

大衆文化はいつから生まれた?

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ハイカルチャーが中心だった社会で、大衆文化はまったく存在していないように思われがちですが、実はそうではありません。農民などの一般の人々のあいだでは、独自の文化や風習が継承されていました。

ハイカルチャーからポピュラーカルチャーへ

農民や漁民などの人々のあいだでは、ささやかながらも豊作祈願のお祭りや行事などの文化が継承されていました。それらは、限られた集団の中でのみ享受されており、社会に対する影響力はありませんでした。それが19世紀末になると、写真、蓄音機、映画が登場。無数の人々が一気に享受する文化の土壌となります。

大衆が力をつけてきた理由のひとつが経済効果。19世紀末から金銭的・時間的余裕からある程度の余暇を楽しめる中産階級が出現します。19世紀末から20世紀初頭にかけて、そんな人々をターゲットとする映画が大躍進。資本主義の拡大も後押しして大衆は経済を動かす重要な存在となるのです。

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大衆文化が生れた背景は労働の機械化

ブルジョワ階級以外の人々が従事していたのは肉体労働。しかし、工場などが機械化されたことにより、時間的に余裕がある中流階級層が増えてきます。そのような人々は、仕事が休みの日になると、給料を使って余暇を楽しむように。その結果文化の担い手とみなされていなかった層が社会や経済に対して影響力を持つようになりました。

中産階級層が楽しんだのは、買い物、劇場、映画、飲食など。デパートやレストラン、アミューズメント施設などが至る所に立ち並びます。ジェットコースターのような刺激的な娯楽が増えてきたことも19世紀末の特徴。購買意欲を刺激するポスターやイルミネーションも出現するなど、大衆文化が形成されていきました。

大衆文化に影響を与えた複製技術とは?

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大衆文化は、さまざまなジャンルにより形成されていますが、キーワードとなるのが複製技術。ひとつの創作物を複製して、無数の人々に発信できるようになったことで、同じような趣向を持つ大衆グループが出てきました。

複製技術について論じたヴァルター ・ベンヤミン

大衆文化について初めて本格的に論じたのがドイツの文化評論家であるヴァルター・ベンヤミン。1936年に著した「複製技術時代の芸術」は、現在の文化研究に今でも大きな影響を与えています。

「複製技術時代の芸術」で比較されたのはハイカルチャーとポピュラーカルチャー。ベンヤミンによると、絵画や音楽のような唯一無二の存在であるハイカルチャーは、芸術に高級感を与えてきました。しかしながら、写真や映画のように機械的に複製できるようになったことで、芸術の特権性がなくなったと考えます。

大衆文化のキーワードとなるアウラ

ハイカルチャーに属する作品は「今」「ここ」にしか存在しません。ベンヤミンは、この唯一無二のオリジナル性が作品に「アウラ」を与えると考えました。アウラとは簡単にいうと神秘的なもの。アウラをまとっているからこそ、その作品は特別なものとなりえたのです。

しかし、複製技術の発達により、作品のコピーを大量に生産できるようになりました。そのため、かつて芸術作品にあった唯一無二の性質は消滅。アウラが取り除かれたとこにより、これまでのような権威性はなくなるとベンヤミンは考えました。

ショッピングも大衆文化のひとつ

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19世紀末のヨーロッパやアメリカでは、余暇を楽しむ大衆をターゲットに、デパートやショッピングモールの先駆けとなるような場所が誕生。私たちにとっての日常の一部であるショッピングも大衆文化のひとつと言えます。

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購買意欲を刺激するための文化が生まれる

デパートやモールでは、工場で大量生産された商品がたくさん並びます。それをどれだけ大衆すなわち消費者に買ってもらうのかが、売る側のミッション。大衆の購買意欲を刺激するイルミネーションや広告が、都市部を彩るようになりました。

