日本史鎌倉時代

「新古今和歌集」鎌倉時代に和歌の権威を目指した重要書物について元大学教員が5分で解説

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後鳥羽院はそのあと、鎌倉幕府を倒そうと蜂起。承久の乱を起こしました。鎌倉幕府の力は強く後鳥羽院は敗北してしまった。隠岐に島流しとなってそのまま生涯を終えた。隠岐でもせっせと新古今和歌集の編纂を続けて「隠岐本新古今和歌集」を作ってしまったそうだ。

2.新古今和歌集の歌風は「幽玄」と「有心」

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新古今和歌集の表現の特徴は「新古今調」と呼ばれています。藤原俊成が求めたのは「幽玄」。息子藤原定家が掲げたのは「有心」(うしん)。このふたつを理想とする家風が「新古今調」です。「幽玄」とはもともと中国の仏教思想で教義の奥深さのこと。「有心」は文字通り無心の反対。つまり「深い心がある」という意味です。

2-1藤原俊成と藤原定家が新古今調を確立

藤原俊成は平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した歌人。歌合せや歌会に出るなど宮中の歌壇で活躍しました。しだいに後鳥羽院の信頼を得て指導者の地位を獲得。新古今和歌集の編纂で多大な力を発揮します。新古今和歌集の作者の多くが俊成の教えを受けることに。その結果、俊成が良しとした幽玄の美は、この時代に生れた能や俳諧にも大きな影響を与えました。

俊成の息子である藤原定家は、幽玄をさらに深めた「有心」を作りあげます。それはまさに和歌の理想的境地。古くからある王朝の面影を懐かしむ歌風で、まさに後鳥羽院の求めていた世界でした。さらに定家は「源氏物語」の書写や注釈に大きな功績を残しました。

2-2新古今和歌集で活躍したそのほかの歌人

西行もまた新古今和歌集の時代に活躍した歌人です。出家前の名前は佐藤義清(のりきよ)。鳥羽院に北面の武士として仕えていましたが、23歳のときに出家。旅の途上で詠んだ歌はどれも高く評価されました。今でいうと西行はまさにソロキャンパー。そのような生き方は当時の憧れの的であり、風雅な生き方は高く称賛されました。もしかしたら現代より自由な生き方が許されていたのかも知れません。

式子(しょくし)内親王は後白河天皇の第三皇女として生まれたのち出家します。定家と恋愛関係にあったとも伝えられていますが、根拠はありません。生きる悲しみをせつせつと詠った歌、夢の中のことを詠った歌が多いのが特徴。源平争乱の真っただ中を生き「平家滅亡」を見てきた人生が、この世の無常を感じさせたのでしょう。

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藤原俊成の歌に「またや見む片野のみ野の桜狩り花の雪散る春のあけぼの」というものがある。この歌に込められたのが「幽玄」。定家の「春の夜の夢の浮橋とだえして嶺に別るる横雲の空」が有心ということか。中世の歌論は難しくて武士でなくても理解するのが大変だ。

3.新古今和歌集に採られた大物たち

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新古今和歌集には歴史的に有名な大物貴族たちの歌が多く採られています。そのため、あたかも王朝絵巻一覧表を見るような雰囲気。失われた王朝時代に対する後鳥羽院の憧れがにじみ出ているかのようです。このような思いから、新古今和歌集の世界は復古的で技巧的。さらには理論を駆使して和歌の美を極めたといっていいでしょう。

3-1鎌倉幕府を倒すことを夢見て幽玄を求めた後鳥羽院

新古今和歌集は後鳥羽天皇の存在なしには語れません。後鳥羽天皇は譲位してから後鳥羽院となり、新古今和歌集の成立に深くかかわりました。後鳥羽院は討幕をもくろみつつ、幽玄を求める歌に夢中になっていました。後鳥羽院は、壇の浦で三種の神器とともに入水して果てた幼い安徳天皇の異母弟。生まれたときから普通ではない運命を背負っていたのかもしれません。

三種の神器がないまま即位したという引け目は後鳥羽天皇を幼少期から苦しめます。それが異常なほど和歌にのめりこませた要因と言ってもいいでしょう。鎌倉幕府を倒そうとする攻撃性を持ちながら、幽玄優雅を求めた後鳥羽院。現代で考えると多重人格的な所があったのかも知れませんね。

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hikosuke