鈴木商店は、明治、大正、昭和にかけて発展した財閥であり総合商社。樟脳(しょうのう)や砂糖の貿易商としては、欧米を中心にグローバルな取引を確立っされた。第一次世界大戦のころは、保険、海運、造船の事業で大躍進したことでも知られている。

鈴木商店は戦後に破産したが、その流れを組む大企業は今でも数多く残っている。それじゃあ、関連する歴史的出来事とともに、鈴木商店の発展と衰退について現代社会に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。第一次世界大戦期に給食に発展した鈴木商店。江戸時代の名残がある経営により大躍進を遂げた。今日とは異なる経営方法により、どのように海外進出を果たしたのか、調べてみた。

1.鈴木商店とはどんな企業?

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鈴木商店とは、明治時代から昭和初期にかけてグローバルに事業を展開した企業。第一次世界大戦のころは、欧米の品不足に乗じて輸出業で大躍進したことで知られています。買収を重ねながら、樟脳、砂糖、保険、海運、造船など、さまざまな事業に乗り出しました。今では、鈴木商店はグローバル総合商社の先駆けと位置付けられています。

明治7年に鈴木岩治郎が創業

鈴木商店はが創業したのは明治7年のこと。武州川越藩の下級武士の次男として生まれた鈴木岩治郎が初代です。生まれてすぐに養子に出されたのが魚屋。12歳になったころに菓子商の丁稚となりました。続いて、大阪にある米雑穀問屋の辰巳屋で下働きをするようになります。

そこで番頭として頭角をあらわした岩治郎。辰巳屋の主人でる松原恒七が病気となったため、本店の兄弟番頭とともに、辰巳屋ののれんを継承することになります。そして岩治郎が開業したのが、ここで取り上げる鈴木商店。輸入された砂糖を本格的に取り扱うようになりました。

キーパーソンは丁稚奉公に入った金子直吉

鈴木商店に転機が訪れたのが明治19年。のちに鈴木商店繁栄の中心人物となる金子直吉が丁稚奉公に入ります。それから鈴木商店は取引を拡大させて、神戸における8大貿易商のひとつにのしあがりました。そのようななか、創業者の鈴木岩治郎が亡くなります。

周囲の人々は鈴木商店を廃業することを提案。しかし岩治郎の妻であるよねは、番頭であった金子直吉と柳田富士松のふたりに鈴木商店を任せることを決めます。金子直吉は樟脳の取引を試みたものの失敗。大きな損失を出してしまいます。それでも金子に絶大な信頼を寄せていたよねは金子に任せ続けました。

2.樟脳の取引で独占権の獲得に成功

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樟脳の取引でいちど失敗した鈴木商店ですが、日本が台湾を支配下においたことで転機が訪れます。台湾総督府民政長官であった後藤新平が、台湾が樟脳の一大生産地であったことから、総督府専売を目指すように。反対する業者を金子直吉が率いる鈴木商店が鎮圧させることに成功します。その功績が認められ、鈴木商店は台湾でつくられた樟脳油を独占的に売れる権利を獲得しました。

そもそも樟脳とは何?

鈴木商店の飛躍のきっかけとなった樟脳とは、白色半透明のロウ状の昇華性結晶のこと。クスノキの精油の主成分です。清涼感がある樹脂系の香りが特徴。痒み止め、リップクリーム、湿布薬のような、外用医薬品の成分として使われてきました。

樟脳は、飲み込んでしまうと有毒であり、発作や精神錯乱などの障害があらわれます。そのため現在は、樟脳を使った医薬品はほとんど残っていません。九州で一部の会社が製造していましたが、今は鹿児島県にある製薬会社である丸一製薬のみ。白紅という名前で販売されており、100年以上続く家庭の常備薬として、地域で愛されています。

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鈴木商店の飛躍のきっかけは台湾統治

下関条約が締結されたことにより、台湾は日本の領土に組み込まれます。もともと日本でも樟脳生産は限られていました。台湾が植民地化されたことで、樟脳の原料となるクスノキのプランテーションの経営に着手。20世紀初頭では、台湾の樟脳生産に力を入れた日本は、世界一の樟脳生産国となります。

この当時の樟脳はセルロイドの可塑剤として高いニーズを誇っていました。その独占販売権を得たことで鈴木商店は大躍進。これまで個人会社であった鈴木商店は、出資金50万円にて合名会社鈴木商店に変更。そして販売の拠点も拡大させます。ロンドン、ハンブルク、ニューヨークに代理店を設置するに至りました。

3.買収にて事業を拡大させた鈴木商店

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台湾総督府を支持して躍進した鈴木商店ですが、続く事業拡大は買収によるもの。明治時代の後半から買収を次々としかけ、鈴木商店の事業内容の幅が一気にひろがります。そのなかには現在も残る大企業の全身となるものも含まれていました。

