「新古今和歌集」(しんこきんわかしゅう)とは鎌倉時代の初めごろに成立した勅撰和歌集のこと。全20巻から成立しており、天皇や上皇の命により編纂された最後の八代集です。編纂を命じたのは後鳥羽院。これまでの和歌集とは一線を画する内容とすることが目標とされた。

庶民の歌を入れずに芸術の最高峰を目指したという新古今和歌集の歴史的位置づけや、そこで詠まれた作品について日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。日本の古典にも興味があり、とくに平安時代がお気に入り。鎌倉時代に成立したとされる新古今和歌集が追求したのは芸術至上主義。そこに含まれている和歌について気になり改めて調べてみた。

1.後鳥羽院により編纂された新古今和歌集

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新古今和歌集とは後鳥羽院の命により編纂された歌集のこと。古今和歌集から数えて八代目にあたる勅撰和歌集です。藤原定家をはじめとす5人の歌人により編纂されました。成立したのは鎌倉時代初期の元久2年。1205年のことです。全部で20巻あり1980首ほどおさめられています。新古今和歌集を特徴づけるのは芸術至上主義。平安時代の美意識を完成させるのみならず、中世の新たな美意識を作り上げたと評価されました。

1-1武家政治の時代に生まれた新古今集和歌集

鎌倉時代のはじまりは、貴族社会が没落して武士階級が権力を持つようになった時代。鎌倉幕府が開かれ、武家政治の時代になりました。とはいえ、将軍である源頼家が伊豆の修禅寺に幽閉。翌年に殺害されるなど血なまぐさい事件が続くなど、北条家、比企家、源家をめぐる政権闘争は続きいていました。そのため天皇家の地位も決して安泰ではありませんでした。

同じ時期、庶民たちのあいだで不安が広まり仏教が流行。親鸞や法然などが仏教の教えを広め、踊念仏がブームとなります。そのような時期、後鳥羽天皇は譲位して後鳥羽院となり絶大な権力をもつように。ひいきされていた御子左家(みこひだりけ)の時代となります。そして藤原俊成と息子の定家が中心となって「新古今和歌集」が編纂されることになりました。

1-2後鳥羽院のお気に入りの「歌の家」

後鳥羽院は武家に負けたくないという強い気持ちを持っていました。そこであえて詠んだのは王朝復古調の歌。武士なんかには分からないだろうと、そのような歌を詠む歌人を集めます。背景にあるのは、宮中では和歌の家が誕生し、和歌論が活発になりました。そして和歌の手法をめぐる対立が広がりました。

戦乱が相次ぐ世の中、貴族たちにとって、歌人にとって天皇のお気に入りになることは生きてゆくこと。そのなかで御子左家(みこひだりけ)と呼ばれる藤原俊成(しゅんぜい)が後鳥羽天皇に重んじられるようになります。そして後鳥羽院の時代には御子左家の勢力がさらにアップ。俊成の息子藤原定家がリーダーとなり、新古今和歌集が編纂されることになったのです。

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2.新古今和歌集の歌風は「幽玄」と「有心」

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新古今和歌集の表現の特徴は「新古今調」と呼ばれています。藤原俊成が求めたのは「幽玄」。息子藤原定家が掲げたのは「有心」(うしん)。このふたつを理想とする家風が「新古今調」です。「幽玄」とはもともと中国の仏教思想で教義の奥深さのこと。「有心」は文字通り無心の反対。つまり「深い心がある」という意味です。

2-1藤原俊成と藤原定家が新古今調を確立

藤原俊成は平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した歌人。歌合せや歌会に出るなど宮中の歌壇で活躍しました。しだいに後鳥羽院の信頼を得て指導者の地位を獲得。新古今和歌集の編纂で多大な力を発揮します。新古今和歌集の作者の多くが俊成の教えを受けることに。その結果、俊成が良しとした幽玄の美は、この時代に生れた能や俳諧にも大きな影響を与えました。

