「徳川将軍家」は江戸時代の日本を実質的に支配した将軍の一族です。大河ドラマや時代劇でお馴染みでしょう?徳川将軍家は十五代、265年間に渡って君臨し続けたんです。今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にその「徳川将軍家」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代物が好き。特に江戸時代は時代劇でお馴染み設定だ。武家社会の頂点に君臨し続けた「徳川将軍家」をさらに詳しくまとめた。

1.徳川将軍家と初代将軍「徳川家康」

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今回は徳川家について解説をしていきます。

1600年 天下を分ける「関ケ原の戦い」

戦国時代の末、関白「豊臣秀吉」の死によって政権争いが起こり、対立が発生します。そうして、1600年の「関ケ原の戦い」へと発展していきました。

「関ケ原の戦い」では豊臣家方の石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍が激突。戦いは最初、西軍が有利なように思えました。しかし、有力武将が最初から東軍側に味方していたり、西軍の武将が離反したり、トドメに小早川秀秋の裏切りにあった結果、「関ケ原の戦い」はたった一日で東軍の勝利となったのです。

「関ヶ原の戦い」を制した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に就任。自領の江戸に「江戸幕府」を開いたのです。以降、15代目の徳川慶喜が1867年に大政奉還を行うまで「徳川将軍家」が武家社会の頂点であり、日本の実質的な支配者となったのでした。

「幕藩体制」で大名の再配置

征夷大将軍となった徳川家康ですが、なんと二年後には息子・徳川秀忠に将軍職を譲ってしまいます。

将軍でなくなったあと、徳川家康はどうしたか?

彼は大人しく隠居なんてしません。家康は大御所となって政治の実権を握っていたのです。それに、何も考えず早々に息子に将軍職を譲ったわけではありません。息子に将軍の座を継がせることで、原則として徳川将軍家の長男が将軍職を世襲するという決まりを作ったのです。(秀忠は三男でしたが、家康の長男は早世、次男は養子に出しているため秀忠が将軍となりました)

その状況下で、徳川家康は各地の大名の再配置を行います。それが「幕藩体制」です。

「幕藩体制」により、徳川家の親戚筋にあたる大名を「親藩」として江戸の近くに、関ヶ原の戦い以前から徳川家に味方していた大名を「譜代大名」として重要な土地へ配置。さらに関ヶ原の戦いのあとに徳川家に従うことになった大名たちは「外様大名」と呼ばれ、江戸から遠い土地に配置したのです。

また、幕府は一万石以上の石高をもつ武士を「大名」とし、その武士が治める領地を「藩」といいました。

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大阪冬の陣と夏の陣で豊臣家滅亡へ

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「関ケ原の戦い」で勝利したとはいえ、豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼は許されて大坂城で存命していたため、再び豊臣家と対立することに。それが、1614年の「大坂冬の陣」と1615年の「大坂夏の陣」です。足掛け二年に渡る戦いの最後に豊臣秀頼が自害したことによって、豊臣家は滅亡したのでした。

天皇家と公家を統制する「禁中並公家諸法度」の制定

「大坂の陣」のあと、徳川家康は京都の天皇家や公家に対する「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定します。この制度の発布によって公家や天皇家でさえも幕府の言うことを聞かなければならなくなったのでした。

江戸幕府以前の室町幕府や鎌倉幕府にはなかった制度です。「禁中並公家諸法度」により、徳川家康は江戸幕府を絶対的な地位へと押し上げました。

また、天皇家と公家だけでなく、諸大名たちを統制するために「武家諸法度」も制定します。

将軍職を徳川家のものにした二代目「徳川秀忠」

家康の長男は早世、次男は結城氏の養子となっていたため二代目将軍となった「徳川秀忠」。父・家康が将軍に就任する以前は、彼も戦地に出陣する武将のひとりでした。

「関ヶ原の戦い」の時には別の所を攻めていたため、大急ぎで関ヶ原に駆け付けるも戦いには間に合わず、家康から叱責を受けたことも。

しかし、徳川秀忠が父から征夷大将軍の職を譲られたことは非常に大きな意味を持ちました。秀忠が将軍になることにより、徳川家が征夷大将軍を世襲することが決まったのです。

大阪の陣後は、徳川秀忠は父・家康とともに禁中並公家諸法度、武家諸法度を制定。さらに、自身の将軍引退後、彼もまた大御所として政治の実権を握ったのでした。

2.参勤交代で強固な支配を。三代目将軍「徳川家光」

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大名たちを江戸に

秀忠から将軍職を受け継いだ三代目将軍「徳川家光」。しかし、将軍となったあとも父・秀忠が大御所として政治的実権を握っていたため、秀忠が亡くなるまで二元政治が続けられます。徳川家光の有名な政策が行われたのは、父・秀忠の死後のこと。

