大正明治現代社会

3分でわかる「大正天皇」激動の時代を生きた天皇について元大学教員がわかりやすく解説

幼少期は慣例に従い里子に出される

明治天皇と皇后美子との間に子供が生まれませんでした。そこで、何人かの典侍が、例外的に明治天皇の側室としての役割を果たします。そのひとりであるのが柳原愛子。明治天皇とのあいだに子供をもうけ、その一人が大正天皇でした。名前は明宮嘉仁親王(はるのみやよしひとしんのう)と命名されました。

愛子は出産前から体調が悪く難産となります。そのため大正天皇は生まれたときから発疹があるなど虚弱体質でした。さらに、痙攣や嘔吐に見舞われることも多く、なんども命の危機にさらされます。慣例に従い愛子夫婦のもとに里子にでますが、母親の体調が思わしくなかったこともあり、実の祖母に育てられることになりました。

教育内容は軍事的なものに変化

治療の甲斐もあって体調が回復するものの、病気がちのため学校に通うことはできず、青山御所のなかに御学問所をつくって個人授業が行われました。規則に縛られることが苦手な性格で、授業に集中することはできなかったようです。8歳になると慣例に従い美子皇后の実子となり、学習院予備科に通うようになりました。

皇太子になったころから教育内容の軍事力が強まり、お世話する人も女官から軍人にチェンジ。心が繊細で体も弱かった大正天皇は、それに適応できず精神状態が悪くなっていきます。軍事教育の遅れから中尉への昇進は持ち越し。学業の遅れから中等科1年を修了した時点で学習院を中退するなど、自分の状況に適応できない日々が続きました。

3.皇太子時代は地方行啓をしていた大正天皇

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皇太子時代の大正天皇の課題は体力をつけること。軍事的な役割が増えていくなか大正天皇の体の弱さは関係者から心配されていました。そこで、体力をつけて健康を増進することを目的に、皇太子時代は日本各地をまわる地方行啓がメインとなりました。

健康な身体と精神の育成が目的

教育係であった有栖川宮威仁親王は、授業で学んだ地理歴史を実地で学ぶために、日本各地を回ることを提案。真の目的は、不安定であった心身を育成することにありました。九州、四国、北関東など、いろいろなところを回ります。

途中、なんどか体を壊すことがあったため、東北に足を延ばす予定だったものの、体調が思わしくなくやむを得ず中止。体が弱く気まぐれな皇太子の教育の負担が重くなった有栖川宮威仁親王は、教育係を辞退してしまいます。それにより大正天皇はますます心が不安定になってしまいました。

外遊を夢見る一面もあった大正天皇

そんな心配の種が多かった大正天皇ですが、外遊に対する憧れがとても強く、教科書で学んだロンドンやベルリンに対する想いを漢文にしたためることもありました。しかしながら、父親である明治天皇は、西洋寄りになることを嫌がり、ヨーロッパ外遊を許さない方針でした。

しかしながら皇太子時代の大正天皇が韓国に外遊に行く案が浮上。治安の悪化などもあり、反対意見が出ていたものの、韓国行きが決定しました。韓国各地をめぐるなかで現地の言葉にも興味を持つようになった大正天皇。天皇即位後まで朝鮮語学習を続けたという逸話もあります。

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