古代ローマの政治の世界ではじまった「元老院」を知っているか?なんだか老人が集まって小難しい顔をしているようなイメージが浮かんでこないか。実際はそこまで老人ばかりだったわけじゃなのですがな。それに、世界初の共和制として重要な機関だったんです。
今回はその「元老院」についてそのまわりの時代背景を交えながら歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代ローマからはじまった「元老院」についてまとめた。

1.成立は古代ローマ! 「元老院」のはじまり

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「元老院」の制度が始まったのは古代ローマの時代。紀元前753年にロームルス王がローマに都市を完成させて、100人の貴族(パトリキ)で構成させる「元老院」を作ったことにはじまります。

ロームルス王は「元老院」に任命した貴族たちが王と意見をかわしたり、助言を与えたりして政治を行うことで、有力な貴族たちを敵に回すことなく自分の支配下に置いたのでした。そのため、「元老院」は古代ローマの政界における最高機関となり、さらに旺盛ローマから帝政ローマの時代まで存続します。

この「元老院」に入る条件はまず第一に30歳以上の貴族の男子であること。定員は300人で、一度元老院に選ばれればそのまま終身議員になれました。

ホントは不仲?王政ローマ下の「元老院」と王の関係

ローマを建国したロームルス王。しかし、その最期は疑惑を拭えないものでした。

紀元前715年のこと。ロームルス王が整列させた兵士たちを見ていたとき、急な雷雨に襲われると同時に、ロームルス王の姿がなくなってしまうのです。以後、姿を見せなくなったロームルス王に対し、「王は誰かに暗殺されてしまった」というものもいれば、「ロームルス王は神として天に戻った」というものも出てきました。

前者の暗殺説の容疑者として噂されたのが「元老院」です。元老院は王に対する助言を行っていましたが、ロームルス王の下にあった元老院には政治の決定権があるわけではありません。あくまで「助言」なのです。そのせいで元老院と強い権力を持つロームルス王が不仲になり、その末にロームルス王を暗殺したと疑われたのでした。

しかし、疑いを向けられた元老院の貴族たちは、それを払拭すべくロームルス王を積極的に神格化します。「こんなに敬愛している王様を自分たちが殺すわけがない!」というアピールですね。

ただ、次の王が選ばれるまでの間、元老院がローマの統治を行っていたとされているため、犯人は不明とはいえ、歴史家たちの間ではロームルス王は暗殺された可能性が高いとみられています。

王政ローマ最後の王を追放し、共和制へ!

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ロームルス王から約200年後の紀元前535年。タルクィニウス・スペルブスがローマの七代目の王となりました。しかし、タルクィニウス王はとんでもない暴君だったのです。そもそも、ローマの王は世襲制ではなく、王になるためには元老院や民会の承認が必要でした。しかし、タルクィニウス王はそれらを無視して即位したのです。最初から元老院たちを無視したわけですから、その後も政治に元老院を介入させることなく、独裁的に行っていきます。これにローマの人々は大きな不満を抱きました。

ただ、暴君タルクィニウスは戦争が得意だったのです。タルクィニウス王は領土を拡大し、強国エトルリアと同盟を結びました。強大なエトルリアと同盟したことで、敵はほとんどいなくなったようなものです。しかし、一方で、ローマ国内をエトルリア人が自由に歩き回るのを見たローマ人たちは「ローマはエトルリアの属国になった」という意識が芽生えます。

そうして、とうとうローマ人たちの怒りが爆発。タルクィニウス王が遠征に出かけた間にローマの門をすべて閉じ、タルクィニウスをローマに帰ってこれないようにしたのでした。

こうして、ローマ王政最後の王がローマから追放され、共和政ローマが始まるのです。また、タルクィニウス王を追放したことで、ローマの人々の間に共和政を大切にする精神と、王という地位を拒絶する風潮が強く根付いたのでした。

ローマの王様の権威はどのくらい?

