八世紀から九世紀にかけてヨーロッパのキリスト教社会に波乱を巻き起こした「聖像破壊運動」というものがある。言葉を見ればだいたいなにが行われたのかはわかるな。字面だけでもたいそうなものですが、巻き起こった事態はさらに根深いものになったんです。
今回の記事は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「聖像破壊運動」について、当時の背景や、運動の結果起こったことに触れながらわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は約2000年前に登場し、世界中に広まったキリスト教の歴史の一端、キリスト教の教会が東西で別れることになるきっかけとなった「聖像破壊運動」についてまとめた。

1.キリスト教世界とイスラム教世界の邂逅

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「聖像破壊運動」が始まったのは八世紀、ビザンツ帝国皇帝レオン3世が「聖像禁止令」を実施したことに始まります。

そもそも「聖像破壊運動」ってなに?

それまでのキリスト教の教会では、キリスト教の原則としては偶像崇拝を否定しているため、正確には像や絵を偶像として崇拝していたのではなく、キリスト教会でイエス・キリストや聖母マリアを彫刻した像や、彼らを絵画として描いた「イコン」と呼ばれる聖画像を聖なるものの代わりとして「崇敬」していました。ところが、レオン3世の「聖像禁止令」によって聖像の崇敬さえも禁止されてしまったのです。

「聖像禁止令」が発布されると、各地で聖像やイコンを対象とした撤去と破壊が行われるようになりました。これが「聖像破壊運動(イコノクラスム)」です。

「聖像禁止令」の原因はご近所さん?

今まで行われてきた聖像やイコンへの崇敬が、なぜこのときになって突然禁止となったのでしょうか?

それは、ご近所のイスラム教国家の急速な成長と拡大にありました。

ビザンツ帝国は、東ローマ帝国がギリシャ化するにともなって七世紀ごろから呼ばれるようになった名前です。国の名前は首都・コンスタンティノープルはかつてギリシャが支配していたころの名称「ビザンティン(ビザンティオン)」に由来しました。

さて、現代の地図で言うと、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルは、トルコの都市イスタンブールにあたります。トルコといえば小アジアのアナトリア半島に位置しますね。つまり、西洋人の国だったビザンツ帝国(ローマ帝国)は当時の中東の国々と非常に近い場所にあります。

当時の中東では、ササン朝ペルシアが有力な国家として存在していました。ビザンツ帝国は長い間、ササン朝ペルシアと抗争状態にあり、一進一退を繰り返していたのです。その争いへ参入してきたのがイスラム帝国でした。

迫りくるイスラム国家とイスラム教

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「イスラム帝国」はイスラム教の教えに従って生まれたイスラム共同体が形成した帝国でした。イスラム帝国の急速な成長は、聖地だったメッカが商業の中心となったことから人々の間に広がったことにあります。ちなみにですが、ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの争いのせいで東への交易ルートであった「シルクロード」が衰退し、それに代わって発展したのが海路貿易であり、その中心となったのがサウジアラビアのメッカです。ビザンツ帝国にとってはなんとも皮肉なことに、自分たちの戦争の結果、のちに脅威となるイスラム教国家の発展に一躍買ってしまっていたわけですね。

ここでもう少しだけイスラム教について補足しておきましょう。イスラム帝国などのイスラム勢力の中心に置かれたのが、610年にアラブ人ムハンマドが創始した「イスラム教(イスラーム教)」です。イスラム教は、「唯一の神(アッラー)」を崇拝する一神教の宗教で、神が最後の預言者たるムハンマドを通じて聖典「コーラン(クルアーン)」を人々にもたらしたとされています。

また、イスラム教では、偶像崇拝の徹底排除がなされました。これは唯一の神が最重要だとするために、預言者ムハンマドの姿を絵や像として表現させないのです。

\次のページで「イスラム帝国のビザンツ侵攻」を解説!/

イスラム帝国のビザンツ侵攻

そうして、七世紀のこと。成長したイスラム帝国はササン朝ペルシアを退けると、今度はビザンツ帝国へと攻撃を開始したのです。

しかし、ビザンツ帝国の軍隊はササン朝ペルシアとの戦いでとても疲弊していたために、636年のヤルムークの戦いでイスラム帝国に大敗北してしまいます。負けたビザンツ帝国は、イスラム帝国にシリアとエジプト、北アフリカなどを奪われて領土を大きく縮小することに。さらには首都を二度も包囲される事態に見舞われることもありました。包囲するイスラム帝国の撃退にこそ成功し、滅ぼされることにはなりませんでしたが、それでもイスラム帝国はビザンツ帝国に大きな爪痕を残していったのです。

「聖像禁止令」はイスラムへの対抗するため……らしい?