俊成の息子である藤原定家は、幽玄をさらに深めた「有心」を作りあげます。それはまさに和歌の理想的境地。古くからある王朝の面影を懐かしむ歌風で、まさに後鳥羽院の求めていた世界でした。さらに定家は「源氏物語」の書写や注釈に大きな功績を残しました。

2-2新古今和歌集で活躍したそのほかの歌人

西行もまた新古今和歌集の時代に活躍した歌人です。出家前の名前は佐藤義清(のりきよ)。鳥羽院に北面の武士として仕えていましたが、23歳のときに出家。旅の途上で詠んだ歌はどれも高く評価されました。今でいうと西行はまさにソロキャンパー。そのような生き方は当時の憧れの的であり、風雅な生き方は高く称賛されました。もしかしたら現代より自由な生き方が許されていたのかも知れません。

式子(しょくし)内親王は後白河天皇の第三皇女として生まれたのち出家します。定家と恋愛関係にあったとも伝えられていますが、根拠はありません。生きる悲しみをせつせつと詠った歌、夢の中のことを詠った歌が多いのが特徴。源平争乱の真っただ中を生き「平家滅亡」を見てきた人生が、この世の無常を感じさせたのでしょう。

3.新古今和歌集に採られた大物たち

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新古今和歌集には歴史的に有名な大物貴族たちの歌が多く採られています。そのため、あたかも王朝絵巻一覧表を見るような雰囲気。失われた王朝時代に対する後鳥羽院の憧れがにじみ出ているかのようです。このような思いから、新古今和歌集の世界は復古的で技巧的。さらには理論を駆使して和歌の美を極めたといっていいでしょう。

3-1鎌倉幕府を倒すことを夢見て幽玄を求めた後鳥羽院

新古今和歌集は後鳥羽天皇の存在なしには語れません。後鳥羽天皇は譲位してから後鳥羽院となり、新古今和歌集の成立に深くかかわりました。後鳥羽院は討幕をもくろみつつ、幽玄を求める歌に夢中になっていました。後鳥羽院は、壇の浦で三種の神器とともに入水して果てた幼い安徳天皇の異母弟。生まれたときから普通ではない運命を背負っていたのかもしれません。

三種の神器がないまま即位したという引け目は後鳥羽天皇を幼少期から苦しめます。それが異常なほど和歌にのめりこませた要因と言ってもいいでしょう。鎌倉幕府を倒そうとする攻撃性を持ちながら、幽玄優雅を求めた後鳥羽院。現代で考えると多重人格的な所があったのかも知れませんね。

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新古今和歌集の特徴のひとつが復古的であること。王朝的であると言ってもいいかもしれません。そのため古くの天皇が詠んだ歌も数多く含まれました。その一部を紹介します。

春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干すてふ天の香具山(持統天皇)
高き屋に登りて見れば煙たつ民のかまどはにぎはひにけり(仁徳天皇)
朝倉や木丸殿にわがおれば名乗りをしつつ行くはたが子ぞ(天智天皇)

新古今和歌集には後鳥羽院自身の歌もはたくさん含まれていました。そのため、後鳥羽院も自ら編纂に関わった可能性もあります。

新古今和歌集を通じて懐かしまれているのは貴族が権力を持っていた時代。そのため、宮中で活躍した有名貴族の歌も含まれました。

ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざして今日(けふ)も暮らしつ(山部赤人)
かささぎの渡せる橋に置く霜の露の白きを見れば夜ぞふけにける(大伴家持)
めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜半(よわ)の月影(紫式部)
あるはなくなきは数添ふ世の中にあはれいづれの日まで嘆かむ(小野小町)

後鳥羽院のモットーは古きよき時代に帰れ。天皇の主導した政治を取り戻せ。武士なんかに和歌が分かるか。過激な言動が多かったこともあり謀反の罪に問われてしまいます。最終的に隠岐に流され死後は怨霊になったと噂されました。

4.新古今和歌集の歌にはどんな特徴があるの?