1635年、徳川家光は、家康と秀忠の「武家諸法度」を改訂し「参勤交代」を追加したのです。これによって、各大名は江戸に屋敷をつくり、そこに大名の妻子を住まわせなければならなくなりました。さらに、大名自身も一年ごとに領地と江戸の屋敷を往復させる決まりだったのです。

こうすることで、徳川家光は大名たちに多大な出費をさせ、貯蓄を貯め込まさせないようにしました。お金がなければ武器を作ったり買ったりすることができません。武器がなければいくら大名とはいえ、幕府に不満があっても謀反を起こせないという状況になります。

外国との関係を遮断「鎖国」政策

戦国時代に日本に伝来したキリスト教。江戸時代が始まってもその信仰は続けられていました。ところが、島原(現在の長崎県)を治める大名たちが人々に重税や過酷な労働を課し、キリスト教徒の迫害を行ったことがきっかけで、1637年にキリスト教徒を中心とした農民たちの大規模な一揆「島原・天草一揆(島原の乱)」がおこってしまいます。そうして、乱は多くの犠牲者を出して幕府に平定されました。

徳川家光は「島原・天草一揆」以降、キリスト教を入れないように一部をのぞいた外国との関係を断つ「鎖国」政策をとったのです。

幼い四代目「徳川家綱」

「参勤交代」に「鎖国」と江戸時代を代表する政策を行った家光の死後、その跡を継いだのが息子「徳川家綱」でした。家光が亡くなった時、彼はまだ十歳のこどもであったことから、「慶安の変」など倒幕未遂事件が起こります。しかし、その困難を江戸幕府の家臣たちの手腕によって乗り越えることができると、政治は戦争や武力ではなく、学問や教養によって統治する「文治政治」へと切り替わっていきました。

ところが、徳川家綱は子どもができないまま30代半ばで倒れ、40歳の若さで亡くなってしまいます。そこで急遽将軍の座を継承したのが、家綱の異母弟・徳川綱吉でした。

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3.生類憐みの令と五代目将軍「徳川綱吉」

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前半は善政だったのに

徳川家光の四男として生まれ、兄・家綱の死後に将軍となった「徳川綱吉」。その治世の前半は「天和の治」と呼ばれるほどの善政でした。

しかし、その治世の間には『忠臣蔵』の元となる「赤穂事件」が起こります。「赤穂事件」は、刀を抜くことはご法度の江戸城内で、赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけたことからはじまりました。この事件で切腹を申し付けられた浅野内匠頭の仇討のため、大石内蔵助良雄ら赤穂藩の元家臣47人が吉良上野介義央の邸宅に討ち入ったのち、切腹となったのです。

悪名高き「生類憐みの令」

1687年になると、徳川綱吉は「生類憐みの令」を制定。極端な動物愛護を人々に強いていきました。この法で課せられる罰は非常に厳しいもので、もし蚊を一匹でも殺してしまうと、謹慎処分になってしまうほどだったとか。

さらに、「生類憐みの令」に予算を使いこみ幕府の財政は悪化していきます。それを食い止めようと貨幣を改鋳しますが、貨幣の質を落としてインフレを引き起こしてしまったのです。

六代目「徳川家宣」と七代目「徳川家継」父子

徳川綱吉の息子は早世しており、綱吉の兄の息子・家宣が六代目将軍に選ばれました。徳川家宣は学者・新井白石と側用人の真鍋詮房を登用し、綱吉が定めた「生類憐みの令」を廃止していきます。これに人々はとてもよろこびました。ところが、徳川家宣は将軍就任からわずか三年後にこの世を去ってしまいます。

その次に将軍となったのが、彼のたった三歳の息子「徳川家継」だったのです。当然のことながら、三歳のこどもに政治はできません。そのため、引き続き新井白石と真鍋詮房が政治の舵をとりました。

新井白石と真鍋詮房の両名が将軍二代に渡って仕えていた治世を「正徳の治」といいます。また、その結果、将軍が直接政治をするのではなく、老中たちが政治を主導するようになっていきました。

順調のように思えた治世ですが、しかし、徳川家継はたった七歳で亡くなってしまうのです。幼すぎるがために、彼に子どもはいません。そこで、幕府は徳川御三家のひとつ、紀州徳川家から徳川吉宗を養子に迎えて八代目の将軍にしたのです。

