ヘルマン・ヘッセは、第一次世界大戦第二次世界大戦、第二次世界大戦、そして戦後にかけて活躍したドイツの文豪。若者の心の苦悩や人生に光を当てた小説でノーベル文学賞も受賞したほどの人物。小説家としてのイメージが強いが、ヘッセ本人は詩人であることに強くこだわったことでも知られている。

ヘルマン・ヘッセの小説はベトナム戦争に反対する若者に支持されたという一面もある。それじゃあ、若者に愛されたヘッセの作品の世界観について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。ヘルマン・ヘッセはベトナムの反戦運動に影響を与えたことを知り、興味を持つようになった。そこで、難解なイメージがあるヘルマン・ヘッセの人間愛にあふれる世界観について調べてみた。

1.ドイツを代表する文豪ベルマン・ヘッセとは?

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Von Hans-juergen.breuning in der Wikipedia auf Deutsch, CC BY-SA 3.0, Link

ヘルマン・ヘッセとは、ドイツを代表する文学者で20世紀前半に活躍しました。詩人としてキャリアを出発させ、小説や戯曲など、さまざまなジャンルの作品を世に出しました。第一次世界大戦、第二次世界大戦と、二度の戦争を経験。そこから生まれた人間に対する探究心や体制への批判精神は、世界中の若者に支持されます。

ヘルマン・ヘッセが生きた時代について

ヘッセが生れたのは1877年。このころの世界は、大きな大戦もなく表向きは平和な世の中でした。ヘッセが生れたドイツ南部の農村はとてものどかなところ。しかし、ヨーロッパの列強諸国はアジアに勢力を拡大させ、インドはイギリス、ベトナムはフランスの支配下に置かれます。さらには、清仏戦争、朝鮮内乱、日本軍国主義の台頭など、不穏な空気につつまれていきました。

少年時代のヘッセは、精神が不安定で入学した神学校を脱走したのち職を転々とします。やがて戦争に向かって進むドイツを離れたヘッセはスイスに移住。1914年に第一次世界大戦が起こると、ヘッセはドイツの捕虜救援機関やスイスのドイツ人捕虜救援局で働くようになります。そこでヘッセは、捕虜のために読み物を書くことに没頭。精神を病みながらも徐々に詩人として注目されました。

戦争により評価が左右されたヘルマン・ヘッセ

第一次世界大戦が終わったあとも世界情勢は安定せず、第二次世界大戦が起こります。ドイツのナチス政権に批判的だったヘッセ。そのため作風が好ましくないことを理由に、紙の配給を止められてしまいます。しかしながら多くの支持者の支援により創作活動を継続。戦後の1946年にノーベル文学賞とゲーテ賞を受賞しました。

第一次世界大戦前のヘッセの作品は、美しい自然を描くなど甘美で調和的でロマンチックな描写が特徴。作風が変わるきっかけとなったのが、大戦の直前に行われたインドを旅行です。インド思想やジア文明に深く感銘を受け、人間の魂について深く考えるようになりました。この転身がなかったらヘッセは甘美な青春小説作家というだけで終わったかも知れません。

2.ヘルマン・ヘッセはどんな人生を送った?

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Von Heinrich Stürzl - Eigenes Werk, CC BY-SA 3.0, Link

少年のころから詩人になることを夢見ていたヘッセ。難関学校に合格したものの、厳しい規則で縛られた学校生活は苦痛そのものでした。なんども脱走しては自殺未遂を繰り返しで、楽しい青春時代を送ることはできません。そんな彼を支えたのは、何が何でも詩人になるという夢だったのです。

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苦労を重ねた幼少期のヘルマン・ヘッセ

ヘッセの父はスイスのバーゼルの宣教師で母は宣教師の娘と、宗教が身近にある家庭で育ちました。ヘッセは4歳ごろから詩ばかりを創作。教育熱心な両親は、たくさんの書物をヘッセに与え、彼は瞬く間にわがものにしました。祖父の家にて英才教育を受けて難関校であるヴェルテンベルク州立学校に合格、14歳にて神学校に入学するものの、半年で脱走します。