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新古今和歌集が重視しているのが過去の和歌の教え。新しいものを作るというより過去から学ぶ傾向があります。とはいえ、過去の歌の技法をそのまま使うのではなく、さらに洗練させるなどの工夫も凝らしました。そこで生まれた歌に込められたのは、伝統を重んじつつ、現在の世の中の無常をしみじみと思う感情。それをどれだけ読み解けるのかがポイントです。

4-1短歌オンリーの新古和歌今集

万葉集と古今和歌集には、短歌のほか長歌や旋頭歌も含まれています。それに対して新古今和歌集に収録されたのはすべて短歌。後鳥羽院にとって和歌こそすべてだったのです。彼が好んだのは細やかな感情を繊細な言葉で表現することでした。そんな繊細さは、実際の彼の言動とは遠くかけ離れたものでした。

新古今和歌集に採録された歌には細かい技術も数多く使われています。本歌取り、体言止め, 倒置法、連帯止めなど、これでもかと言わんばかりに技術が駆使されました。メロディーは七五調。まるで絵巻物語のように配列されています。これらは選者たちの編纂技術の結晶といえるでしょう。

新古今和歌集の撰者としてよく聞くのは藤原定家。そのほか、源通具(みちとも)、藤原有家(ありいえ)、藤原家隆(いえたか)、藤原雅常(まさつね)、寂連(じゃくれん)と、複数の選者が関わっています。藤原定家以外の歌人も当時は強い影響力を持っていました。

4-2後鳥羽院が新古今和歌集で狙ったことは?

和歌のほかにも武芸や鍛冶にも没頭していた後鳥羽天皇。自ら刀を作り盗賊を捉えたなどの武勇伝が伝えられています。なかでも和歌に対するのめりこみは異常。和歌所を設置して和歌を権威づけするほどでした。和歌所のトップに据えられたのは寄人(よりうど)。和歌の権威の象徴としました。この権威的な点は、庶民の歌をたくさん取り上げた万葉集とはまったく違うところです。

後鳥羽院の狙いは和歌の権威づけることで武士を見下すこと。その結果、歌人たちも権威を求めるようになり、激しい勢力争いを繰り広げるようになりました。当時は後鳥羽天皇だった後鳥羽院は、歌人たちの売り込みや争いを面白いと思ってみていたのかも知れません。

\次のページで「5.新古今和歌集のその後の評価」を解説!/

5.新古今和歌集のその後の評価

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新古今和歌集の独自の芸術性は、和歌の世界に限らず、そのごの連歌や俳諧さらには謡曲にまで影響を与えました。しかしながら近代以降になると新古和歌集に対する評価は賛否両論。なかには酷評する批評家もあらわれるなど見方が変わってきます。

5-1近代に正岡子規が新古今和歌集を批判

天皇の命により編纂された勅撰和歌集を糾弾したのが正岡子規。アララギ派の祖と言われる歌人です。子規は自身の著作のなかで古今和歌集を「くだらぬ集」と表現。新古今和歌集については、古今和歌集よりはマシであるものの、そう思える歌はほんのわずかと言い放ちました。

松尾芭蕉や与謝野蕪村を高く評価する一方、古来の技巧を凝らした歌を毛嫌いします。子規が目指したのは俳句や短歌の改革。そのうえで権威の象徴である勅撰和歌集は打ち壊すべきものでした。

5-2北原白秋は新古今和歌集を支持

勅撰和歌集を大々的に批判したアララギ派とは対照的に、それを評価したのが童謡作家であり歌人の北原白秋です。白秋は、新古今和歌集に掲載された和歌について「日本短歌最上の象徴芸術」であると高く評価しました。さらには「日本詩歌の本流」であるとも言っています。

アララギ派が影響を受けたのはヨーロッパの自然主義。ものごとをありのままに見つめることを良しとしました。一方、北原白秋が重んじたのは象徴。そこで技巧を凝らした新古今和歌集の世界が魅力的に映ったのでしょう。

