「キリスト教」は世界三大宗教のひとつで、ヨーロッパの歴史とも深くかかわってくる宗教です。名前くらいは知ってるでしょう。ですが、なんで関わってくるかわかるか? これにもなかなか長い理由と歴史があるんです。
今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にその「キリスト教」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

あなたの簡単なプロフィールと、この記事のテーマになぜ詳しいのかを簡単に50文字程度で説明してください。(「その他」はシステムで自動置換するため現状のままでよいです。)興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回の記事は約2000年前に登場し、世界中に広まった「キリスト教」についてまとめた。

1.世界三大宗教のひとつキリスト教のはじまり

image by PIXTA / 21742426

地域や民族を越えて世界規模で信仰されている宗教を「世界宗教」といいました。キリスト教もそのひとつで、仏教、イスラム教と並んで世界三大宗教に数えられています。

三日後に復活するイエス

キリスト教の創始者となるナザレのイエスが生まれた年は、現在私たちが使っている世界基準の年代表記で「西暦元年(1年)」となります。(ただ、実際にはイエスの生まれた年とはずれがあるようです)

さて、その世界基準の年代表記でいうところの紀元後30年ごろのこと。神の愛を説いたナザレのイエスは十字架に架けられ、三日後に復活したとされています。イエスの奇跡を信じた人々が最初に「原始キリスト教団」をつくりました。

最初のキリスト教は、母体となったユダヤ教の分派のひとつだと見なされていました。しかし、イエスの信者だったペテロやパウロらの布教によってユダヤ人、そしてローマ人の間に広がっていきました。そうして、キリスト教徒を増やしていき、ユダヤ教から自立していきます。

\次のページで「ローマによる迫害の時代へ」を解説!/

ローマによる迫害の時代へ

当時、ヨーロッパ世界を支配していたのは、かの強大なローマ帝国です。ローマ帝国では、古くからローマ神話の神々を信じていましたし、さらにローマ皇帝自身も死後に神格化する、あるいはローマ皇帝自身が存命のころから神として崇拝するような政策などを行ったこともあります。

また、ローマ神話は多神教であり、様々な神様がいました。ところが、ユダヤ教と同じでキリスト教は「一神教」です。そのため、キリスト教徒はローマ神話やローマ皇帝にどんなに歴史があっても、力があっても、神様として崇めることはありません。当時のローマ帝国の皇帝にとってこれは非常に都合の悪いものでした。特に五代目のネロ帝とその後のディオクレティアヌス帝は非常に苛烈な迫害を行います。こうしてたくさんの信徒が残虐な拷問を受けたりして、虐殺されてしまいました。前述したペテロやパウロはネロ帝に捕まり、殉職してしまいます。

しかし、それでもキリスト教信仰は止まらずにローマに広がり続けました。彼らは「カタコンベ」という地下墓所をつくり、そこで主に祈りを捧げて信仰を守ったのです。

2.迫害から一転、公認、そして国教へ

image by PIXTA / 39767871

先述したディオクレティアヌス帝は、皇帝を神として崇める皇帝崇拝を人々に強要し、それを拒んだキリスト教徒たちを弾圧しました。しかし、次の皇帝となったコンスタンティヌス帝は逆にキリスト教を庇護し、のちに彼自身もキリスト教へと改宗して洗礼を受けます。

コンスタンティヌス帝と「ミラノ勅令」

さらに、割れて争っていたいたローマ帝国をコンスタンティヌス帝がまとめるためライバル・リキニウスと会談して同盟を結んだ際には、その内容にキリスト教を公認する取り決めも行いました。これを「ミラノ勅令」といいます。

ただ、まだここではキリスト教を「公認」としたのみで、キリスト教を「国教」としたわけではありません。

「ニカイア公会議」でキリスト教教義の統一

コンスタンティヌス帝が単独の皇帝となり、ローマ全土でキリスト教が公認されることとなりました。これでようやくローマ皇帝によるキリスト教徒の迫害がなくなったわけですね。

しかし、このときキリスト教誕生から300年以上が経過していました。その間に多くの人々に受け継がれていたために、教えに対してさまざまな解釈が持たれるようになっていたのです。ローマ帝国という大きな国に信仰が認められたはいいのですが、人によって教義の解釈が違っていては、不都合も生まれてしまうというもの。

そこでコンスタンティヌス帝はキリスト教の正統教義を決める会議を開きます。そうして、小アジアのニカイアに300人の司教を集め、コンスタンティヌス帝自らが議長となりました。キリスト教で最初に正統教義を決めたこの会議を「ニカイア公会議」といいます。