そんなヘッセに対して両親は悪魔がついていると考え、知り合いの牧師から悪魔祓いの儀式を実施。効果はなく、自殺未遂を起こして精神病院に入院します。退院したあと再び神学校に入学するもののすぐに退学。機械工や書店の店員のアルバイト勤務をしながら、独力で執筆活動を続けていきます。

戦争に翻弄されながら評価を高める

27歳の時に「郷愁」という作品が評価され、作家としての道が見えてきます。そして9歳年上の女性と結婚。ボーデン湖畔の村に移り住みました。そんな幸せな時代を映した出したのが小説「春の嵐」。それを書いたあとヘッセはインドに旅立ちます。その理由は、ヨーロッパがアジアを征服して行く流れに疑問を持ったから。ヘッセは帰国後、スイスのベルンに移住しますが、すぐにへ第一次世界大戦が勃発しました。

ヘッセはスイスの領事館に掛け合い、捕虜になったドイツ人のために読み物を書いたり新聞を発行したりします。さらには捕虜文庫を開設するなど仕事に邁進。同じ時期に不朽の名作「デミアン」を書き下ろしました。それから22年後にヒトラー政権が台頭。第二次世界大戦が勃発します。ヒトラーに紙の配給を止められながらも壮大な小説「ガラス玉遊戯」を執筆。戦後にノーベル文学賞を受賞しました。

3.ヘルマン・ヘッセの作品の特徴とは?

image by PIXTA / 66555860

第一次世界大戦を境にヘッセの作品は大きく傾向が変わります。前期はロマンチックで甘い郷愁を感じさせる調和的な世界観をかもしだしていました。それが後期になると、厳しく自分を見つめて探求するように。さらにヨーロッパ文明に疑問を抱くようになりました。さらに精神の平安を図るためにヘッセは水彩画に熱中するようになります。

前期の作品の特徴は批判精神

ヘッセが最初に名声を得た作品が「郷愁」。故郷で過ごした幸せで安定していた子ども時代の生活がもとになっています。甘く純真な雰囲気で、多くの読者にとって読みやすい作品です。「車輪の下」は、神学校に馴染めずに脱走したり自殺未遂を繰り返したりした、ヘッセ自身の体験がモチーフ。そのほか、「春の嵐」「青春は美し」「湖畔のアトリエ」など数々の美しい作品がを世に出しました。

大戦中に執筆された「デミアン」でヘッセは大きな転身をとげることに。西欧中心の価値観が根底から覆され、心の平和とよりどころを失ったヘッセは、この作品で「古いものは壊れなければならない」という信条を描いた、ヘッセの代表作となりました。さらに「シッダールタ」では、悟りを開く前の釈迦の姿を描いて多くの若者が東洋に目を向けるきっかけを作りました。

後期になると現代社会に対する疑問が炸裂

大戦中、政府に批判的な立場をとっていたヘッセはスイスに移住。そこで、次々と問題作を執筆しました。「荒野の狼」「ナルチスとゴルトムント」などで、すべて現代文明に対する疑問と批判を追求。そして第二次世界大戦中に書いた大作「ガラス玉遊戯」により、1946年にノーベル文学賞を受賞しました。

受賞理由は「古典的で上質な文章、博愛と大胆さと洞察の中ではぐくまれた豊かな作品業に対して」。ノーベル賞はこれまでの執筆活動すべてに対して与えられたと言えるでしょう。小説のほかにヘッセは多くの詩を書きました。「途上」「孤独者の音楽」「詩選集」「危機」「夜の慰め』」「四季」「命の木から」など、多くの詩集を私家出版しています。

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4.ヘルマン・ヘッセの代表作「デミアン」

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「デミアン」と呼ばれるヘッセの代表作の正式なタイトルは「デミアン-エーミール・シンクレールの少年時代の物語」(Demian: Die Geschichte von Emil Sinclairs Jugend)。第一次世界大戦中の1919年に発表されました。最初に刊行されたときの作者名は「エーミール・シンクレール」。のちに作者がヘッセということが判明して1920年から「ヘルマン・ヘッセ」と変更されました。

