イスラエルにある都市「エルサレム」はユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教という三つの宗教の聖地になっている。違う宗教の聖地が一ヶ所に固まるなんて、なかなか起こることじゃないと思うが……、いったい「エルサレム」でなにがあったんでしょうな?
今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「エルサレム」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。世界三大宗教の内のふたつキリスト教とイスラム教、そしてユダヤ教が聖地を持つ「エルサレム」についてまとめた。

1.世界最古の都市のひとつエルサレム

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今回は地中海の東、現在のパレスチナの中心に存在する都市エルサレム(イェルサレム)についてです。

ヘブライ王国のダヴィデ王とソロモン王

その歴史は非常に古く、世界最古の都市のひとつに数えられるほどです。そのエルサレムに最初に都市を建設したのが、紀元前997年、ヘブライ王国のダヴィデ王でした。教科書などで見るルネサンス期の彫刻家ミケランジェロのダヴィデ像でも知られていますね。

また、旧約聖書にはダヴィデ王の物語が詳しく書かれています。もともとは羊飼いだったダヴィデ王でしたが、当時のイスラエル王が手を焼いたペリシテ人の大男ゴリアテを投石のみで倒した、というもので、その後、紆余曲折をへてヘブライ王国の王様となり、信仰心の厚い王として記録されました。

そうして、ダヴィデ王から王位を継承した息子・ソロモン王はエルサレムにヤハウェ神殿(第一神殿、エルサレム神殿とも)を建設。ヤハウェ神殿に預言者モーゼが神から与えられた「契約の箱」を祀ったことで、エルサレムはユダヤ教の聖地となりました。

苦難のはじまり「バビロン捕囚」

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ソロモン王のもとで栄え、続いていたヘブライ王国ですが、ソロモン王のあとに北のイスラエル王国、南のユダ王国に分裂してしまいます。そうして、イスラエル王国が紀元前722年滅ぼされ、ユダ王国は紀元前586年に新バビロニアのネブカドネザル王によって滅ぼされてしまいました。このとき、征服されたエルサレムから多くのユダヤ人がバビロンへ連行される「バビロン捕囚」、そして、ヤハウェ神殿の破壊が行われます。

バビロン捕囚で捕らえられたユダヤ人が解放されるのはそれから50年後。新バビロニアがアケメネス朝ペルシアによって滅ぼされるまでです。解放されたユダヤ人はエルサレムに戻ると、ヤハウェ神殿(第二神殿)の再建に尽くしました。このヤハウェ神殿はのちにローマ軍に壊され、現在はその一部が「嘆きの壁」として残されています。「嘆きの壁」はユダヤ人の聖地とされ、ユダヤ教徒が壁に集まって大声で祈りを捧げているのです。

しかし、バビロン捕囚はユダヤ人が世界中に離散したきっかけでもありました。ユダヤ人たちがエルサレムに戻ったはいいものの、パレスチナはペルシア、ギリシャのアレクサンドロス大王(イスカンダル)、そしてセレウコス朝など他国の支配が続き、ユダヤ人がトップに立つユダヤ人の国ではなくなったのです。

#1 エルサレムに祀られたヤハウェ神とユダヤ教

「ユダヤ教」はヘブライ王国に住むユダヤ人(ヘブライ人)が信仰する宗教のこと。特徴としては以下の四つがあげられます。

・唯一で絶対の神ヤハウェのみを信仰する「一神教」

・ヤハウェ神から選ばれた民だという「選民思想」

・ヤハウェ神から与えられた律法を厳守することで救われる「律法主義」

「救世主(メシア)」が現れ、人々と世界を救済する。

\次のページで「2.ローマ帝国の支配とイエスの誕生」を解説!/

2.ローマ帝国の支配とイエスの誕生

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当時、ヨーロッパ世界を支配していたのはローマ帝国でした。その勢いはすさまじく、紀元前6年にはとうとうエルサレムもローマの属州としてその支配下に置かれるようになります。そのとき、ローマはユダヤ教を禁止しなかったので迫害はされていません。しかし、徐々にユダヤ教の形骸化がはじまります。そんな折に登場したのが「ナザレのイエス」でした。

ナザレのイエスの奇跡

イエスはユダヤ教の形骸化を咎め、神の愛を説きました。イエスの言葉と、彼の起こす奇跡は多くのユダヤ人に受けいられていきます。そうして、エルサレムでも布教をはじめました。しかし、ここで問題が起こったのです。

イエスの登場はユダヤ教徒が求めた「救世主」の到来と受け止められました。しかし、これがユダヤ教の指導者たちにとってあまり都合の良いものではなかったのです。さらに、イエスの活動は反ローマを誘発するとして、ローマ帝国からも目をつけられてしまったのでした。

そして、イエスは2人の弟子を集めてあの「最後の晩餐」を行ったあと、捕らえられてゴルゴダの丘で十字架に架けられて処刑されます。ところが、イエスが死して三日後に復活し、その姿を見たという弟子が現れたのです。このイエスの奇跡を信じた人々が最初に「原始キリスト教団」をつくりました。