4.倹約に徹し幕府の財政を回復「徳川吉宗」

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御三家から初の将軍

初代将軍・徳川家康は、二代目にした秀忠の他に三人の息子がいました。家康はその三人をそれぞれ尾張、紀州、水戸に配置し御三家とします。これは徳川宗家の後嗣が絶えた時に備え、家康が宗家存続のために遺したものであるとも言われ、徳川将軍家に次ぐ地位を持っていました。

紀州徳川家から八代目将軍に選ばれた徳川吉宗。彼は紀州徳川家の財政状況を改善した腕を買われており、江戸城にやってくるとすぐにひっ迫した幕府の財政を立て直すべく奮闘をはじめます。そうしてはじまったのが、江戸時代の三大改革のひとつ「享保の改革」でした。「享保の改革」の成功により、徳川吉宗は「米将軍」や「中興の祖」と呼ばれるようになります。

九代目将軍「徳川家重」と大御所「徳川吉宗」

徳川吉宗は息子「徳川家重」に将軍職を譲りました。しかし、徳川家重は幼少より体が弱く、言語が不明瞭であったとされています。それでも家重が将軍になったのは、将軍の座を巡る後継者争いを避けるためでした。しかし、家重の体のこともあって、引退後も吉宗が大御所として政務を続けます。

十代目「徳川家治」と「田沼意次」の改革

父・徳川家重の跡を継いだ十代目将軍「徳川家治」。彼は聡明な人物で、祖父・徳川吉宗によって教育されました。

また、徳川家治は父・家重の遺言によって「田沼意次」を重用。「田沼意次」は再び悪化していた幕府の赤字財政を止めるべく改革に乗り出します。そこで田沼意次は重商主義政策をはじめ、商品や流通などに課税して利益を得るようにしました。しかし、この政策は幕府と利益優先であったため、弾かれた庶民や大名たちからは猛反発をくらいます。その結果、田沼意次は、彼を重用していた徳川家治の死後に失脚してしまいました。

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十一代目将軍「徳川家斉」と「寛政の改革」

徳川家治の死後、彼の息子が早世していたため、御三卿一橋家の「徳川家斉」を養子に迎えて十一代目の将軍としました。

徳川家斉は田沼意次を罷免し、代わりに松平定信を重用し始めます。そうして、松平定信が行ったのが江戸時代の三大改革の二つ目、1787年にはじまる「寛政の改革」です。しかし、「寛政の改革」は非常に厳しい倹約を武士から庶民にいたるまでのすべての人々に強要しました。こんな改革なら田沼意次の方がマシだったとさえ非難されるレベルです。厳格すぎる改革をしいたため1893年には松平定信が解任され「寛政の改革」は失敗に終わったのでした。

5.「鎖国を解け」外国からの使者

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開国を迫られる幕府

十二代目将軍「徳川家慶」の時代になり、世界の情勢はガラッと一変します。18世紀半ばごろになると、鎖国中の日本へ通商を求めて外国船がやってくるようになったのです。しかし、江戸幕府は「異国船打払令」を出して追い返し、三代目「徳川家光」の時代から続く「鎖国」を守ろうとしました。

また、同時に徳川家慶は水野忠邦を重用して江戸時代の三大改革の最後、1830年の「天保の改革」を行わせます。しかし、改革の苛烈さや腹心の裏切りから水野忠邦は失脚、改革は失敗に終わってしまったのです。

さらに輪をかけて悪いことに、ついに1853年、浦賀(現在の神奈川県三浦半島の港)にアメリカのペリーが黒船四隻を伴って来航しました。

ペリーの黒船に江戸は上から下まで大騒ぎとなり、この最中に、徳川家慶は亡くなってしまうのです。

海外との対応に追われる十三代目「徳川家定」

徳川家慶の死により急遽将軍となった十三代目「徳川家定」。彼は就任後すぐにペリー来航の対応に追われます。

アメリカ側としては、捕鯨船の補給地点としてどうしても日本の開国が必要でした。けれど、この時代、欧米諸国は帝国主義が主流であって、いつ日本も植民地にされてしまうかわからない状態だったのです。そうした状況下で時の老中「阿部正弘」はアメリカと「日米和親条約」を締結しました。この条約で下田と函館の港を開いて燃料と食料の供給をアメリカに行うことになり、長きに渡って続けられてきた鎖国が解除されたのです。

しかし、困ったことになるのはこのあと。1858年、阿部正弘の死後、井伊直弼が「日米修好通商条約」を締結してしまいます。これは「アメリカの治外法権」が認められ、さらに「日本に関税自主権がない」という不平等条約でした。さらに井伊直弼は自分に反対する人々を弾圧する「安政の大獄」を起こし、その仕返しに「桜田門外の変」で暗殺されてしまったのです。