明治から大正期は次々に買収を行う

明治38年に鈴木商店が買収したのが神戸製鋼所の前身である小林製鋼所。明治40年には、大里製糖所を大日本製糖に売却、代わりに砂糖の一手販売権を獲得しました。大正4年には 播磨造船所や日本金属工業などを買収。砂糖や樟脳にくわえて、造船業や鉄鋼業にも手を染めるようになりました。

さらに鈴木商店の買収は続きます。大正7年には日本冶金工業と旭石油。大正8年には 国際汽船に買収します。大正9年に買収したのが繊維メーカーである帝人。当時の名前旧帝国人造絹糸でした。そして、造船業を拡大させるために保険業も組み込むことに。そこで、新日本火災保険が買収されました。

日本の経済発展とともに歩んだ鈴木商店

鈴木商店が事業を拡大していた同時期、日清戦争そして日露戦争に相次ぎ勝利したことで日本経済も発展。軽工業から重工業が中心となっていきました。鈴木商店の飛躍も、日本の経済発展とともにあると言っていいでしょう。

鈴木商店の事業は、買収に買収を重ねて、セルロイド、鉄鋼、造船、人絹など、重化学工業にシフトしていきます。鈴木商店は、「番頭」でる金子を中心としたワンマン企業。つまり鈴木商店は、グローバル総合商社として成長しながらも、その経営体制はかなり古いものだったのです。

4.第一次世界大戦中は連合国相手にビジネスを展開

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鈴木商店の大躍進を決定づけたのが第一次世界大戦。金子直吉は、戦争の特需で価格が高騰すると読んだものを徹底的に買い集めます。とくに戦地となったヨーロッパ諸国で需要が増したものを中心に、強気の取引をすすめていきました。

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買い占めたものを連合国に強気で売る

第一次世界大戦がはじまったころ、戦争はすぐに終わり、物価が下がると考えられていました。いっぽう戦争は長引き物価が高騰すると予想した金子。砂糖や小麦を資金があるかぎり買い集めました。このとき、鈴木商店に巨額の融資を投じたのは、イギリス大手のイングランド銀行です。

金子の予想通り、第一次世界大戦は長期化し物価も高騰。買い占めたものを元手に、ヨーロッパ諸国を相手に強気の取引を展開します。列強国であっても遠慮せず、強気の姿勢を見せることが鈴木商店のやり方。その結果、鈴木商店は日本一でもっとも大きな総合商社となりました。

鈴木商店は大量の外貨獲得に成功

鈴木商店は、ヨーロッパ諸国との取引を通じて大量の外貨を日本にもたらします。それにより、日本は開国してから初めて、外国から受け取る金額が支払う金額よりも多い純債権国に。実質、鈴木商店のビジネスの成功により日本は先進国のひとつになったと言えるでしょう。

鈴木商店の勢いがもっとも増したのが大正8年から大正9年にかけてのあいだ。このときの鈴木商店の売上げは16億円。当時の大手商社である三井物産や三菱商事を大幅に上回る金額です。あまりの大躍進に、スエズ運河を通過する貨物船の一割は鈴木商店のものだと言われるほどになります。

5.急成長により歪みが生じる鈴木商店

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一気に規模が拡大した鈴木商店ですが、会社の経営は「番頭」と呼ばれる金子のワンマン。細かいところに目が届かず、お金の管理がずさんになるなど事業にほころびが見え始めます。

米騒動のときは暴動の対象となる

鈴木商店の成長は世界的に評価される一方、強引なやり方から反発が出るようになります。そんな世論に乗じて、新聞社が一斉にアンチ鈴木商店、アンチ金子のキャンペーンを展開。お米を買い占めしているというデマ記事を流します。

その結果、米騒動が起こったときに暴動の対象となったのが、買収により取得したミカドホテル新館である鈴木商店の本社。瞬く間にミカドホテルは焼き払われました。実はお米の買い占めをしている事実はなし。大阪朝日新聞が、米騒動をあおるために流したデマで、現在は風評被害だったともいわれています。

銀行からの借入金も10億を超えることに

第一次世界大戦が終わったことで状況も変化。鈴木商店が力を入れていた工業製品の価格が一気に下落してしまいます。実は鈴木商店は非上場企業。銀行からの借り入れだけでやりくりしていました。そのため戦後の打撃を賄う資金が底をつき、借金は10億円を超える状態になります。

状況を打破するために鈴木商店を持ち株会社に移行させることを決意。会社名も株式会社鈴木商店に変更され、多岐にわたる事業を分社化しました。背景にあるのが融資をしていた台湾銀行の意向。不採算事業を整理するために分社化しましたが、金子が力を持ち続けたため釈略は失敗に終わりました。

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第一次世界大戦の特需が終了

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Edward N. Jackson (US Army Signal Corps) - U.S. Signal Corps photo, パブリック・ドメイン, リンクによる

第一次世界大戦が終わると、軍備拡張による特需にあった日本は瞬く間に戦後不況に陥ります。海外からの買い占めと売却により利益を得ていた鈴木商店の戦略は限界を迎えました。そこで、海軍拡張計画に乗じて八八艦隊を建造。会社の低迷から脱却させようと試みます。

