
今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にそのきっかけとなった「ミラノ勅令」について、当時の背景や皇帝にも触れながらわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は約2000年前に登場し、世界中に広まったキリスト教の歴史の一端、キリスト教徒に苛烈な迫害が終わりを迎えた「ミラノ勅令」についてまとめた。
多神教の「ローマ神話」と一神教の「キリスト教」
紀元後30年以降、ユダヤ教の一分派としてみなされていたキリスト教ですが、信者ペテロやパウロらによってユダヤ人、そしてローマ人へと広く布教されて行きました。しかし、そこにはひとつ大きな苦難が待ち構えていたのです。
当時、ヨーロッパを広く支配していたのはローマ帝国でした。紀元前1世紀半までには地中海全域を支配する広大な上に強力な大国です。そのあまりの広さに「すべての道はローマへ通ず」という故事までできるほどでした。
そのローマ人たちには古くから信じられているローマ神話とその神々がいます。さらにローマ皇帝自身も死後に神格化されたり、もしくは、ローマ皇帝自身が自らを神として人々に崇拝させるような政策などを行ったこともありした。ローマ神話は多くの神々が存在する「多神教」の神話だったのです。
一方で、キリスト教は唯一絶対の神様のみの「一神教」の宗教でした。信じて祈るべきたったひとつの神様。つまり、キリスト教徒は自分たちの神様以外を神として崇拝したり、祈ったりはしないのです。
なぜ?キリスト教徒の迫害
キリスト教がローマ帝国内に広まり始めた最初こそ、帝国は他の宗教と同様に禁止したりはせず、寛容でした。ところが、ローマ神話の神々も神格化された歴代の皇帝たちも、一神教のキリスト教徒にとっては神ではありません。そのため、キリスト教徒は当時のローマの法で定められたローマの神々へのお供えを行わずに罰せられたりするようになります。また、キリスト教の教えでは、神の前では身分は関係なく、信者ならば奴隷も等しく会合などに参加できたのです。それまで伝統や決まりを積み重ね、守って来たローマ帝国にとってこれらの行いはあまりに新しすぎるもの。そのため、キリスト教徒の行いはローマの秩序や風紀を乱す行為とみなされてしまったのでした。
特に大きな迫害として知られるのが、暴君として知られるネロ・クラウディウス帝が行った64年の大迫害と、「四分統治」のディオクレティアヌス帝の303年の大迫害です。
ネロ帝によるイエスの弟子ペテロとパウロの殉教

54年にローマ帝国五代目の皇帝となったネロ・クラウディウス。彼はカエサルの血を引く最後の皇帝であり、名君と暴君の両側面を持つ皇帝でした。また、ネロ帝は古代のオリンピック(オリュンピア祭)に参加したり、五年に一度のネロ祭などを創設、さらに自らもコンサートを開くなど非常に芸術を愛し、熱中した皇帝でもあります。
ネロ帝のキリスト教徒迫害は、64年のこと。この年、ローマ市では数日間に渡る大きな火事「ローマ大火」が起こりました。ネロ帝は被災者への救済を速やかに行い、ローマ市の再建を目指します。しかし、一方で、ネロ帝は「ローマ大火」の犯人はキリスト教徒だとし、放火の罪で処刑。さらに弾圧を始めました。
この大迫害によりイエス・キリストの弟子で当時のキリスト教の最高指導者ペテロ、そして、パウロが捕らえられて殉職したとされています。
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