
皇帝崇拝を強要したディオクレティアヌス帝
284年にローマ皇帝となり、軍人皇帝時代の混乱を収め、さらにそれまでの元首政から専制君主政へと改革したディオクレティアヌス帝。広大すぎるローマ帝国を統治するために帝国を東西で二分し、東と西の皇帝、そして副皇帝たちの四人で治める「四分統治」を行いました。
輝かしい政策のかたわら、ディオクレティアヌス帝は最後で最大のキリスト教迫害を行ったことでも知られます。
ディオクレティアヌス帝の政策のひとつに、彼自身を神として敬わせる「皇帝崇拝」がありました。ディオクレティアヌスは皇帝となったあと、自らをローマ神話の主神ユピテルの化身とし、皇帝を神として崇める「皇帝崇拝」をローマの人々に強要します。もちろん、キリスト教徒も例外ではなく、最初こそローマの神々に礼拝をすればキリスト教徒でいてもよい、というふうにしていましたが、一神教のキリスト教徒は従いません。なので、ディオクレティアヌス帝はキリスト教徒を強制的に改宗させる方針を取ります。
しかし、キリスト教徒たちもそう簡単に改宗させられません。信者たちはカタコンベ(地下墓所)で隠れて神へ祈りを捧げて自分たちの信仰を守ろうとします。このようにディオクレティアヌス帝とキリスト教徒たちが攻防している間にも、キリスト教徒たちは増え続けました。そうして、とうとう業を煮やしたディオクレティアヌスは、303年にキリスト教徒への大迫害を行ったのです。
ディオクレティアヌス帝の大迫害はかつてないほどの規模となり、キリスト教の殉教者は数千人にも上ったとされています。
2.キリスト教徒の希望となれ「ミラノ勅令」

ディオクレティアヌス帝が退位したのちも、キリスト教徒への迫害は終わりません。また、彼の退位はローマ帝国内に別の波乱を呼び起こしていました。ディオクレティアヌス帝は帝位を世襲制にはせず、東西の皇帝を指名して引き継がせます。しかし、彼の死後、指名された四人の皇帝と副皇帝たちは誰が主導権を握るかを争い始めたのです。
コンスタンティヌス帝の即位と「ミラノ勅令」発布
そこで登場するのが、当時、西の副皇帝だったコンスタンティヌス1世でした。彼は皇帝たちによる内紛の折に、コンスタンティヌスは競争相手である東のリキニウスとミラノで会談して同盟を結んだとき、キリスト教を公認しよう、という取り決めを行います。その後、コンスタンティヌスが西方の、リキニウスが東方の皇帝となったときに連名で「ミラノ勅令」を発布したのでした。
「ミラノ勅令」による信教の保障
キリスト教徒の弾圧に幕を下ろした「ミラノ勅令」。その内容はいったいどのようなものだったのでしょうか?
まず、一番大切なのはミラノ勅令によって「キリスト教が公認された」こと。正確にはキリスト教を含むすべての宗教を信仰する自由を保障するものでした。しかし、キリスト教が公認されたことによって、これまで苛烈に行われてきたキリスト教迫害の廃止、そして、迫害中に没収された土地と財産の返還がされたのです。
ここでひとつ注意してほしいところは、ミラノ勅令でキリスト教を「公認した」のであって、ローマ帝国がキリスト教を「国教化したのではない」こと。国教は国家が特定の宗教を公式に保護して活動を支援することです。ミラノ勅令の時点では、まだここまでいきません。キリスト教がローマ帝国の国教となるのは392年テオドシウス帝の時代まで待たなければならないのです。
「ミラノ勅令」は守られたのか?

「ミラノ勅令」が発布され、自由にキリスト教を信仰できるようになったその後、果たして、本当に「ミラノ勅令」は守られたのでしょうか?
残念なことに、東のリキニウス帝は「ミラノ勅令」を破って再びキリスト教を弾圧し始めたため、コンスタンティヌス帝の治める西側でしか自由な信仰は守られませんでした。また、こうしたことからリキニウス帝と、キリスト教に改宗していたコンスタンティヌス帝は対立。そこに副帝を誰にするかなど他の要素も相まって、両者の武力衝突は避けられないものとなりました。
そうして、324年「アドリアノープルの戦い」でコンスタンティヌス帝がリキニウス帝をついに破り、ローマ帝国で久しぶりの単独の皇帝となりました。このことにより、「ミラノ勅令」はローマ全土で守られたのです。
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