キリストは神か?人間か?

image by PIXTA / 38623816

「ニカイア公会議」において、もっとも大きな議論となったのは「イエス・キリスト自身の神性を認めるか」という問題でした。

この議題では「イエス・キリストは本質において神性を持ち、父なる神と同質の存在だ」と主張するアタナシウス派と、「父なる神の神性の分割はありえないためイエス・キリストは神聖だが神に帰属する。神ではなく人間だ」と主張するアリウス派が激しく対立します。

コンスタンティヌス帝は両派の仲裁に立ち、二ヶ月に及んだ議論の末にアタナシウス派が多くの支持を集めて正統な教義となりました。一方、アリウス派は異端とされ、ローマから追放されてしまいます。けれど、コンスタンティヌス帝はのちにアリウス派との妥協点を探し、再び327年に公会議を開いてアリウス派も教会に復帰を認められました。

テオドシウス帝、キリスト教を国教に

四世紀の末にもなると、キリスト教はローマ帝国に広く布教されていました。しかし、「ニカイア公会議」のあとから問題になった「聖霊に神性を認めるか」について、決着をつけなければなりません。「聖霊」とは父なる神、子なるイエスから永遠の愛として出る霊で、イエスが去ったあと地上の人間たちを救う存在です。

そこで、時のローマ皇帝テオドシウスは381年に「コンスタンティノープル公会議」を開いて、聖霊に神性を認めることとしました。しかし、ただ聖霊に神性を認めると、それは一神教ではなく多神教となる矛盾を抱えてしまいますよね。そこでこの公会議で「三位一体説」が登場します。

「三位一体説」では、「神なる父と子なるイエス、聖霊は三つの位格(ペルソナ)を持つ、一つの神だ」とされました。

テオドシウス帝は「三位一体説」を正統教義にします。また、これは「ニカイア=コンスタンティノープル信条」として、キリスト教の基本信条としてもちいられるようになりました。のちにテオドシウス帝は異教徒禁止令を出して他の教義や宗教をローマから締め出してしまいます。これによって、ローマ帝国でキリスト教が国教となったのでした。

\次のページで「3.キリスト教の分裂と腐敗、改革へ」を解説!/

3.キリスト教の分裂と腐敗、改革へ

image by PIXTA / 28764304

ローマ教皇と「ローマ=カトリック教会」

現代において、バチカン市国を統治している「ローマ教皇」は、カトリック教徒の精神的指導者です。ローマ教皇の登場は歴史上にも古く、時代を進むごとに権威を高めていきました。

ローマ教皇がいるのは、名前通り現在のイタリアのローマですよね。テオドシウス帝が広大なローマ帝国統治のために、帝国を東西に分裂させて二人の息子それぞれに継承させます。分裂後のローマは西ローマ帝国にありました。

一方、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は首都コンスタンティノープルにはコンスタンティノープル総主教があります。

ローマ帝国が分裂した当時、両者ともに教義上の対立はありません。けれど、時代が下ると西ローマ帝国が滅亡したのちにローマ教皇がフランク王国カロリング朝のピピンと強く結びついて教皇領を寄進されるなど、徐々にコンスタンティノープルの教会から離れていくことになります。そうして、ローマ教皇はフランク王国のカール大帝から保護を受けると、東ローマ帝国とコンスタンティノープルの教会から独立したのです。こうして、両者はキリスト教におけるトップの座を巡って対立するようになりました。

コンスタンティノープル総主教中心「ギリシャ正教会」

さらに両者の対立を深めたのが、ビザンツ帝国のレオン3世が発布した「聖像禁止令」です。この法令は、ビザンツ帝国が距離的に近いイスラム教国家に対抗するために発布されたとされ、キリスト教の信仰のためにつくられたイエスや聖人の像が没収、破壊されてしまいます。

これに猛反対したのがローマ教皇でした。当時、西のローマ=カトリック教会は聖像を用いてゲルマン人へ布教していたため、これを禁止されてしまうと深い痛手となるからです。

この問題をきっかけに東西の教会の決裂は決定的となり、1045年にお互いを破門し合う事態に。ビザンツ帝国内では、ビザンツ皇帝の庇護のもとにコンスタンティノープル総主教を中心とする「ギリシャ正教会」が確立していったのです。コンスタンティノープル総主教も現在に存続しておりますが、ローマ教皇と違ってギリシャ正教会すべての教会を統べているわけではありません。