ユダヤ教の一分派から「キリスト教」へ

イエスが布教を始めた布教は最初、ユダヤ教の仲の一分派と見なされていました。不況の対象もユダヤ人たちが多く、まだ現在のように世界中に広がるような動きではなかったのです。それが一変させたのは、イエスの弟子ペテロやパウロの布教でした。ペテロはローマで布教を行い、パウロはイエスの教えが人種を越えて人々を救うと説いたからです。こうしてイエスの教えはユダヤ人以外にも広がっていったのでした。

ローマ軍とユダヤ人の戦い「ユダヤ戦争」

依然としてローマ帝国の支配下にあったエルサレム。「一神教」では信じる神はたった一柱のみ。信じるべきはヤハウェ神のみですから、他の宗教の神を崇めることはありません。ローマ帝国は先述した通り他民族の信仰については寛容でしたが、一神教のユダヤ教とはどうしても相いれないものがありました。

一方のローマ帝国はローマ神話の神々を祀る多神教の宗教を持っていました。ローマは他民族の宗教に寛容でしたが、ローマの神々への供物や、ローマ皇帝自身が存命のころから神として崇拝するような政策などを行っていました。ユダヤ教徒もキリスト教徒も一神教であるため、どんなに強要されても他の神を崇めることはできません。ローマにとって、ユダヤ人のその態度はあまり都合の良いものではありませんでした。そして、徐々にローマの秩序を乱す存在と認知されるようになったのです。

ユダヤ人のローマへの反感が募るなかで起こったのが「ユダヤ戦争」でした。ユダヤ人たちは結束を固くし、ローマ軍と戦いました。この第1次ユダヤ戦争、続く第2次ユダヤ戦争は、しかし、ユダヤ人の敗北。エルサレムは荒廃してしまいます。

時のローマ皇帝ハドリアヌスは、ユダヤ教の教えがユダヤ人たちを戦争へ突き動かしたと判断し、ユダヤ教指導者の殺害、および、ユダヤ人がエルサレムに立ち入ることを禁止しました。

エルサレム、キリスト教の聖地へ

エルサレムがキリスト教の聖地として見られるようになったのは、4世紀になってから。迫害されていたキリスト教が一転してローマ帝国に公認され、コンスタンティヌス帝が聖墳墓教会を建設。さらにコンスタンティヌス帝の母がエルサレムに巡礼を行ったことでキリスト教の聖地と見られるようになりました。

それまではローマの植民都市のひとつアエリア・カピトリナと呼ばれていましたが、聖地となったのをきっかけにもとの「エルサレム」と呼ばれるように。第2ユダヤ戦争以降、禁じられていたユダヤ人の立ち入りも許されるようになったのです。

\次のページで「3.イスラムの世界進出」を解説!/

3.イスラムの世界進出

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サウジアラビアのメッカに商人の息子として生まれたムハンマド(マホメット)。彼が40歳のころに瞑想を行っている最中に天使ガブリエルが現れ、神の啓示を受けたことからイスラム教を創始したとされています。

イスラム教の預言者ムハンマドの昇天

エルサレムがイスラム教の聖地とされるのは、619年にムハンマドが天使ガブリエルにともなわれてエルサレムの神殿の上の岩から天馬に乗って昇天したという逸話から。このことから、エルサレムはメッカ、メディナに次ぐイスラム教の聖地となりました。

イスラム教団のエルサレム進出

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ムハンマドの昇天後、イスラム教団を引き継いだ第2代カリフ・ウマル(オマル)は、ビザンツ帝国と戦いエルサレムを征服しました。ウマルは荒廃したエルサレムで、ムハンマドが立った岩を探し当て、のちにその場所には「岩のドーム」が建てられます。岩のドームの完成は638年。イスラム世界最古の建造物とされています。

また、この岩のドームが建つ場所、ここはヘブライ王国時代に建てられたヤハウェ神殿と同じ場所だったのです。そのため、先述した「嘆きの壁」はこの岩のドームの南西に位置します

ユダヤ教とキリスト教とイスラム教が共存する都市

メッカに生まれたムハンマドが創始したイスラム教ですが、イスラム教もまたユダヤ教やキリスト教と同じ一神教で、このふたつに影響を受けた宗教でした。違いはあれど、ウマルはユダヤ教もキリスト教も神の啓示を同じく唯一神から受けた「啓典の民」として保護したのです。

また、コンスタンティヌス帝が建てた聖墳墓教会などが認められたことで、エルサレムは三つの宗教が共存する都市となったのでした。

キリスト教徒イスラム教との対立

異なった宗教が共存する都市となったエルサレム。しかし、それも永遠ではありませんでした。

トルコ人のイスラム政権となったセルジューク朝が台頭、エルサレム方面へ進出してキリスト教徒の巡礼を阻害するようになります。それに対しビザンツ帝国と戦争になるのですが、ビザンツ帝国はあえなく敗退。

聖地巡礼を妨害されては、ビザンツ帝国以外の信徒たちも黙ってはいられません。ビザンツ帝国皇帝がローマ教皇に要請を出し、聖地回復を掲げる「十字軍運動」が始まったのです。十字軍が活動したのは、11世紀から13世紀にかけての二百年。正式なものは全七回に及びました。