イスラム帝国から侵略を受けたビザンツ帝国。なんとか退けてはいるものの、このままでいるわけにはいきません。その上、徹底的に偶像崇拝を排除するイスラム教徒から、聖像やイコンを崇敬するキリスト教徒の姿を批判されてしまいます。

このような時に皇帝とだったレオン3世が出したのが「聖像禁止令」でした。しかし、残念なことにレオン3世がなぜ「聖像禁止令」を出したのかはっきりした理由はわかりません。イスラム教徒との間のこと、あるいは、以前から聖像やイコンへの崇敬が疑問視されていたことなども原因として推測できますが、そのあたりが書かれていであろう資料は後に異端と見なされ、現代にまで残されなかったのです。

2.「聖像禁止令」がもたらした「聖像破壊運動」

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キリスト教では原則として偶像崇拝を否定している、というお話は前の章で記述しましたね。では、なぜ聖像やイコンがつくられるようになったのでしょうか。

禁止されてるのになぜ聖像やイコンがつくられたのか

答えは、聖像やイコンは、キリスト教を伝えるのに非常にわかりやすいからです。

四世紀、ローマ帝国によって公認、国教化されたキリスト教徒は広大なローマ帝国全土、そして国外へと広がっていきました。ローマ帝国と一口に言っても、そこに住んでいるのはローマ人だけではありません。言葉の通じない民族もいたのです。言葉の通じない人々に対し、聖像やイコンを見せることでキリスト教を伝えることができたのでした。

聖像もイコンも禁止!教会から撤去する

ところが、レオン3世は「聖像禁止令」を発布することで聖像やイコンの崇敬を禁止し、それらを教会から撤去するように命じます。そうして各地で「聖像破壊運動(イコノクラスム)」が起こり、イエスや聖母マリアの像、イコンが撤去、あるいは破壊されたのです。

もちろん、聖像破壊運動に反対する人々はいました。まず、イコンを擁護したコンスタンティノープル総主教(ビザンツ帝国の教会で第一位の地位)です。レオン3世はこのコンスタンティノープル総主教を罷免すると、すぐに聖像禁止に賛成する人物を総主教へ抜擢します。

そして、次に「聖像禁止令」を受け入れない教会や修道院の土地を没収していったのでした。

教会や修道院が所有している土地に帝国が税金をかけたり、その土地の住民を兵士として連れていくことできません。没収して帝国のものにすることで、はじめて課税と徴兵が行えるのです。レオン3世の「聖像禁止令」の本当の目的はもしかするとこれだったのかもしれませんね。

\次のページで「ローマ教皇の猛反発」を解説!/

ローマ教皇の猛反発

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ビザンツ帝国はもともと広大なローマ帝国を東西に分割した東側の「東ローマ帝国」でした。一方で西側を担っていたのが「西ローマ帝国」です。しかし、西ローマ帝国はゲルマン人の大移動やフン人の侵入によって弱り、476年に滅亡してしまっています。そのため、ローマの教会は東ローマ帝国に頼りながらも、徐々にローマ教皇の権威を高めていました。

そんな折に発布されたのが「聖像禁止令」です。ところが、当時のローマ教会は聖像を用いてゲルマン人への布教を行っていたため、聖像を禁止されてしまうと大きな痛手になってしまいます。そのため、ローマ教皇は「聖像禁止令」に猛反発。国際問題となり、キリスト教世界に大きな動揺がもたらされたのでした。

ローマ教会、フランク王国に接近

東側の教会では、聖像崇拝を擁護する人たちへの厳しい弾圧が行われ、どんどん聖像やイコンが破壊されていきました。一方で、西のローマ教会では布教のために聖像やイコンが不可欠であり、もしこれらを破壊するものがいれば異端者とみなして破門するようになっていきます。

こうして徐々に東西の教会の溝は深く、対立は激しくなっていきました。

ただ、対立しているとはいえローマ教会はビザンツ帝国に頼っている現状にあり、これをどうにかしない限り「聖像禁止令」を押し付けられ続けます。この教会の危機に際して、ローマ教皇が目をつけたのがフランク王国でした。

フランク王国はゲルマン人の国のひとつ。国王クローヴィスはもともとキリスト教のなかでもローマ教会から異端とされるアリウス派を信仰していましたが、ローマ教会を通じて教会と同じアタナシウス派に改宗(クローヴィスの改宗)。このことをきっかけにローマ教会はフランク王国と結びつき、後ろ盾を得ることになったのです。

「聖像禁止令」問題をきっかけに東西の教会の決裂は深まっていき、1045年にお互いを破門し合う事態になったのでした。

聖像破壊運動の終結

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キリスト教を西のローマ教会と東のギリシャ正教会に決定的に分裂させた「聖像禁止令」と「聖像破壊運動」でしたが、果たして、その結末はどのようになったのでしょうか。

レオン3世ののちもビザンツ帝国では擁護派を弾圧し続け、処刑される聖職者が出るほどです。けれど、どれだけ取り締まっても聖像やイコンへ崇敬するものが絶えることはありませんでした。

そうして、787年、レオン3世の孫レオン4世の時代になってから開かれた第二回ニカイア公会議でようやく「聖像破壊運動」が否定され、事態は緩やかにですが終息へと向かい始めます。その後、843年になって聖像やイコンへの崇敬の復活が宣言されました。