ローマを建国したロームルス王は死後に神格化されましたが、生前から神様のように扱われていたわけではありません。また、ロームルス王の後継者に選ばれたのは彼の息子ではなく、ローマになんのしがらみもないザビニ人のヌマ王でした。

オリエントやエジプトの王様は宗教的な権威を持った絶対的な存在でしたが、ローマの王様はそうではなかったのです。なので、王様はローマの人々が投票して有力者(パドレス)のなかから選びました。ローマの市民権があれば誰でも王様に選ばれるチャンスがあったのです。

\次のページで「2.世界初の共和政を実現。その実際は?」を解説!/

2.世界初の共和政を実現。その実際は?

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王政ローマが終わり「共和政ローマ」の時代へと移り変わります。ローマの人々のなかに根付いた王政嫌いの風潮により、新たな王は選ばれず、ローマの共和政は紀元前509年から紀元前27年まで長きにわたって続きました。

元老院は本来、共和政の中心となる執政官(コンスル)や、非常時に任命される独裁官(ディクタトル)の諮問機関です。しかし、元老院のメンバーはほとんどが有力な貴族ですから、次第に助言を行うだけでなく、執政官を牽制するようになり、非常に大きな権力を握るようになっていきました。

執政官と元老院、実際にはどっちが強い?

王の追放後、ローマは執政官を中心にした「貴族共和政」を行います。執政官はローマのなかでは軍事と民政を行う最高の役職で、定員二名、任期は一年です。これは王様のようにひとりの人間に権力が集中するのを避けるためでした。ただし、この執政官に選ばれるのは貴族のみ。元老院もまた貴族のみで構成されていました。共和政と言っても、ローマのすべての人々が政治に参加できたわけではないのです。

共和政ローマの中心となる「執政官」ですが、実際には「元老院」のほうが権威は強いものでした。というのもの、権力の集中を避けるために執政官の任期はたった一年だけなのに対し、元老院は一度メンバーに選ばれればやめることはありません。そのため、政治や戦争の経験にノウハウは圧倒的に元老院のほうが上になりますよね。特に戦争となると、彼らの経験は欠かせることができません。そのため、元老院への信頼は厚くなり、事実上ローマの最高議決機関として強い決定権を持つようになったのです。

貴族中心から平等な共和政ローマへ!

それまでの戦争などで平民たちは自分たちで武器をとり重装歩兵として軍の中心となっていました。彼らがいなければ余所に戦争をしかけることも、自分たちのローマを守ることもままなりません。そこで起こったのが紀元前五世紀の「身分闘争」です。貴族中心の政治に不満を持っていた平民たちは政治の平等を要求し、改革が行われました。

その結果、紀元前四世紀には執政官のうち一人を平民から選ぶことになり、貴族と平民の平等化がはかられます。また、執政官を経験したものは元老院のメンバーに選ばれることもあり、元老院にも平民が入るようになりました。

さらに紀元前三世紀になると平民たちで構成される「平民会」から出た決議が法律としても認められるように。法的に貴族と平民の差はなくなり、完全な共和政ローマとなったのです。

元老院の決定を拒否!?平民会からの選出される「護民官」

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ローマの事実上の最高決議機関となっていた元老院ですが、身分闘争の末に、平民会と、平民会から選ばれる「護民官」が登場します。

平民会が登場した当初は、そこから発せられた決まりは平民たちのみにしか適応されず、ローマの法とするためには元老院の承認が必要でした。しかし、紀元前287年に平民出身の独裁官ホルテンシウスがホルテンシウス法を制定。平民会の決議は元老院の承認を得ずとも法律にすることができるようになります。ホルテンシウス法の登場により身分闘争は終結したのです。

さらに平民会から選ばれた「護民官」は、執政官の政治や元老院の決定に対して拒否権を持ち、時には執政官や元老院の不平に対して罰金や死刑を課すことができました。護民官は貴族と平民の間に立つ立場であり、平民を保護、救済する役割を担ったのです。

