現代でこそ世界三大宗教のひとつに数えられるキリスト教ですが、キリスト教ができた当時は、ローマ帝国の皇帝たちによって迫害されていたんです。それが4世紀のある時を境に一転して公認されるようになる。いったい4世紀のローマ帝国になにがったんでしょうな。それと、同じ名前を持つ勅令が19世紀のフランス帝国でも発布されているんです。
今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にそのきっかけとなった「ミラノ勅令」について、当時の背景や皇帝にも触れながらわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は約2000年前に登場し、世界中に広まったキリスト教の歴史の一端、キリスト教徒に苛烈な迫害が終わりを迎えた「ミラノ勅令」についてまとめた。

1.ヨーロッパ世界の覇権を握るローマ帝国

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多神教の「ローマ神話」と一神教の「キリスト教」

紀元後30年以降、ユダヤ教の一分派としてみなされていたキリスト教ですが、信者ペテロやパウロらによってユダヤ人、そしてローマ人へと広く布教されて行きました。しかし、そこにはひとつ大きな苦難が待ち構えていたのです。

当時、ヨーロッパを広く支配していたのはローマ帝国でした。紀元前1世紀半までには地中海全域を支配する広大な上に強力な大国です。そのあまりの広さに「すべての道はローマへ通ず」という故事までできるほどでした。

そのローマ人たちには古くから信じられているローマ神話とその神々がいます。さらにローマ皇帝自身も死後に神格化されたり、もしくは、ローマ皇帝自身が自らを神として人々に崇拝させるような政策などを行ったこともありした。ローマ神話は多くの神々が存在する「多神教」の神話だったのです。

一方で、キリスト教は唯一絶対の神様のみの「一神教」の宗教でした。信じて祈るべきたったひとつの神様。つまり、キリスト教徒は自分たちの神様以外を神として崇拝したり、祈ったりはしないのです。

なぜ?キリスト教徒の迫害

キリスト教がローマ帝国内に広まり始めた最初こそ、帝国は他の宗教と同様に禁止したりはせず、寛容でした。ところが、ローマ神話の神々も神格化された歴代の皇帝たちも、一神教のキリスト教徒にとっては神ではありません。そのため、キリスト教徒は当時のローマの法で定められたローマの神々へのお供えを行わずに罰せられたりするようになります。また、キリスト教の教えでは、神の前では身分は関係なく、信者ならば奴隷も等しく会合などに参加できたのです。それまで伝統や決まりを積み重ね、守って来たローマ帝国にとってこれらの行いはあまりに新しすぎるもの。そのため、キリスト教徒の行いはローマの秩序や風紀を乱す行為とみなされてしまったのでした。

特に大きな迫害として知られるのが、暴君として知られるネロ・クラウディウス帝が行った64年の大迫害と、「四分統治」のディオクレティアヌス帝の303年の大迫害です。

ネロ帝によるイエスの弟子ペテロとパウロの殉教

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54年にローマ帝国五代目の皇帝となったネロ・クラウディウス。彼はカエサルの血を引く最後の皇帝であり、名君と暴君の両側面を持つ皇帝でした。また、ネロ帝は古代のオリンピック(オリュンピア祭)に参加したり、五年に一度のネロ祭などを創設、さらに自らもコンサートを開くなど非常に芸術を愛し、熱中した皇帝でもあります。

ネロ帝のキリスト教徒迫害は、64年のこと。この年、ローマ市では数日間に渡る大きな火事「ローマ大火」が起こりました。ネロ帝は被災者への救済を速やかに行い、ローマ市の再建を目指します。しかし、一方で、ネロ帝は「ローマ大火」の犯人はキリスト教徒だとし、放火の罪で処刑。さらに弾圧を始めました。

