世界史古代ローマ

3分で簡単「元老院」誰がなった?古代ローマの政治事情は?歴史オタクがわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ。古代ローマの政治の世界ではじまった「元老院」を知っているか?なんだか老人が集まって小難しい顔をしているようなイメージが浮かんでこないか。実際はそこまで老人ばかりだったわけじゃないんだがな。それに、世界初の共和制として重要な機関だったんだぞ。
今回はその「元老院」についてそのまわりの時代背景を交えながら歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代ローマからはじまった「元老院」についてまとめた。

1.成立は古代ローマ! 「元老院」のはじまり

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「元老院」の制度が始まったのは古代ローマの時代。紀元前753年にロームルス王がローマに都市を完成させて、100人の貴族(パトリキ)で構成させる「元老院」を作ったことにはじまります。

ロームルス王は「元老院」に任命した貴族たちが王と意見をかわしたり、助言を与えたりして政治を行うことで、有力な貴族たちを敵に回すことなく自分の支配下に置いたのでした。そのため、「元老院」は古代ローマの政界における最高機関となり、さらに旺盛ローマから帝政ローマの時代まで存続します。

この「元老院」に入る条件はまず第一に30歳以上の貴族の男子であること。定員は300人で、一度元老院に選ばれればそのまま終身議員になれました。

ホントは不仲?王政ローマ下の「元老院」と王の関係

ローマを建国したロームルス王。しかし、その最期は疑惑を拭えないものでした。

紀元前715年のこと。ロームルス王が整列させた兵士たちを見ていたとき、急な雷雨に襲われると同時に、ロームルス王の姿がなくなってしまうのです。以後、姿を見せなくなったロームルス王に対し、「王は誰かに暗殺されてしまった」というものもいれば、「ロームルス王は神として天に戻った」というものも出てきました。

前者の暗殺説の容疑者として噂されたのが「元老院」です。元老院は王に対する助言を行っていましたが、ロームルス王の下にあった元老院には政治の決定権があるわけではありません。あくまで「助言」なのです。そのせいで元老院と強い権力を持つロームルス王が不仲になり、その末にロームルス王を暗殺したと疑われたのでした。

しかし、疑いを向けられた元老院の貴族たちは、それを払拭すべくロームルス王を積極的に神格化します。「こんなに敬愛している王様を自分たちが殺すわけがない!」というアピールですね。

ただ、次の王が選ばれるまでの間、元老院がローマの統治を行っていたとされているため、犯人は不明とはいえ、歴史家たちの間ではロームルス王は暗殺された可能性が高いとみられています。

王政ローマ最後の王を追放し、共和制へ!

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ロームルス王から約200年後の紀元前535年。タルクィニウス・スペルブスがローマの七代目の王となりました。しかし、タルクィニウス王はとんでもない暴君だったのです。そもそも、ローマの王は世襲制ではなく、王になるためには元老院や民会の承認が必要でした。しかし、タルクィニウス王はそれらを無視して即位したのです。最初から元老院たちを無視したわけですから、その後も政治に元老院を介入させることなく、独裁的に行っていきます。これにローマの人々は大きな不満を抱きました。

ただ、暴君タルクィニウスは戦争が得意だったのです。タルクィニウス王は領土を拡大し、強国エトルリアと同盟を結びました。強大なエトルリアと同盟したことで、敵はほとんどいなくなったようなものです。しかし、一方で、ローマ国内をエトルリア人が自由に歩き回るのを見たローマ人たちは「ローマはエトルリアの属国になった」という意識が芽生えます。

そうして、とうとうローマ人たちの怒りが爆発。タルクィニウス王が遠征に出かけた間にローマの門をすべて閉じ、タルクィニウスをローマに帰ってこれないようにしたのでした。

こうして、ローマ王政最後の王がローマから追放され、共和政ローマが始まるのです。また、タルクィニウス王を追放したことで、ローマの人々の間に共和政を大切にする精神と、王という地位を拒絶する風潮が強く根付いたのでした。

ローマの王様の権威はどのくらい?

ローマを建国したロームルス王は死後に神格化されましたが、生前から神様のように扱われていたわけではありません。また、ロームルス王の後継者に選ばれたのは彼の息子ではなく、ローマになんのしがらみもないザビニ人のヌマ王でした。

オリエントやエジプトの王様は宗教的な権威を持った絶対的な存在でしたが、ローマの王様はそうではなかったのです。なので、王様はローマの人々が投票して有力者(パドレス)のなかから選びました。ローマの市民権があれば誰でも王様に選ばれるチャンスがあったのです。

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ローマが建国された当初から設けられた「元老院」。最初は王の諮問機関だったが、王の即位を承認したりと次第に権力を持っていったわけだ。そして、王を追放して王政ローマから共和政ローマの時代へ移行すると、今度は政治の中心となる執政官を牽制するような巨大な権限を持つようになったんだな。

\次のページで「2.世界初の共和政を実現。その実際は?」を解説!/

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