大衆に向けた宣伝ポスターが発達したのも19世紀末。ポスターの登場人物は普通の家族やカップル。大衆が広告デザインの主役となりました。夜になると都会はキラキラと輝きを放ちます。ホールでは着飾った男女がダンスに興じるようになりました。

日本にもデパート文化が輸出

日本では明治時代になると、文明開化の波を受けて、西欧の影響を受けた文化が一気に花開きます。そのひとつがデパート。明治38年の元旦に、江戸時代に起源がある銀座の三越呉服店が、呉服にとどまらずいろいろな品物を売る路線転換を宣言。デパートメントストアとなる旨の広告を新聞に掲載しました。

それを皮切りに、三越とならぶ老舗の呉服店だった高島屋、松坂屋、大丸なども次々とお店をデパートメント化。西欧の文化を取り入れた最新のファッションやメイク方法などが発信されます。銀座や上野にはカツレツやコロッケが食べられる洋食屋が登場。江戸時代とは異なるライフスタイルが、大衆に浸透していきました。

マスメディアの発達で巨大化する大衆文化

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同時にたくさんの人々に発信するマスメディアは大衆文化を形成する力となります。その源泉となるメディアが生れたのが19世紀末。さまざまな種類のメディアが今も私たちを楽しませてくれます。そのうちの一部を紹介しましょう。

映画は文化の大衆化を一気にすすめた

映画を鑑賞する文化が生まれたのは19世紀末のヨーロッパやアメリカ。全国の映画館で上映されることで、たくさんの人々は一気に同じ価値観やライフスタイルに触れることが可能となりました。映画を通じて、最新のファッション、電話、汽車、車、食事などが、大衆の生活に広がっていきました。

日本では、時代劇や現代劇のほか、アメリカから輸入された作品も大人気となります。とくに大衆に広く支持されたのが、アメリカの西部開拓時代を舞台とする西部劇。アメリカのフロンティア精神や建国の精神など、他の国の価値観が日本の大衆にとって身近なものとなります。西部劇スターを通じて、デニムやカウボーイハットなどのウェスタンスタイルも浸透しました。

テレビは日本の大衆文化にも影響

20世紀最大の発明とされるテレビの放送が開始されたのは1930年代。日本では戦後の1950年代になって本格的にテレビ放送が開始されました。一家に一台のテレビを持つことが日本家庭の目標。記録映画や大相撲、プロレス、プロ野球などのスポーツ中継に始まり、アメリカを中心に海外の映画やドラマが放映されるようになりました。

日本の大衆文化に大きな影響を与えた海外ドラマのひとつが「奥様は魔女」。ドラマに登場する冷蔵庫、オーブン、トースターのような家電、車やバイクなどの乗りもの、パンやスパゲッティを食べるなど、西欧のライフスタイルが日本家庭に浸透するきっかけとなりました。

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日本独自の大衆文化の発達

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日本の大衆文化は、西欧の影響を受けて変容している点も多数。しかし、独自のものもあります。のちに大衆文化の日本らしさが海外で人気となり、日本に興味を持つ外国人が急増するという現象も。日本を世界にアピールすることにも貢献しています。

演歌は古き日本人の心を歌う大衆文化

演歌の起源は19世紀末の自由民権運動の時代。藩閥政府に反発する人々が政治を風刺する演説歌を歌い始めました。自由民権運動が沈静化すると商業化していきます。初期の演歌歌手は、コンサートをするような立場ではなく、盛り場で「流し」をしながら生計を立てるなど、不安定な身分でした。

演歌が大衆文化として根付くきっかけとなったのがレコードの普及。お座敷の要素を取り入れた日本調のものと、西洋のブルースやジャズの要素を取り入れた洋楽調のものが、レコードを通じて大衆に広まります。1950年代ごろから、田舎を懐かしむもの、男女の恋愛を艶っぽく歌うもの、男や女の性を歌うものなど、テーマも広がりを見せていきました。

マンガやアニメは世界に影響を与える

現代の世界で日本の大衆文化と認識されているのがマンガやアニメ。ドラえもんやドラゴンボールは世界各国で翻訳出版されました。最近のものでは、ワンピースやセーラームーンも広く知られています。

さらには、テレビ放送に加えて動画配信を通じて、日本のマンガやアニメの情報が発信されるように。日本では一部の人しか知らないようなマニアックな作品の認知度もあがっています。その延長上で、アニメのコスプレを楽しむ外国人も増加。日本のオタク文化は今もなお世界に影響を与え続けています。

インターネット時代の大衆文化の行方は?