新古今和歌集は芸術と権威の最高峰を目指した勅撰和歌集

新古今和歌集を日本史の文脈のなかで学ぶ場合、次のことを押さえておきましょう。一つ目は、新古今和歌集は後鳥羽の命令で編纂されたこと。二つ目は、この時代は貴族政治が崩壊し、武士に代わった変動期であったこと。三つ目は、後鳥羽天皇は消えた王朝文化を懐かしみ、王朝時代へ帰ろうとしたこと。四つ目は、新古今和歌集の理念は「幽玄」と「有心」であることです。新古今和歌集は王朝的な伝統美がたどり着いた最終地。中世全体を流れる幽玄の源です。それは能や狂言の源にもなり、近代の北原白秋立ち多くの詩人に大きな影響を与えた点を評価しましょう。

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日本史鎌倉時代

「新古今和歌集」鎌倉時代に和歌の権威を目指した重要書物について元大学教員が5分でわかりやすく解説

「新古今和歌集」(しんこきんわかしゅう)とは鎌倉時代の初めごろに成立した勅撰和歌集のこと。全20巻から成立しており、天皇や上皇の命により編纂された最後の八代集です。編纂を命じたのは後鳥羽院。これまでの和歌集とは一線を画する内容とすることが目標とされた。

庶民の歌を入れずに芸術の最高峰を目指したという新古今和歌集の歴史的位置づけや、そこで詠まれた作品について日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。日本の古典にも興味があり、とくに平安時代がお気に入り。鎌倉時代に成立したとされる新古今和歌集が追求したのは芸術至上主義。そこに含まれている和歌について気になり改めて調べてみた。

1.後鳥羽院により編纂された新古今和歌集

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新古今和歌集とは後鳥羽院の命により編纂された歌集のこと。古今和歌集から数えて八代目にあたる勅撰和歌集です。藤原定家をはじめとす5人の歌人により編纂されました。成立したのは鎌倉時代初期の元久2年。1205年のことです。全部で20巻あり1980首ほどおさめられています。新古今和歌集を特徴づけるのは芸術至上主義。平安時代の美意識を完成させるのみならず、中世の新たな美意識を作り上げたと評価されました。

1-1武家政治の時代に生まれた新古今集和歌集

鎌倉時代のはじまりは、貴族社会が没落して武士階級が権力を持つようになった時代。鎌倉幕府が開かれ、武家政治の時代になりました。とはいえ、将軍である源頼家が伊豆の修禅寺に幽閉。翌年に殺害されるなど血なまぐさい事件が続くなど、北条家、比企家、源家をめぐる政権闘争は続きいていました。そのため天皇家の地位も決して安泰ではありませんでした。

同じ時期、庶民たちのあいだで不安が広まり仏教が流行。親鸞や法然などが仏教の教えを広め、踊念仏がブームとなります。そのような時期、後鳥羽天皇は譲位して後鳥羽院となり絶大な権力をもつように。ひいきされていた御子左家(みこひだりけ)の時代となります。そして藤原俊成と息子の定家が中心となって「新古今和歌集」が編纂されることになりました。

1-2後鳥羽院のお気に入りの「歌の家」

後鳥羽院は武家に負けたくないという強い気持ちを持っていました。そこであえて詠んだのは王朝復古調の歌。武士なんかには分からないだろうと、そのような歌を詠む歌人を集めます。背景にあるのは、宮中では和歌の家が誕生し、和歌論が活発になりました。そして和歌の手法をめぐる対立が広がりました。

戦乱が相次ぐ世の中、貴族たちにとって、歌人にとって天皇のお気に入りになることは生きてゆくこと。そのなかで御子左家(みこひだりけ)と呼ばれる藤原俊成(しゅんぜい)が後鳥羽天皇に重んじられるようになります。そして後鳥羽院の時代には御子左家の勢力がさらにアップ。俊成の息子藤原定家がリーダーとなり、新古今和歌集が編纂されることになったのです。

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