藤原摂関家の時代で現れた作品のひとつが伊勢物語。在原業平のことを書いていると言われているが真相は不明の古典です。和歌と小説を巧みに組み合わせた歌物語でありながら、業平の不満や当時のスキャンダルなどを巧みに盛り込んだ暴露本という側面もある。

日本の代表的な古典でありながら当時の暴露本という側面もある伊勢物語について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。平安時代の古典にも興味があり、気になることがあったら調べている。在原業平は光源氏のモデルともいわれている平安時代のモテ男。和歌にたけている男はとにかくモテモテだった。在原業平についてもっと知りたいと思い、伊勢物語について調べてみた。

1.伊勢物語とはどんな作品?

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伊勢物語は、もともと9世紀ごろ存在していた物語に数人の者が手を加えて増補され、10世紀の半ばごろ成立したと言われています。作者は不明。在原業平(ありわらのなりひら)あるいは業平にゆかりのある人が書いたのではないかと推測されています。さらには書名の由来も不明。「在五が物語」「在中将」「在五中将の日記」とも呼ばれ、125の章段に分かれています。

作者と思われる在原業平

在原業平は平安前期の歌人で六歌仙の1人。六歌仙というのは古今和歌集の序に挙げられている6人の優れた歌人のことです。業平は平城平天皇(へいぜい)の孫として生まれました。しかし、平城天皇は嵯峨天皇に敗北、罪人と同じような立場になります。業平は負け組天皇の血筋に生れたと言えるでしょう。

在原業平は古今和歌集の「仮名序」に「その心あまりて、言葉足らず。しぼめる花の、色なくて、匂い残れるがごとし」と評されています。多情多感な平安時代の和歌の歌風を作った人とその評価は上々。伊勢物語の中心的な主人公ではないかと考えられています。容姿端麗で自由奔放な性格だったという説も。伝説の美男子として能や歌舞伎にも取りあげられています。

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伊勢物語が書かれた時代

伊勢物語があらわれたのは、藤原氏が摂関家として栄華を誇るようになったころ。藤原氏はいろいろ枝分かれしていますが、北家一族一強の時代となりました。ほかの由緒ある貴族は出世の道を閉ざされ、文学に励むか女遊びに明け暮れるしかなくなりました。

平安初期のころから盛んになったのが「かな」の使用。今までは漢字を使って中国風の漢詩の真似事をしていた貴族たちは、今のひらがなの先祖である「かな」を使ってさまざまな文学作品を書くようになったのです。

万葉集の後にしばらくふるわなかった和歌でしたが「仮名」の発展と同時に盛んになり、たくさんの歌人たちが世に出てきました。彼らの多くは政治的出世に見切りをつけた貴族たちあるいは出家者です。権力とは無縁の民衆の謳う民謡もいろいろなかたちで貴族の文学に影響を与えました。

2.伊勢物語にはどんな特徴がある?

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伊勢物語は、和歌とそれにまつわるエピソードを小説ふうに組み合わせて作り上げられた歌物語。実は内容は過激で、遠回しの歌やいろいろなフィクションを取り混ぜて権力者に一矢を放つこともありました。週刊文春の役目を果たしたのは和歌だったと言えるでしょう。

不遇であった在原業平の立場

嵯峨天皇の「女遊び」と「風流遊び」で皇室財政が破綻。皇族のリストラ対象となったのが業平でした。その結果、「在原」という姓を与えられ臣籍降下するはめに。そのことを恨んでいたとも言われています。祖父である平城天皇が皇室内のクーデターに加担したということで出世出来ない業平に対する貴族たちの思いは同情的ではありました。

当時の人はこの「ものがたり」を読んだだけで「主人公はあいつだ」とか「恋の相手はあの天皇の后だ」と分かりました。そして陰で「いい気味だ」と笑うこともありました。伊勢物語は一種の暴露本。当時の「負け組」は「平安」なりの戦い方をしたのかもしれません。

絶望と悲しみにあふれる伊勢物語

在原業平が自分の立場をどう感じていたか知るよしもありません。しかしながら、伊勢物語が和歌の雅(みやび)な雰囲気を散文の世界と融合させた日本最古の歌物語であり、特別な古典として定着したことは確かです。

全体に流れるのは現世での栄達をあきらめざるを得なかった高貴な生まれの男性の絶望と悲しみ。ただ、現実の業平はそれほど不遇であったわけではないという見方もあります。なぜなら、古今和歌集での扱いも不自然なほど詞書が長く、えこひいきではないかと思われるほど特別扱い。他の貴族と比べると格段に優遇されていたことも分かります。

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伊勢物語の125段のエピソードはひとりの男の若き日から死にいたるまでの恋愛絵巻となっています。

元服したころの男の儚い恋(1段)に始まり、高貴な女性への燃える恋心(3~6段)、男を心から愛する女性の悲しみ(23段)、老女の恋心(63段)、紙に仕える女性への男の悲恋(69段)、失恋し東国へ下った男の旅愁(7~9段)肉親への愛情(84段)、友情(82段)などその内容はさまざま。それぞれの場面が涙涙の物語となっています。

文才にあふれていた業平ですが漢詩は苦手。当時の男性がマスターすべき学問は漢学でした。そのため、漢詩の苦手な業平は今の感覚で言うと勉強がまるでできなかったということです。

3.在原業平がモテ男だったわけ

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なぜ業平タイプがモテモテだったのでしょうか。なぜ貴族たちは和歌にドハマりしたのでしょうか。「モテる」というのは時代が要求するタイプに合致していること。時代の要請により作られたタイプなのです。坂本竜馬のような勇敢なタイプの男性は平安時代ではまったくモテません。むしろ貴族にはもっとも軽蔑され嫌われるタイプでした。

すべては嵯峨天皇のころに芽生えた

桓武天皇が山城の地に都を定めてから平安時代が始まりました。平安という名前とは対照的に軍事的な時代。東北の蝦夷を征服した桓武天皇が藤原氏を抑えて自ら政務をおこないました。業平の祖父でもある平城天皇もいろいろな改革を成し遂げました。

しかしながら病気になってしまい譲位。嵯峨天皇の時代となりました。平城天皇が奈良の平城宮に移ってしまったことから平安京と平城京の二つが存在する事態になります。しかし嵯峨天皇の政治的能力はゼロ。藤原北家の思うままに操られ、平城天皇は反乱軍に加担したと見なされ出家するに至ります。

和歌が興隆した平安時代

嵯峨天皇は趣味と女に明け暮れ、皇室財政は破綻。皇族の給料も出せなくなり、皇族のリストラを開始、業平も皇族から出されてしまいました。実際の最高権力者である藤原冬嗣は貴族が風流に明け暮れることを推奨。それが自分たちにとって安全だと思ったたからです。そこで、藤原派ではない貴族たちは和歌に没頭し、文化の方面で名をあげることを目指しました。

嵯峨天皇は無類の漢文好き。日本の漢文学の最盛期を作ったと言えるほどです。同時に和歌も発展していきました。政治は儀式化して貴族たちは漢詩と和歌にだけ情熱を傾けるように。その結果、藤原冬嗣一族に逆らう者はいなくなりました。そのような時代に在原業平はモテ男になったのです。

4.伊勢物語の時代の和歌の位置づけ

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ひとことで言うと和歌は「贈り物」。心を込めて、ある時は命をかけて相手に贈る「贈り物」でした。そのため、さまざまに工夫を凝らしてラッピングするのが平安スタイル。それは美しい料紙であり文に付ける花や枝でもありました。届ける文使いの子供にも美しい衣を着せまるのが流儀。その工夫が素晴らしいほど送り主のセンスが高いと評価されたのです。

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貴族の教養であった和歌

和歌は貴族にとって欠かせない教養。武士にとって刀が命であるように貴族にとって和歌は命でした。陰謀や呪詛はたくさんありましたが、武力による戦争は嵯峨天皇の時代になくなりました。平和な時代だったため、漢詩や和歌で一流にさえなれば、政治的には権力の中心にいられなくても、文化人として敬われることができました。

もともと文字を持たなかった日本人は中国から渡って来た漢字を使って公式文書を書いていました。とはいえ、私的な歌を漢字で書くことは困難。繊細な感情をあらわすために、工夫を凝らして「仮名」文字を作り出しました。とはいえ「仮名」文字は漢字より低ランク。和歌は「やまと歌」とも言われ、基本的には「女の文学」とされていました。貴族階級の男は漢詩を書くべしというのが時代の価値観だったのです。

ラブレターとして使われた和歌

漢字はラブレターに似合いません。そこで男性たちたちは仮名を使ってラブレターを書きました。和歌は贈り物でありラブレター。和歌は顔を会わせることのない貴族の男女の唯一の会話の手段でありプレゼントであり共通言語でした。今でいうと携帯やスマホと同じ。日本語の文章がなかった平安時代、男性と女性は和歌で会話をしていたのです。

平安初期は漢詩真っ盛りの時代。遣唐使が廃止されると次第に内向きになり、嵯峨天皇の没後は漢文から和歌の時代に移ります。漢詩は世を嘆き、権力者に怒りを向け、理想を求める詩。平安貴族は漢詩の考え方を吸収せず、ひたすら美と言葉遊びに明け暮れました。

重視されたのは歌の内容だけではない。和歌を書く料紙の色、柄、焚き染める香、歌を書いた文に結びつける花や枝の選び方など、すべてにセンスが問われた。センスとは平安貴族の偏差値そのもの。伊勢物語の作者である在原業平は、和歌を武器に藤原一族の女たちに手をつけたというのは本当のようです。なぜなら彼の禁断の恋の相手は藤原家主流の女性たち。天皇の后や斎宮ばかりだったのです。

伊勢物語は非主流派の貴族の心を映した古典

在原業平による伊勢物語は、モテる男がいかに恋に生きたのかを和歌と共に表現した本。読者は、そこに登場するお相手は誰なのか想像できるものでした。伊勢物語は今では日本の古典として定着していますが、当時は暴露本あるいはワイドショー的な側面もありました。「ふたりはどんな関係」「あの人がそんなことしているの」と、ワクワクドキドキしながら読んでいたのかもしれません。また、藤原北家の時代で声を出すことができなかった貴族たちの想いを映しているのも伊勢物語。非主流派の文学ともいえるでしょう。古典というイメージにとらわれることなく、同時の人々と同じ視点に立って伊勢物語を読んでみると、時代を映した鏡のように楽しめると思いますよ。

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平安時代日本史

「伊勢物語」とは?平安時代のモテ男だった在原業平の物語について元大学教員が5分でわかりやすく解説

藤原摂関家の時代で現れた作品のひとつが伊勢物語。在原業平のことを書いていると言われているが真相は不明の古典です。和歌と小説を巧みに組み合わせた歌物語でありながら、業平の不満や当時のスキャンダルなどを巧みに盛り込んだ暴露本という側面もある。

日本の代表的な古典でありながら当時の暴露本という側面もある伊勢物語について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。平安時代の古典にも興味があり、気になることがあったら調べている。在原業平は光源氏のモデルともいわれている平安時代のモテ男。和歌にたけている男はとにかくモテモテだった。在原業平についてもっと知りたいと思い、伊勢物語について調べてみた。

1.伊勢物語とはどんな作品?

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伊勢物語は、もともと9世紀ごろ存在していた物語に数人の者が手を加えて増補され、10世紀の半ばごろ成立したと言われています。作者は不明。在原業平(ありわらのなりひら)あるいは業平にゆかりのある人が書いたのではないかと推測されています。さらには書名の由来も不明。「在五が物語」「在中将」「在五中将の日記」とも呼ばれ、125の章段に分かれています。

作者と思われる在原業平

在原業平は平安前期の歌人で六歌仙の1人。六歌仙というのは古今和歌集の序に挙げられている6人の優れた歌人のことです。業平は平城平天皇(へいぜい)の孫として生まれました。しかし、平城天皇は嵯峨天皇に敗北、罪人と同じような立場になります。業平は負け組天皇の血筋に生れたと言えるでしょう。

在原業平は古今和歌集の「仮名序」に「その心あまりて、言葉足らず。しぼめる花の、色なくて、匂い残れるがごとし」と評されています。多情多感な平安時代の和歌の歌風を作った人とその評価は上々。伊勢物語の中心的な主人公ではないかと考えられています。容姿端麗で自由奔放な性格だったという説も。伝説の美男子として能や歌舞伎にも取りあげられています。

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