3.どうなる?皇帝たちと元老院の関係と行く末

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時代が進むにつれ、ローマはさらなる領土拡大を続けていきます。そうしたなかで台頭したのが騎士たちでした。騎士たちはやがて貴族や元老院と対立を始めるように。そして、民会や騎士を基盤とする新興富裕層(新興貴族階級)の平民派、元老院の名門貴族たちを基盤とする門閥派が対立することになります。

平民派と門閥派は争い合い、「内乱の一世紀」が起こってしまうのでした。その結果、登場したのが「カエサル」です。

\次のページで「時代を変える男・カエサル登場」を解説!/

時代を変える男・カエサル登場

ユリウス・カエサルは優れた政治家であり、軍人であり、文筆家でした。非常に頭の切れるカエサルは、執政官を務めたときに元老院に対して「日報」の公開を義務付けました。元老院の会議の内容を記録し、それを誰もが見られるようにしたのです。

会議の内容をすべて公開するのですがら、元老院とはいえ民衆を騙すような法案を話し合ったりできません。さらに、今まで人々が知らなかった元老院の実態についてわかるようになり、その神秘性が失われてしまったのです。

カエサルは執政官の頃には元老院と協調していましたが、その任期が終わると遠征を行ってガリア(現在のフランス)の大半を手中に収めます。名声高まるカエサルでしたが、一方で、やはりローマの王様嫌いの風潮はまだ健在だったために王や皇帝とはなりませんでした。代わりにカエサルは独裁官として独裁政治を行いました。

こうなると、ローマの元老院はあってないようなものです。カエサルに煮え湯を飲まされっぱなしでしの元老院の議員たちは反カエサルの動きを強め、紀元前44年、とうとう元老院の会議場でブルータスに暗殺されてしまうのでした。

徐々に縮小されていく元老院の変化

カエサルの死後、その後継争いを勝ち抜いたオクタウィアヌスに元老院は「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を与えます。アウグストゥスは実質的にはローマの初代皇帝でしたが、元老院の承認のもとでローマを統治する「元首政」を行いました。

元首政のもとでは、ローマの皇帝は元老院の議員最高位とし、他の元老院の議員たちは皇帝を支えるように。一方で、民会は市民が増えすぎたことで機能が停止してしまいます。そのため、元老院は再び最高決議議会へと舞い戻ったのでした。

しかし、それではアウグストゥスが初代皇帝とは言うことはできませんよね。アウグストゥスは属州を防衛するために、属州に対する命令権(プロコンスル命令権)を元老院から与えられていました。ローマの属州はガリアにイベリア半島、シリアなど広大でしたので、その命令権を持つアウグストゥスの権力はすでに元老院を超えています。さらに執政官の任期終了後には護民官に、最終的には終身で執政官の命令権まで得たのでした。

そして、アウグストゥスは自分が持った権限を自分の後継者に引き継ぐようにしたのです。このようにして、元老院の権限は次第に縮小され、皇帝を承認する機関や、皇帝の諮問機関へと戻っていきます。そうして、ローマの元老院は七世紀ごろになくなってしまったのでした。

ローマを支えた機関「元老院」

紀元前八世紀の王政ローマ時代から発足して、紀元後七世紀まで続いた「元老院」。最初は王の諮問機関として貴族たちが任命されていましたが、時代をへるにつれて徐々にその性格を変えていきました。共和政ローマに移り変われば、政治の中心へ。世界初の共和政を担ったのです。そして、帝政ローマ下では皇帝のもとで徐々に権限を失くしていき、また最初の皇帝の諮問機関へと戻ったのでした。

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世界史古代ローマ

3分で簡単「元老院」誰がなった?古代ローマの政治事情は?歴史オタクがわかりやすく解説

古代ローマの政治の世界ではじまった「元老院」を知っているか?なんだか老人が集まって小難しい顔をしているようなイメージが浮かんでこないか。実際はそこまで老人ばかりだったわけじゃなのですがな。それに、世界初の共和制として重要な機関だったんです。
今回はその「元老院」についてそのまわりの時代背景を交えながら歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代ローマからはじまった「元老院」についてまとめた。