この大迫害によりイエス・キリストの弟子で当時のキリスト教の最高指導者ペテロ、そして、パウロが捕らえられて殉職したとされています。

\次のページで「皇帝崇拝を強要したディオクレティアヌス帝」を解説!/

皇帝崇拝を強要したディオクレティアヌス帝

284年にローマ皇帝となり、軍人皇帝時代の混乱を収め、さらにそれまでの元首政から専制君主政へと改革したディオクレティアヌス帝。広大すぎるローマ帝国を統治するために帝国を東西で二分し、東と西の皇帝、そして副皇帝たちの四人で治める「四分統治」を行いました。

輝かしい政策のかたわら、ディオクレティアヌス帝は最後で最大のキリスト教迫害を行ったことでも知られます。

ディオクレティアヌス帝の政策のひとつに、彼自身を神として敬わせる「皇帝崇拝」がありました。ディオクレティアヌスは皇帝となったあと、自らをローマ神話の主神ユピテルの化身とし、皇帝を神として崇める「皇帝崇拝」をローマの人々に強要します。もちろん、キリスト教徒も例外ではなく、最初こそローマの神々に礼拝をすればキリスト教徒でいてもよい、というふうにしていましたが、一神教のキリスト教徒は従いません。なので、ディオクレティアヌス帝はキリスト教徒を強制的に改宗させる方針を取ります。

しかし、キリスト教徒たちもそう簡単に改宗させられません。信者たちはカタコンベ(地下墓所)で隠れて神へ祈りを捧げて自分たちの信仰を守ろうとします。このようにディオクレティアヌス帝とキリスト教徒たちが攻防している間にも、キリスト教徒たちは増え続けました。そうして、とうとう業を煮やしたディオクレティアヌスは、303年にキリスト教徒への大迫害を行ったのです。

ディオクレティアヌス帝の大迫害はかつてないほどの規模となり、キリスト教の殉教者は数千人にも上ったとされています。

2.キリスト教徒の希望となれ「ミラノ勅令」

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ディオクレティアヌス帝が退位したのちも、キリスト教徒への迫害は終わりません。また、彼の退位はローマ帝国内に別の波乱を呼び起こしていました。ディオクレティアヌス帝は帝位を世襲制にはせず、東西の皇帝を指名して引き継がせます。しかし、彼の死後、指名された四人の皇帝と副皇帝たちは誰が主導権を握るかを争い始めたのです。

コンスタンティヌス帝の即位と「ミラノ勅令」発布

そこで登場するのが、当時、西の副皇帝だったコンスタンティヌス1世でした。彼は皇帝たちによる内紛の折に、コンスタンティヌスは競争相手である東のリキニウスとミラノで会談して同盟を結んだとき、キリスト教を公認しよう、という取り決めを行います。その後、コンスタンティヌスが西方の、リキニウスが東方の皇帝となったときに連名で「ミラノ勅令」を発布したのでした。

 

「ミラノ勅令」による信教の保障

キリスト教徒の弾圧に幕を下ろした「ミラノ勅令」。その内容はいったいどのようなものだったのでしょうか?

まず、一番大切なのはミラノ勅令によって「キリスト教が公認された」こと。正確にはキリスト教を含むすべての宗教を信仰する自由を保障するものでした。しかし、キリスト教が公認されたことによって、これまで苛烈に行われてきたキリスト教迫害の廃止、そして、迫害中に没収された土地と財産の返還がされたのです。

ここでひとつ注意してほしいところは、ミラノ勅令でキリスト教を「公認した」のであって、ローマ帝国がキリスト教を「国教化したのではない」こと。国教は国家が特定の宗教を公式に保護して活動を支援することです。ミラノ勅令の時点では、まだここまでいきません。キリスト教がローマ帝国の国教となるのは392年テオドシウス帝の時代まで待たなければならないのです。

「ミラノ勅令」は守られたのか?

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「ミラノ勅令」が発布され、自由にキリスト教を信仰できるようになったその後、果たして、本当に「ミラノ勅令」は守られたのでしょうか?

