世界史

若者に大きな影響を与えたドイツの文豪「ヘルマン ヘッセ」について元大学教員が5分でわかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。ヘルマン・ヘッセは、第一次世界大戦第二次世界大戦、第二次世界大戦、そして戦後にかけて活躍したドイツの文豪。若者の心の苦悩や人生に光を当てた小説でノーベル文学賞も受賞したほどの人物。小説家としてのイメージが強いが、ヘッセ本人は詩人であることに強くこだわったことでも知られている。

ヘルマン・ヘッセの小説はベトナム戦争に反対する若者に支持されたという一面もある。それじゃあ、若者に愛されたヘッセの作品の世界観について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。ヘルマン・ヘッセはベトナムの反戦運動に影響を与えたことを知り、興味を持つようになった。そこで、難解なイメージがあるヘルマン・ヘッセの人間愛にあふれる世界観について調べてみた。

1.ドイツを代表する文豪ベルマン・ヘッセとは?

ヘルマン・ヘッセとは、ドイツを代表する文学者で20世紀前半に活躍しました。詩人としてキャリアを出発させ、小説や戯曲など、さまざまなジャンルの作品を世に出しました。第一次世界大戦、第二次世界大戦と、二度の戦争を経験。そこから生まれた人間に対する探究心や体制への批判精神は、世界中の若者に支持されます。

ヘルマン・ヘッセが生きた時代について

ヘッセが生れたのは1877年。このころの世界は、大きな大戦もなく表向きは平和な世の中でした。ヘッセが生れたドイツ南部の農村はとてものどかなところ。しかし、ヨーロッパの列強諸国はアジアに勢力を拡大させ、インドはイギリス、ベトナムはフランスの支配下に置かれます。さらには、清仏戦争、朝鮮内乱、日本軍国主義の台頭など、不穏な空気につつまれていきました。

少年時代のヘッセは、精神が不安定で入学した神学校を脱走したのち職を転々とします。やがて戦争に向かって進むドイツを離れたヘッセはスイスに移住。1914年に第一次世界大戦が起こると、ヘッセはドイツの捕虜救援機関やスイスのドイツ人捕虜救援局で働くようになります。そこでヘッセは、捕虜のために読み物を書くことに没頭。精神を病みながらも徐々に詩人として注目されました。

戦争により評価が左右されたヘルマン・ヘッセ

第一次世界大戦が終わったあとも世界情勢は安定せず、第二次世界大戦が起こります。ドイツのナチス政権に批判的だったヘッセ。そのため作風が好ましくないことを理由に、紙の配給を止められてしまいます。しかしながら多くの支持者の支援により創作活動を継続。戦後の1946年にノーベル文学賞とゲーテ賞を受賞しました。

第一次世界大戦前のヘッセの作品は、美しい自然を描くなど甘美で調和的でロマンチックな描写が特徴。作風が変わるきっかけとなったのが、大戦の直前に行われたインドを旅行です。インド思想やジア文明に深く感銘を受け、人間の魂について深く考えるようになりました。この転身がなかったらヘッセは甘美な青春小説作家というだけで終わったかも知れません。

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ヘッセは小説「ガラス玉遊戯」によりノーベル文学賞を受賞。ベトナム戦争では、アメリカの若者に大きな影響を与え、反戦運動の大きな精神的支えとなりました。ヘッセの生涯は、挫折、精神の病み、そして世界大戦との戦いでもあった。それが若者に共感される要素となったのだろう。

2.ヘルマン・ヘッセはどんな人生を送った?

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Von Heinrich StürzlEigenes Werk, CC BY-SA 3.0, Link

少年のころから詩人になることを夢見ていたヘッセ。難関学校に合格したものの、厳しい規則で縛られた学校生活は苦痛そのものでした。なんども脱走しては自殺未遂を繰り返しで、楽しい青春時代を送ることはできません。そんな彼を支えたのは、何が何でも詩人になるという夢だったのです。

\次のページで「苦労を重ねた幼少期のヘルマン・ヘッセ」を解説!/

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