ドイツの戦争継続を批判してバッシングを受ける

「デミアン」を執筆していた時期、ヘッセが住んでいたのはスイスのベルン。ドイツ領事館で徴兵検査を受けたものの、近視を理由に不合格。ドイツ捕虜援護事務所にてドイツ人捕虜に読み物を選ぶ仕事に就きました。

ヘッセは、祖国であるドイツに「友よ!その調子でなく!」という論文を送るなど反戦を訴えます。しかしながらその論文は、ドイツの戦争の継続を批判する内容であったため、ドイツでは厳しい批判を受けることに。そのためヘッセは、新聞の論評などで「臆病者」や「裏切り者」と罵られてしまいます。そのような時期に書かれたのが不朽の名作となる「デミアン」でした。

精神を回復させる過程で書かれた「デミアン」

小さな町のラテン語学校に通う10歳の主人公シンクレールが主人公。些細な理由で悪童クローマーに脅されたことで、深く苦しんでいたシンクレールは、町にやって来たデミアンに救われる。デミアンは、シンクレールにカインとアベルの逸話について、そして明と暗の両者が存在しているふたつの世界について語ります。それは、シンクレールの葛藤の日々の始まりとなりました。

ヘッセ自身も仕事の苦悩や肉親の死などの悩みを抱えていました。精神分析の大御所であるユングの弟子たちの助けを借りながら精神の回復を遂げます。そのような時期に執筆されているため「デミアン」には深い精神世界が描かれました。

5.日本人にも影響を与えたヘルマン・ヘッセ

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ヘルマン・ヘッセが日本に初めて紹介されたのが1902年。明治4年のことです。それから100年以上ものあいだ、ヘッセは日本の読者の心を魅了してきました。これだけ長いあいだ愛されることは他の作家には見られないこと。ヘッセの作品のなかにある雰囲気、考え方、感受性が、日本人に共感できるものだったのかもしれません。

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日本では青春文学として受容される

ヘッセの詩の素晴らしさをはやくから認めていたのは詩人のカール・ブッセとリルケ。ブッセは「山のあなたの空遠く さいわい住むとひとのいう」作品で日本でも知名度を得ていました。日本には、ヘッセの初期の作品のほとんどが翻訳されましたが、いずれも訳者の考えで「郷愁」や「春の嵐」などロマンチックなタイトルに変更。ヘッセ自身はそれがあまり気に入っていなかったと言われています。

ヘッセの作品は、甘美な青春文学というより厳しい人間探求と脱皮・成長の物語。そこで「日本ヘルマン・ヘッセ友の会」では、それを見直し新たな翻訳でヘッセ文学を世に出そうとしています。さらに現在では、日本の出版でしか読めない「少年の日の思いで」も再注目。日本人翻訳者がつけたもので、今は「クジャクヤママユ」というタイトルとなっていますが、哲学的な少年成長物語として見直されています。

日本とゆかりがあったヘルマン・ヘッセ

ヘッセの父親であるカール・ヨハネス・ヘッセは、内村鑑三の著書「代表的日本人」の英訳版を入手。1908年にドイツ語に翻訳したことがあります。また、内村鑑三にあこがれて来日、日本文学研究者になったヘッセの親戚もいました。

「クジャクヤママユ」と日本の関係も深いもの。この小説は昆虫の書籍ではありませんが、日本の昆虫学者たちがドイツからクジャクヤママユの標本をドイツから取り寄せ、日本各地で展示したこともあります。このときヘッセの作品を紹介する展示も行われました。さらに「クジャクヤママユ」は1947年から70年以上ものあいだ、中学校の国語の教科書に掲載されてきました。