残念なことに、東のリキニウス帝は「ミラノ勅令」を破って再びキリスト教を弾圧し始めたため、コンスタンティヌス帝の治める西側でしか自由な信仰は守られませんでした。また、こうしたことからリキニウス帝と、キリスト教に改宗していたコンスタンティヌス帝は対立。そこに副帝を誰にするかなど他の要素も相まって、両者の武力衝突は避けられないものとなりました。

そうして、324年「アドリアノープルの戦い」でコンスタンティヌス帝がリキニウス帝をついに破り、ローマ帝国で久しぶりの単独の皇帝となりました。このことにより、「ミラノ勅令」はローマ全土で守られたのです。

\次のページで「3.皇帝ナポレオンともうひとつの「ミラノ勅令」」を解説!/

3.皇帝ナポレオンともうひとつの「ミラノ勅令」

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ローマ帝国から時代は下って19世紀のこと。フランス帝国にも「ミラノ勅令」と同じ名前のものが発布されます。ただし、こちらはキリスト教とは無関係。フランスの初代皇帝ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)がとったベルリン勅令に続く対イギリス経済封鎖政策です。

初代フランス皇帝ナポレオン

ナポレオンと言えば、ダヴィッドの描いた馬に跨って片手を上げる絵画が有名ですね。彼はもともと地中海に浮かぶコルシカ島の小さな貴族の家に生まれました。しかし、家の乏しい権力や財力をものともせず、成人したナポレオンは軍人となり、軍の中でナポレオンは司令官として素晴らしい手腕を発揮し、国内軍事司令官などの役職につきます。

さらに若き英雄ナポレオンはイタリア遠征、エジプト遠征を重ねたあと、弱っていた当時の総裁政府に対して1799年に「ブリュメール18日のクーデター」を起こし、総裁政府を打倒。ナポレオンは年内にフランス革命の終結を宣言し、統領政府を発足。彼自身は第一統領となって、事実上の独裁権力を得たのです。

その後、ナポレオンは国民投票によってフランスの皇帝に即位。フランス第一帝政が開始されたのでした。

ヨーロッパ征服開始「ナポレオン戦争」

1796年、ナポレオン戦争が始まった当初は、フランス革命に対する諸外国からの干渉を防ぐ防衛戦争でした。しかし、防衛戦争のなかでナポレオンはめきめきと実力を発揮。やがて防衛戦争は侵略戦争へと変貌していきました。そうして、ヨーロッパのほぼすべての国家が関与する「ナポレオン戦争」となったのです。

特にナポレオンのフランスと対立したのが、ドーバー海峡の向こうのイギリスでした。ナポレオンは敵対するイギリスに打撃を与えるため、1806年に「ベルリン勅令」、翌1807年に「ミラノ勅令」を発布します。この両政策は、ナポレオンの征服した地域とイギリス、およびイギリスの植民地での貿易を禁止するものでした。これによってヨーロッパの市場からイギリスを締め出し、イギリスに経済的打撃を与えようとしたのです。「ベルリン勅令」と「ミラノ勅令」をまとめて「大陸封鎖」といいます。

しかし、大陸封鎖はナポレオンが考えていたような成果は上げられず、ナポレオンの没落するきっかけとなったロシア遠征の失敗とともに崩壊したのでした。

「ミラノ勅令」は当時のキリスト教徒たちの光

ローマの皇帝たちによって大迫害の憂き目にあっていたキリスト教。その不運な境遇を一転させたのがコンスタンティヌス帝の発布した「ミラノ勅令」でした。「ミラノ勅令」ではキリスト教を含め、すべての宗教を自由に信仰できると認められたのです。これまでの迫害で没収されていた土地や財産はキリスト教会や信徒たちへと返還され、ようやく平和に信仰を続けられる明るい時代がはじまったのでした。