1.成立は古代ローマ! 「元老院」のはじまり

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「元老院」の制度が始まったのは古代ローマの時代。紀元前753年にロームルス王がローマに都市を完成させて、100人の貴族(パトリキ)で構成させる「元老院」を作ったことにはじまります。

ロームルス王は「元老院」に任命した貴族たちが王と意見をかわしたり、助言を与えたりして政治を行うことで、有力な貴族たちを敵に回すことなく自分の支配下に置いたのでした。そのため、「元老院」は古代ローマの政界における最高機関となり、さらに旺盛ローマから帝政ローマの時代まで存続します。

この「元老院」に入る条件はまず第一に30歳以上の貴族の男子であること。定員は300人で、一度元老院に選ばれればそのまま終身議員になれました。

ホントは不仲?王政ローマ下の「元老院」と王の関係

ローマを建国したロームルス王。しかし、その最期は疑惑を拭えないものでした。

紀元前715年のこと。ロームルス王が整列させた兵士たちを見ていたとき、急な雷雨に襲われると同時に、ロームルス王の姿がなくなってしまうのです。以後、姿を見せなくなったロームルス王に対し、「王は誰かに暗殺されてしまった」というものもいれば、「ロームルス王は神として天に戻った」というものも出てきました。

前者の暗殺説の容疑者として噂されたのが「元老院」です。元老院は王に対する助言を行っていましたが、ロームルス王の下にあった元老院には政治の決定権があるわけではありません。あくまで「助言」なのです。そのせいで元老院と強い権力を持つロームルス王が不仲になり、その末にロームルス王を暗殺したと疑われたのでした。

しかし、疑いを向けられた元老院の貴族たちは、それを払拭すべくロームルス王を積極的に神格化します。「こんなに敬愛している王様を自分たちが殺すわけがない!」というアピールですね。

ただ、次の王が選ばれるまでの間、元老院がローマの統治を行っていたとされているため、犯人は不明とはいえ、歴史家たちの間ではロームルス王は暗殺された可能性が高いとみられています。

王政ローマ最後の王を追放し、共和制へ!

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ロームルス王から約200年後の紀元前535年。タルクィニウス・スペルブスがローマの七代目の王となりました。しかし、タルクィニウス王はとんでもない暴君だったのです。そもそも、ローマの王は世襲制ではなく、王になるためには元老院や民会の承認が必要でした。しかし、タルクィニウス王はそれらを無視して即位したのです。最初から元老院たちを無視したわけですから、その後も政治に元老院を介入させることなく、独裁的に行っていきます。これにローマの人々は大きな不満を抱きました。

ただ、暴君タルクィニウスは戦争が得意だったのです。タルクィニウス王は領土を拡大し、強国エトルリアと同盟を結びました。強大なエトルリアと同盟したことで、敵はほとんどいなくなったようなものです。しかし、一方で、ローマ国内をエトルリア人が自由に歩き回るのを見たローマ人たちは「ローマはエトルリアの属国になった」という意識が芽生えます。

そうして、とうとうローマ人たちの怒りが爆発。タルクィニウス王が遠征に出かけた間にローマの門をすべて閉じ、タルクィニウスをローマに帰ってこれないようにしたのでした。

こうして、ローマ王政最後の王がローマから追放され、共和政ローマが始まるのです。また、タルクィニウス王を追放したことで、ローマの人々の間に共和政を大切にする精神と、王という地位を拒絶する風潮が強く根付いたのでした。

ローマの王様の権威はどのくらい?

ローマを建国したロームルス王は死後に神格化されましたが、生前から神様のように扱われていたわけではありません。また、ロームルス王の後継者に選ばれたのは彼の息子ではなく、ローマになんのしがらみもないザビニ人のヌマ王でした。

オリエントやエジプトの王様は宗教的な権威を持った絶対的な存在でしたが、ローマの王様はそうではなかったのです。なので、王様はローマの人々が投票して有力者(パドレス)のなかから選びました。ローマの市民権があれば誰でも王様に選ばれるチャンスがあったのです。

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