ヘルマン・ヘッセは戦争と自己を見つけた作家

小説家として高い知名度を獲得しましたが、ヘッセ自身は自分のことを詩人と思っていたようです。小さいころ「詩人になれなければ何にもなりたくない」と言っていたほど。それほど詩を愛していました。そのため、「デミアン」や「ガラス玉遊戯」とくらべると読まれる機会は少ないのですが、数多くの詩集を私家出版して世に出しています。今でもヘッセの作品は、青春文学として日本でとても人気がありますが、戦争と自己に深く向き合った作品として読み直してみてもいいでしょう。

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世界史

若者に大きな影響を与えたドイツの文豪「ヘルマン ヘッセ」について元大学教員が5分でわかりやすく解説

ヘルマン・ヘッセは、第一次世界大戦第二次世界大戦、第二次世界大戦、そして戦後にかけて活躍したドイツの文豪。若者の心の苦悩や人生に光を当てた小説でノーベル文学賞も受賞したほどの人物。小説家としてのイメージが強いが、ヘッセ本人は詩人であることに強くこだわったことでも知られている。

ヘルマン・ヘッセの小説はベトナム戦争に反対する若者に支持されたという一面もある。それじゃあ、若者に愛されたヘッセの作品の世界観について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。ヘルマン・ヘッセはベトナムの反戦運動に影響を与えたことを知り、興味を持つようになった。そこで、難解なイメージがあるヘルマン・ヘッセの人間愛にあふれる世界観について調べてみた。

1.ドイツを代表する文豪ベルマン・ヘッセとは?

ヘルマン・ヘッセとは、ドイツを代表する文学者で20世紀前半に活躍しました。詩人としてキャリアを出発させ、小説や戯曲など、さまざまなジャンルの作品を世に出しました。第一次世界大戦、第二次世界大戦と、二度の戦争を経験。そこから生まれた人間に対する探究心や体制への批判精神は、世界中の若者に支持されます。

ヘルマン・ヘッセが生きた時代について

ヘッセが生れたのは1877年。このころの世界は、大きな大戦もなく表向きは平和な世の中でした。ヘッセが生れたドイツ南部の農村はとてものどかなところ。しかし、ヨーロッパの列強諸国はアジアに勢力を拡大させ、インドはイギリス、ベトナムはフランスの支配下に置かれます。さらには、清仏戦争、朝鮮内乱、日本軍国主義の台頭など、不穏な空気につつまれていきました。

少年時代のヘッセは、精神が不安定で入学した神学校を脱走したのち職を転々とします。やがて戦争に向かって進むドイツを離れたヘッセはスイスに移住。1914年に第一次世界大戦が起こると、ヘッセはドイツの捕虜救援機関やスイスのドイツ人捕虜救援局で働くようになります。そこでヘッセは、捕虜のために読み物を書くことに没頭。精神を病みながらも徐々に詩人として注目されました。

戦争により評価が左右されたヘルマン・ヘッセ

第一次世界大戦が終わったあとも世界情勢は安定せず、第二次世界大戦が起こります。ドイツのナチス政権に批判的だったヘッセ。そのため作風が好ましくないことを理由に、紙の配給を止められてしまいます。しかしながら多くの支持者の支援により創作活動を継続。戦後の1946年にノーベル文学賞とゲーテ賞を受賞しました。

第一次世界大戦前のヘッセの作品は、美しい自然を描くなど甘美で調和的でロマンチックな描写が特徴。作風が変わるきっかけとなったのが、大戦の直前に行われたインドを旅行です。インド思想やジア文明に深く感銘を受け、人間の魂について深く考えるようになりました。この転身がなかったらヘッセは甘美な青春小説作家というだけで終わったかも知れません。

2.ヘルマン・ヘッセはどんな人生を送った?

Hesse Wohnhaus II Gaienhofen von S.jpg
Von Heinrich StürzlEigenes Werk, CC BY-SA 3.0, Link

少年のころから詩人になることを夢見ていたヘッセ。難関学校に合格したものの、厳しい規則で縛られた学校生活は苦痛そのものでした。なんども脱走しては自殺未遂を繰り返しで、楽しい青春時代を送ることはできません。そんな彼を支えたのは、何が何でも詩人になるという夢だったのです。

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