ここでポイントとなるのがインターネット時代の到来。あらゆるところで情報にアクセスできるため、大衆文化のキーワードとなる「同時に多数の人が享受する」状況が生まれにくくなっています。世代間のギャップもさらに拡大。現代社会を学ぶときは、過去だけではなく未来のことも視野に入れて考えてみるとさらに興味深いと思います。

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昭和現代社会

私たちの生活を彩る「大衆文化」の歴史と未来について元大学教員が3分でわかりやすく解説

何かが社会で大流行したとき、それが大衆文化と表現されることが多いでしょう。現代はマスメディアの発達により、多数の人々が同じ文化を共有することが可能となった。

大衆文化はどのような過程を経て発展したのか、日本と世界の大衆文化の普及について、現代社会に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化や歴史を専門とする元大学教員。昔の映画やドラマについて調べることを得意とする。そこで大衆文化の発達について歴史的な視点から解説する。

大衆文化とは何?

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大衆文化とは、社会を占める多くの人々に享受されている文化のこと。一部のひとではなく、多数の人々に対して一気に発信され、それが広く浸透するタイプの文化を指します。

ハイカルチャーの逆にある文化

歴史的に文化というと、学問、文化、美術、音楽などの芸術のことを指していました。これらを発信する、あるいは享受できる人はほんの一部。社会の上位に位置する富裕層や特権階級、知識人、教養人などブルジョワ階級に限定されてきました。これらは、高尚な芸術という意味でハイカルチャーと呼ばれます。

ハイカルチャーに該当する文化は世界各国に存在。日本であれば公家または武家のような支配階級が享受していた文化がそれに該当します。たとえば、紫式部の「源氏物語」はハイカルチャーのひとつ。平安時代に広く読まれていますが、言語を読めない一般庶民はそれを享受する対象とはないからです。

ハイカルチャーを担っていたのは?

ヨーロッパを例にすると、ハイカルチャーを担ってきたのは主にエリートの男性。絵画であれば、画家は男性、モデルは女性、鑑賞者は男性という図式が一般的です。ハイカルチャーを持つ集団は、自分たちの文化がもっとも高級であると考え、下層階級の人々はその意味を理解できないと考えていました。

ハイカルチャーを支えていたのはパトロン。もともとは貴族や王族がその役割を担っていましたが、財をなした商人がパトロンとなることもありました。芸術家や知識人は、パトロンによる経済的サポートを受けながら創作活動をおこなっていました。

大衆文化はいつから生まれた?

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ハイカルチャーが中心だった社会で、大衆文化はまったく存在していないように思われがちですが、実はそうではありません。農民などの一般の人々のあいだでは、独自の文化や風習が継承されていました。

ハイカルチャーからポピュラーカルチャーへ

農民や漁民などの人々のあいだでは、ささやかながらも豊作祈願のお祭りや行事などの文化が継承されていました。それらは、限られた集団の中でのみ享受されており、社会に対する影響力はありませんでした。それが19世紀末になると、写真、蓄音機、映画が登場。無数の人々が一気に享受する文化の土壌となります。

大衆が力をつけてきた理由のひとつが経済効果。19世紀末から金銭的・時間的余裕からある程度の余暇を楽しめる中産階級が出現します。19世紀末から20世紀初頭にかけて、そんな人々をターゲットとする映画が大躍進。資本主義の拡大も後押しして大衆は経済を動かす重要な存在となるのです。

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