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ヨーロッパの歴史ローマ帝国世界史

3分で簡単「ミラノ勅令」キリスト教公迫害からなぜ認歴へ?歴史オタクがわかりやすく解説

現代でこそ世界三大宗教のひとつに数えられるキリスト教ですが、キリスト教ができた当時は、ローマ帝国の皇帝たちによって迫害されていたんです。それが4世紀のある時を境に一転して公認されるようになる。いったい4世紀のローマ帝国になにがったんでしょうな。それと、同じ名前を持つ勅令が19世紀のフランス帝国でも発布されているんです。
今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にそのきっかけとなった「ミラノ勅令」について、当時の背景や皇帝にも触れながらわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は約2000年前に登場し、世界中に広まったキリスト教の歴史の一端、キリスト教徒に苛烈な迫害が終わりを迎えた「ミラノ勅令」についてまとめた。

1.ヨーロッパ世界の覇権を握るローマ帝国

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多神教の「ローマ神話」と一神教の「キリスト教」

紀元後30年以降、ユダヤ教の一分派としてみなされていたキリスト教ですが、信者ペテロやパウロらによってユダヤ人、そしてローマ人へと広く布教されて行きました。しかし、そこにはひとつ大きな苦難が待ち構えていたのです。

当時、ヨーロッパを広く支配していたのはローマ帝国でした。紀元前1世紀半までには地中海全域を支配する広大な上に強力な大国です。そのあまりの広さに「すべての道はローマへ通ず」という故事までできるほどでした。

そのローマ人たちには古くから信じられているローマ神話とその神々がいます。さらにローマ皇帝自身も死後に神格化されたり、もしくは、ローマ皇帝自身が自らを神として人々に崇拝させるような政策などを行ったこともありした。ローマ神話は多くの神々が存在する「多神教」の神話だったのです。

一方で、キリスト教は唯一絶対の神様のみの「一神教」の宗教でした。信じて祈るべきたったひとつの神様。つまり、キリスト教徒は自分たちの神様以外を神として崇拝したり、祈ったりはしないのです。

なぜ?キリスト教徒の迫害

キリスト教がローマ帝国内に広まり始めた最初こそ、帝国は他の宗教と同様に禁止したりはせず、寛容でした。ところが、ローマ神話の神々も神格化された歴代の皇帝たちも、一神教のキリスト教徒にとっては神ではありません。そのため、キリスト教徒は当時のローマの法で定められたローマの神々へのお供えを行わずに罰せられたりするようになります。また、キリスト教の教えでは、神の前では身分は関係なく、信者ならば奴隷も等しく会合などに参加できたのです。それまで伝統や決まりを積み重ね、守って来たローマ帝国にとってこれらの行いはあまりに新しすぎるもの。そのため、キリスト教徒の行いはローマの秩序や風紀を乱す行為とみなされてしまったのでした。

特に大きな迫害として知られるのが、暴君として知られるネロ・クラウディウス帝が行った64年の大迫害と、「四分統治」のディオクレティアヌス帝の303年の大迫害です。

ネロ帝によるイエスの弟子ペテロとパウロの殉教

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54年にローマ帝国五代目の皇帝となったネロ・クラウディウス。彼はカエサルの血を引く最後の皇帝であり、名君と暴君の両側面を持つ皇帝でした。また、ネロ帝は古代のオリンピック(オリュンピア祭)に参加したり、五年に一度のネロ祭などを創設、さらに自らもコンサートを開くなど非常に芸術を愛し、熱中した皇帝でもあります。

ネロ帝のキリスト教徒迫害は、64年のこと。この年、ローマ市では数日間に渡る大きな火事「ローマ大火」が起こりました。ネロ帝は被災者への救済を速やかに行い、ローマ市の再建を目指します。しかし、一方で、ネロ帝は「ローマ大火」の犯人はキリスト教徒だとし、放火の罪で処刑。さらに弾圧を始めました。

この大迫害によりイエス・キリストの弟子で当時のキリスト教の最高指導者ペテロ、そして、パウロが捕らえられて殉職したとされています。

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