昭和現代社会

私たちの生活を彩る「大衆文化」の歴史と未来について元大学教員が3分でわかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。何かが社会で大流行したとき、それが大衆文化と表現されることが多いだろう。現代はマスメディアの発達により、多数の人々が同じ文化を共有することが可能となった。

大衆文化はどのような過程を経て発展したのか、日本と世界の大衆文化の普及について、現代社会に詳しいライターひこすけと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化や歴史を専門とする元大学教員。昔の映画やドラマについて調べることを得意とする。そこで大衆文化の発達について歴史的な視点から解説する。

大衆文化とは何?

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大衆文化とは、社会を占める多くの人々に享受されている文化のこと。一部のひとではなく、多数の人々に対して一気に発信され、それが広く浸透するタイプの文化を指します。

ハイカルチャーの逆にある文化

歴史的に文化というと、学問、文化、美術、音楽などの芸術のことを指していました。これらを発信する、あるいは享受できる人はほんの一部。社会の上位に位置する富裕層や特権階級、知識人、教養人などブルジョワ階級に限定されてきました。これらは、高尚な芸術という意味でハイカルチャーと呼ばれます。

ハイカルチャーに該当する文化は世界各国に存在。日本であれば公家または武家のような支配階級が享受していた文化がそれに該当します。たとえば、紫式部の「源氏物語」はハイカルチャーのひとつ。平安時代に広く読まれていますが、言語を読めない一般庶民はそれを享受する対象とはないからです。

ハイカルチャーを担っていたのは?

ヨーロッパを例にすると、ハイカルチャーを担ってきたのは主にエリートの男性。絵画であれば、画家は男性、モデルは女性、鑑賞者は男性という図式が一般的です。ハイカルチャーを持つ集団は、自分たちの文化がもっとも高級であると考え、下層階級の人々はその意味を理解できないと考えていました。

ハイカルチャーを支えていたのはパトロン。もともとは貴族や王族がその役割を担っていましたが、財をなした商人がパトロンとなることもありました。芸術家や知識人は、パトロンによる経済的サポートを受けながら創作活動をおこなっていました。

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よくポピュラーカルチャーとハイカルチャーが対比されるが、それは階級の対立と考えることもできる。一般の人々も文化を継承していたが、それを発信する機会を持たなかった。そのため存在しないものとされてきたに過ぎない。

大衆文化はいつから生まれた?

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ハイカルチャーが中心だった社会で、大衆文化はまったく存在していないように思われがちですが、実はそうではありません。農民などの一般の人々のあいだでは、独自の文化や風習が継承されていました。

ハイカルチャーからポピュラーカルチャーへ

農民や漁民などの人々のあいだでは、ささやかながらも豊作祈願のお祭りや行事などの文化が継承されていました。それらは、限られた集団の中でのみ享受されており、社会に対する影響力はありませんでした。それが19世紀末になると、写真、蓄音機、映画が登場。無数の人々が一気に享受する文化の土壌となります。

大衆が力をつけてきた理由のひとつが経済効果。19世紀末から金銭的・時間的余裕からある程度の余暇を楽しめる中産階級が出現します。19世紀末から20世紀初頭にかけて、そんな人々をターゲットとする映画が大躍進。資本主義の拡大も後押しして大衆は経済を動かす重要な存在となるのです。

\次のページで「大衆文化が生れた背景は労働の機械化」を解説!/

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