幕末の将軍「徳川家茂」

体の弱かった家定に跡継ぎはなく、再び幕府は紀州徳川家から徳川家茂を養子にして十四代目の将軍としました。

時代は幕末に近づき、開国に反対していた人々の間で「攘夷論」と「尊王論」が持ち上がります。それに合わせて「尊王攘夷論」が盛り上がり、「尊王攘夷運動」が盛んになっていきました。幕府はこれに対抗しようと、朝廷と幕府をひとつにして幕府の発言力を高める「公武合体論」を展開し、孔明天皇の妹・和宮を徳川家重の正室とします。

ところが、そうことは上手く運んではくれません。薩摩藩とイギリスの間で「薩英戦争」が勃発。さらに長州藩がアメリカ、イギリス、フランス、オランダを敵に回した「下関事件」が起こるのです。この二つの事件で敗れた両藩は「薩長同盟」を組み、倒幕を目指して動き出したのでした。

徳川将軍家最後の将軍「徳川慶喜」の大政奉還

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邨田丹陵, Tanryō Murata - 明治神宮聖徳記念絵画館, パブリック・ドメイン, リンクによる

徳川家茂は自身の後継者に一橋家から徳川慶喜を指名。その後、大坂城で病に倒れて亡くなってしまいます。けれど、十五代将軍に指名された徳川慶喜は将軍職への就任を拒否し続け、将軍となった後も一度も江戸城へは入りませんでした。

将軍職を拒否し続けた徳川慶喜。それを示すかのように、1867年に「大政奉還」によって政権を天皇に返したのでした。これによって幕府制度、征夷大将軍は廃止され、徳川慶喜は日本で最後の征夷大将軍となったのです。

江戸時代とともにあり続けた徳川将軍家

約260年間も続いた江戸時代。鎖国により一部をのぞいた外国との交流を断ち、独自の文化や法律を貫き続けたのです。そのなかで15人の将軍たちがそれぞれのやり方で日本を治めようと成功や失敗を繰り返し、歴史に残る日本を築いてきたのでした。

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日本史江戸時代

3分で簡単「徳川将軍家」武家社会の頂点に君臨した十五人の将軍を歴史オタクがわかりやすく解説

「徳川将軍家」は江戸時代の日本を実質的に支配した将軍の一族です。大河ドラマや時代劇でお馴染みでしょう?徳川将軍家は十五代、265年間に渡って君臨し続けたんです。今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にその「徳川将軍家」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代物が好き。特に江戸時代は時代劇でお馴染み設定だ。武家社会の頂点に君臨し続けた「徳川将軍家」をさらに詳しくまとめた。

1.徳川将軍家と初代将軍「徳川家康」

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今回は徳川家について解説をしていきます。

1600年 天下を分ける「関ケ原の戦い」

戦国時代の末、関白「豊臣秀吉」の死によって政権争いが起こり、対立が発生します。そうして、1600年の「関ケ原の戦い」へと発展していきました。

「関ケ原の戦い」では豊臣家方の石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍が激突。戦いは最初、西軍が有利なように思えました。しかし、有力武将が最初から東軍側に味方していたり、西軍の武将が離反したり、トドメに小早川秀秋の裏切りにあった結果、「関ケ原の戦い」はたった一日で東軍の勝利となったのです。

「関ヶ原の戦い」を制した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に就任。自領の江戸に「江戸幕府」を開いたのです。以降、15代目の徳川慶喜が1867年に大政奉還を行うまで「徳川将軍家」が武家社会の頂点であり、日本の実質的な支配者となったのでした。

「幕藩体制」で大名の再配置

征夷大将軍となった徳川家康ですが、なんと二年後には息子・徳川秀忠に将軍職を譲ってしまいます。

将軍でなくなったあと、徳川家康はどうしたか?

彼は大人しく隠居なんてしません。家康は大御所となって政治の実権を握っていたのです。それに、何も考えず早々に息子に将軍職を譲ったわけではありません。息子に将軍の座を継がせることで、原則として徳川将軍家の長男が将軍職を世襲するという決まりを作ったのです。(秀忠は三男でしたが、家康の長男は早世、次男は養子に出しているため秀忠が将軍となりました)

その状況下で、徳川家康は各地の大名の再配置を行います。それが「幕藩体制」です。

「幕藩体制」により、徳川家の親戚筋にあたる大名を「親藩」として江戸の近くに、関ヶ原の戦い以前から徳川家に味方していた大名を「譜代大名」として重要な土地へ配置。さらに関ヶ原の戦いのあとに徳川家に従うことになった大名たちは「外様大名」と呼ばれ、江戸から遠い土地に配置したのです。

また、幕府は一万石以上の石高をもつ武士を「大名」とし、その武士が治める領地を「藩」といいました。

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