十字軍とイスラム系国家の戦いは互いに勝者を変えながら二百年続き、最終的に1291年にイスラム教の勢力下に置かれて幕を閉じました。

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三つの宗教の聖地を内包する都市

太古の昔より宗教都市として栄えたエルサレム。最初はヘブライ王国にヤハウェ神殿が建ち、「ユダヤ教」の聖地となりました。しかし、「バビロン捕囚」によってユダヤ人の国が滅び、ユダヤ人の離散がおこります。それでもエルサレムに残ったユダヤ人たちは篤くユダヤ教を信仰していました。

ところが、ローマ帝国が進出する時代になると、やがてユダヤ教が形骸化してしまいます。そこに現れたのが「イエス・キリスト」でした。イエスはユダヤ教の形骸化を咎め、神の愛を人々に説きます。けれど、ローマ帝国から反ローマの疑いをかけられて処刑されました。エルサレムでイエスが布教活動をしたことや、のちにコンスタンティヌス帝がエルサレムに聖墳墓教会を建てたことからエルサレムはキリスト教の聖地のひとつとなります。

その後、7世紀にはイスラム教を創始したムハンマドがエルサレムで昇天し、神のもとへ至ったという逸話から、エルサレムはイスラム教の聖地にもなりました。

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世界史中東の歴史

3分で簡単「エルサレム」ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地になった理由とは?歴史オタクがわかりやすく解説

イスラエルにある都市「エルサレム」はユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教という三つの宗教の聖地になっている。違う宗教の聖地が一ヶ所に固まるなんて、なかなか起こることじゃないと思うが……、いったい「エルサレム」でなにがあったんでしょうな?
今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「エルサレム」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。世界三大宗教の内のふたつキリスト教とイスラム教、そしてユダヤ教が聖地を持つ「エルサレム」についてまとめた。

1.世界最古の都市のひとつエルサレム

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今回は地中海の東、現在のパレスチナの中心に存在する都市エルサレム(イェルサレム)についてです。

ヘブライ王国のダヴィデ王とソロモン王

その歴史は非常に古く、世界最古の都市のひとつに数えられるほどです。そのエルサレムに最初に都市を建設したのが、紀元前997年、ヘブライ王国のダヴィデ王でした。教科書などで見るルネサンス期の彫刻家ミケランジェロのダヴィデ像でも知られていますね。

また、旧約聖書にはダヴィデ王の物語が詳しく書かれています。もともとは羊飼いだったダヴィデ王でしたが、当時のイスラエル王が手を焼いたペリシテ人の大男ゴリアテを投石のみで倒した、というもので、その後、紆余曲折をへてヘブライ王国の王様となり、信仰心の厚い王として記録されました。

そうして、ダヴィデ王から王位を継承した息子・ソロモン王はエルサレムにヤハウェ神殿(第一神殿、エルサレム神殿とも)を建設。ヤハウェ神殿に預言者モーゼが神から与えられた「契約の箱」を祀ったことで、エルサレムはユダヤ教の聖地となりました。

苦難のはじまり「バビロン捕囚」

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ソロモン王のもとで栄え、続いていたヘブライ王国ですが、ソロモン王のあとに北のイスラエル王国、南のユダ王国に分裂してしまいます。そうして、イスラエル王国が紀元前722年滅ぼされ、ユダ王国は紀元前586年に新バビロニアのネブカドネザル王によって滅ぼされてしまいました。このとき、征服されたエルサレムから多くのユダヤ人がバビロンへ連行される「バビロン捕囚」、そして、ヤハウェ神殿の破壊が行われます。

バビロン捕囚で捕らえられたユダヤ人が解放されるのはそれから50年後。新バビロニアがアケメネス朝ペルシアによって滅ぼされるまでです。解放されたユダヤ人はエルサレムに戻ると、ヤハウェ神殿(第二神殿)の再建に尽くしました。このヤハウェ神殿はのちにローマ軍に壊され、現在はその一部が「嘆きの壁」として残されています。「嘆きの壁」はユダヤ人の聖地とされ、ユダヤ教徒が壁に集まって大声で祈りを捧げているのです。

しかし、バビロン捕囚はユダヤ人が世界中に離散したきっかけでもありました。ユダヤ人たちがエルサレムに戻ったはいいものの、パレスチナはペルシア、ギリシャのアレクサンドロス大王(イスカンダル)、そしてセレウコス朝など他国の支配が続き、ユダヤ人がトップに立つユダヤ人の国ではなくなったのです。

#1 エルサレムに祀られたヤハウェ神とユダヤ教

「ユダヤ教」はヘブライ王国に住むユダヤ人(ヘブライ人)が信仰する宗教のこと。特徴としては以下の四つがあげられます。

・唯一で絶対の神ヤハウェのみを信仰する「一神教」

・ヤハウェ神から選ばれた民だという「選民思想」

・ヤハウェ神から与えられた律法を厳守することで救われる「律法主義」

「救世主(メシア)」が現れ、人々と世界を救済する。

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