しかし、対立したからと言ってローマ=カトリック教会もギリシャ正教会の教義が違うわけではありません。両者は「三位一体説」を教義の中心としていますので、お互いがお互いにとっての異端ではないのです。しかし、長い間続いた対立の歴史の中で組織制度など明確な相違があり、西方のローマ=カトリック教会と東方のギリシャ正教会とで分裂したまま現代へと続くのでした。

腐敗していく教会を改革

image by PIXTA / 73525472

中世に入ると、封建社会のなかで教会や修道院も土地を持ち、聖職者たちも豊かな暮らしを送れるようになりました。しかし、ただ普通に暮らすのではなく、必要以上な贅沢を送るものもあらわれたのです。

その結果、人々は腐敗に対し改革を求め、時のローマ教皇グレゴリウス7世は「グレゴリウス改革」と呼ばれる厳粛な改革を行います。これによってローマ教皇と教会は権威を回復したのでした。

しかし、一方で改革に反発した神聖ローマ帝国のハインリヒ4世を破門、のちに「カノッサの屈辱」事件が起こるなど、次第に皇帝よりもローマ教皇のほうが優勢になっていきます。

ただし、この教会の形ものちには疑問を持たれ、フス戦争が起こりました。さらにルターの宗教改革によってさらにローマ=カトリック教会内で動揺が走り、「カトリック」と「プロテスタント」に分裂したのです。

もう一方のビザンツ帝国は13世紀にオスマン帝国に征服され、コンスタンティノープルも陥落してしまいます。その後、モスクワでコンスタンティノープル総主教から独立したロシア正教会などの東方諸教会が承認されていきました。

\次のページで「長い歴史を歩み続けたキリスト教」を解説!/

日本とキリスト教

日本にキリスト教がやってきたのは1549年。イエズス会のフランシスコ・ザビエルが来日、その後に何人かの宣教師がやってきて日本への布教活動が始まりました。

長い歴史を歩み続けたキリスト教

神の愛を説くイエスによって始まり、ヨーロッパに広く布教された「キリスト教」。最初こそローマ帝国の皇帝によって迫害されたものの、のちには国教となるほど人々に浸透していきました。しかし、やはり長い歴史のなかで変化は訪れるもの。ローマ帝国が東西に分裂したのち、キリスト教の教会も西のローマ=カトリック教会と東のギリシャ正教会へと分かれてしまいました。その後も、西はローマ教皇の権威への疑問や宗教改革をへてプロテスタント、東はオスマン帝国との戦争後に東方諸教会を承認するなどして、現代の形へと繋がっていったのです。

" /> 3分で簡単キリスト教!イエスの生涯や宗派・日本との関係について歴史オタクがわかりやすく解説 – Study-Z
世界史

3分で簡単キリスト教!イエスの生涯や宗派・日本との関係について歴史オタクがわかりやすく解説

「キリスト教」は世界三大宗教のひとつで、ヨーロッパの歴史とも深くかかわってくる宗教です。名前くらいは知ってるでしょう。ですが、なんで関わってくるかわかるか? これにもなかなか長い理由と歴史があるんです。
今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にその「キリスト教」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

あなたの簡単なプロフィールと、この記事のテーマになぜ詳しいのかを簡単に50文字程度で説明してください。(「その他」はシステムで自動置換するため現状のままでよいです。)興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回の記事は約2000年前に登場し、世界中に広まった「キリスト教」についてまとめた。

1.世界三大宗教のひとつキリスト教のはじまり

image by PIXTA / 21742426

地域や民族を越えて世界規模で信仰されている宗教を「世界宗教」といいました。キリスト教もそのひとつで、仏教、イスラム教と並んで世界三大宗教に数えられています。

三日後に復活するイエス

キリスト教の創始者となるナザレのイエスが生まれた年は、現在私たちが使っている世界基準の年代表記で「西暦元年(1年)」となります。(ただ、実際にはイエスの生まれた年とはずれがあるようです)

さて、その世界基準の年代表記でいうところの紀元後30年ごろのこと。神の愛を説いたナザレのイエスは十字架に架けられ、三日後に復活したとされています。イエスの奇跡を信じた人々が最初に「原始キリスト教団」をつくりました。

最初のキリスト教は、母体となったユダヤ教の分派のひとつだと見なされていました。しかし、イエスの信者だったペテロやパウロらの布教によってユダヤ人、そしてローマ人の間に広がっていきました。そうして、キリスト教徒を増やしていき、ユダヤ教から自立していきます。

\次のページで「ローマによる迫害の時代へ」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: