
鈴木商店の飛躍のきっかけは台湾統治
下関条約が締結されたことにより、台湾は日本の領土に組み込まれます。もともと日本でも樟脳生産は限られていました。台湾が植民地化されたことで、樟脳の原料となるクスノキのプランテーションの経営に着手。20世紀初頭では、台湾の樟脳生産に力を入れた日本は、世界一の樟脳生産国となります。
この当時の樟脳はセルロイドの可塑剤として高いニーズを誇っていました。その独占販売権を得たことで鈴木商店は大躍進。これまで個人会社であった鈴木商店は、出資金50万円にて合名会社鈴木商店に変更。そして販売の拠点も拡大させます。ロンドン、ハンブルク、ニューヨークに代理店を設置するに至りました。
3.買収にて事業を拡大させた鈴木商店

台湾総督府を支持して躍進した鈴木商店ですが、続く事業拡大は買収によるもの。明治時代の後半から買収を次々としかけ、鈴木商店の事業内容の幅が一気にひろがります。そのなかには現在も残る大企業の全身となるものも含まれていました。
明治から大正期は次々に買収を行う
明治38年に鈴木商店が買収したのが神戸製鋼所の前身である小林製鋼所。明治40年には、大里製糖所を大日本製糖に売却、代わりに砂糖の一手販売権を獲得しました。大正4年には 播磨造船所や日本金属工業などを買収。砂糖や樟脳にくわえて、造船業や鉄鋼業にも手を染めるようになりました。
さらに鈴木商店の買収は続きます。大正7年には日本冶金工業と旭石油。大正8年には 国際汽船に買収します。大正9年に買収したのが繊維メーカーである帝人。当時の名前旧帝国人造絹糸でした。そして、造船業を拡大させるために保険業も組み込むことに。そこで、新日本火災保険が買収されました。
日本の経済発展とともに歩んだ鈴木商店
鈴木商店が事業を拡大していた同時期、日清戦争そして日露戦争に相次ぎ勝利したことで日本経済も発展。軽工業から重工業が中心となっていきました。鈴木商店の飛躍も、日本の経済発展とともにあると言っていいでしょう。
鈴木商店の事業は、買収に買収を重ねて、セルロイド、鉄鋼、造船、人絹など、重化学工業にシフトしていきます。鈴木商店は、「番頭」でる金子を中心としたワンマン企業。つまり鈴木商店は、グローバル総合商社として成長しながらも、その経営体制はかなり古いものだったのです。
4.第一次世界大戦中は連合国相手にビジネスを展開

鈴木商店の大躍進を決定づけたのが第一次世界大戦。金子直吉は、戦争の特需で価格が高騰すると読んだものを徹底的に買い集めます。とくに戦地となったヨーロッパ諸国で需要が増したものを中心に、強気の取引をすすめていきました。
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