しかし、聖像禁止令の問題が終結したからといって教会が元に戻ることはなく。のちにビザンツ帝国側の教会もローマ教会に対抗して「ギリシャ正教会」を確立するのでした。

\次のページで「「聖像破壊運動」はキリスト教世界分裂の序章」を解説!/

「聖像破壊運動」はキリスト教世界分裂の序章

イスラム教国家の躍進により、領土を脅かされることになったビザンツ帝国。その過程でイスラム教と邂逅し、聖像崇拝を固く禁じる彼らから批判を受けることに。そうしたなか、ビザンツ帝国のレオン3世は教会に対して「聖像禁止令」を発布します。この命令で各地の聖像やイコンが破壊されはじめ、従わない聖職者は罷免されるなどしました。運動はやがて西のローマ教会へと波及していきます。その結果、猛反発したローマ教皇は新たの後ろ盾としてフランク王国を味方に。東西の教会同士で違う庇護者を持つことで対立がより深まり、「聖杯禁止令」が廃止され「聖像破壊運動」が終結しても元のように戻ることはできません。

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ヨーロッパの歴史ローマ帝国世界史

3分で簡単「聖像破壊運動」なぜキリスト教会の分裂した?聖像を破壊した理由とは?歴史オタクがわかりやすく解説

八世紀から九世紀にかけてヨーロッパのキリスト教社会に波乱を巻き起こした「聖像破壊運動」というものがある。言葉を見ればだいたいなにが行われたのかはわかるな。字面だけでもたいそうなものですが、巻き起こった事態はさらに根深いものになったんです。
今回の記事は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「聖像破壊運動」について、当時の背景や、運動の結果起こったことに触れながらわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は約2000年前に登場し、世界中に広まったキリスト教の歴史の一端、キリスト教の教会が東西で別れることになるきっかけとなった「聖像破壊運動」についてまとめた。

1.キリスト教世界とイスラム教世界の邂逅

image by PIXTA / 49610648

「聖像破壊運動」が始まったのは八世紀、ビザンツ帝国皇帝レオン3世が「聖像禁止令」を実施したことに始まります。

そもそも「聖像破壊運動」ってなに?

それまでのキリスト教の教会では、キリスト教の原則としては偶像崇拝を否定しているため、正確には像や絵を偶像として崇拝していたのではなく、キリスト教会でイエス・キリストや聖母マリアを彫刻した像や、彼らを絵画として描いた「イコン」と呼ばれる聖画像を聖なるものの代わりとして「崇敬」していました。ところが、レオン3世の「聖像禁止令」によって聖像の崇敬さえも禁止されてしまったのです。

「聖像禁止令」が発布されると、各地で聖像やイコンを対象とした撤去と破壊が行われるようになりました。これが「聖像破壊運動(イコノクラスム)」です。

「聖像禁止令」の原因はご近所さん?

今まで行われてきた聖像やイコンへの崇敬が、なぜこのときになって突然禁止となったのでしょうか?

それは、ご近所のイスラム教国家の急速な成長と拡大にありました。

ビザンツ帝国は、東ローマ帝国がギリシャ化するにともなって七世紀ごろから呼ばれるようになった名前です。国の名前は首都・コンスタンティノープルはかつてギリシャが支配していたころの名称「ビザンティン(ビザンティオン)」に由来しました。

さて、現代の地図で言うと、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルは、トルコの都市イスタンブールにあたります。トルコといえば小アジアのアナトリア半島に位置しますね。つまり、西洋人の国だったビザンツ帝国(ローマ帝国)は当時の中東の国々と非常に近い場所にあります。

当時の中東では、ササン朝ペルシアが有力な国家として存在していました。ビザンツ帝国は長い間、ササン朝ペルシアと抗争状態にあり、一進一退を繰り返していたのです。その争いへ参入してきたのがイスラム帝国でした。

迫りくるイスラム国家とイスラム教

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「イスラム帝国」はイスラム教の教えに従って生まれたイスラム共同体が形成した帝国でした。イスラム帝国の急速な成長は、聖地だったメッカが商業の中心となったことから人々の間に広がったことにあります。ちなみにですが、ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの争いのせいで東への交易ルートであった「シルクロード」が衰退し、それに代わって発展したのが海路貿易であり、その中心となったのがサウジアラビアのメッカです。ビザンツ帝国にとってはなんとも皮肉なことに、自分たちの戦争の結果、のちに脅威となるイスラム教国家の発展に一躍買ってしまっていたわけですね。

ここでもう少しだけイスラム教について補足しておきましょう。イスラム帝国などのイスラム勢力の中心に置かれたのが、610年にアラブ人ムハンマドが創始した「イスラム教(イスラーム教)」です。イスラム教は、「唯一の神(アッラー)」を崇拝する一神教の宗教で、神が最後の預言者たるムハンマドを通じて聖典「コーラン(クルアーン)」を人々にもたらしたとされています。

また、イスラム教では、偶像崇拝の徹底排除がなされました。これは唯一の神が最重要だとするために、預言者ムハンマドの姿を絵や像として表現させないのです。

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