そのようなとき、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアのあいだで締結されたのがワシントン海軍軍縮条約。各国の戦艦や航空母艦などの保有数が制限されることが決まります。その結果、八八艦隊の建造による挽回はかないませんでした。

関東大震災で震災手形を悪用

1923年9月1日に発生したのが関東大震災。たくさんの企業が被災によりダメージを受けました。企業を救済するために政府は震災手形割引損失補償令を公布することを決定。震災のまえに発行された手形のうち決済が不能になった損失を日本銀行が補填することになります。

それを利用したのが鈴木商店と台湾銀行。大量に震災手形を発行することにより損失を穴埋めしようとしました。政府も黙認したため震災手形の大部分が台湾銀行と鈴木商店のものとなる事態に。鈴木商店の震災手形をすべて合わせると、今の価値で438億3752万8千円となりました。

鈴木商店の破産が決定的になる

震災絵手形のやり方が問題視され、これ以上は無理だと考えた台湾銀行は、鈴木商店に対する追加規融資を打ち切ります。メインバンクの資金調達が得られなくなった鈴木商店の資金繰りは困難な状態に。ついに鈴木商店は破産するに至ります。

さらに、融資をしていた台湾銀行や第六十五銀行もあおりをうけて営業を停止することに。最終的に第六十五銀行は神戸岡崎銀行に営業を譲渡し清算されてしまいました。ちなみに神戸岡崎銀行とは、現在の三井住友銀行に該当する神戸銀行の前身だった銀行です。

現代社会にも生きている鈴木商店

鈴木商店が破綻したあとは、高畑誠一が中心となって日商を設立。現在の双日に該当する会社です。金子直吉も複数の事業を手掛けて再起を図るものの志半ばで亡くなりました。分社化された企業は大躍進。現在の神戸製鋼所、帝人、J-オイルミルズ、昭和シェル石油、サッポロビールは鈴木商店を源流とする大企業です。名前は消滅しましたが鈴木商店は現在の私たちの生活を支えていることは確かでしょう。

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大正明治現代社会

「鈴木商店 大正」とは?グローバル総合商社のさきがけ?元大学教員が3分でわかりやすく解説

鈴木商店は、明治、大正、昭和にかけて発展した財閥であり総合商社。樟脳(しょうのう)や砂糖の貿易商としては、欧米を中心にグローバルな取引を確立っされた。第一次世界大戦のころは、保険、海運、造船の事業で大躍進したことでも知られている。

鈴木商店は戦後に破産したが、その流れを組む大企業は今でも数多く残っている。それじゃあ、関連する歴史的出来事とともに、鈴木商店の発展と衰退について現代社会に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。第一次世界大戦期に給食に発展した鈴木商店。江戸時代の名残がある経営により大躍進を遂げた。今日とは異なる経営方法により、どのように海外進出を果たしたのか、調べてみた。

1.鈴木商店とはどんな企業?

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鈴木商店とは、明治時代から昭和初期にかけてグローバルに事業を展開した企業。第一次世界大戦のころは、欧米の品不足に乗じて輸出業で大躍進したことで知られています。買収を重ねながら、樟脳、砂糖、保険、海運、造船など、さまざまな事業に乗り出しました。今では、鈴木商店はグローバル総合商社の先駆けと位置付けられています。

明治7年に鈴木岩治郎が創業

鈴木商店はが創業したのは明治7年のこと。武州川越藩の下級武士の次男として生まれた鈴木岩治郎が初代です。生まれてすぐに養子に出されたのが魚屋。12歳になったころに菓子商の丁稚となりました。続いて、大阪にある米雑穀問屋の辰巳屋で下働きをするようになります。

そこで番頭として頭角をあらわした岩治郎。辰巳屋の主人でる松原恒七が病気となったため、本店の兄弟番頭とともに、辰巳屋ののれんを継承することになります。そして岩治郎が開業したのが、ここで取り上げる鈴木商店。輸入された砂糖を本格的に取り扱うようになりました。

キーパーソンは丁稚奉公に入った金子直吉

鈴木商店に転機が訪れたのが明治19年。のちに鈴木商店繁栄の中心人物となる金子直吉が丁稚奉公に入ります。それから鈴木商店は取引を拡大させて、神戸における8大貿易商のひとつにのしあがりました。そのようななか、創業者の鈴木岩治郎が亡くなります。

周囲の人々は鈴木商店を廃業することを提案。しかし岩治郎の妻であるよねは、番頭であった金子直吉と柳田富士松のふたりに鈴木商店を任せることを決めます。金子直吉は樟脳の取引を試みたものの失敗。大きな損失を出してしまいます。それでも金子に絶大な信頼を寄せていたよねは金子に任せ続けました。

2.樟脳の取引で独占権の獲得に成功

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樟脳の取引でいちど失敗した鈴木商店ですが、日本が台湾を支配下においたことで転機が訪れます。台湾総督府民政長官であった後藤新平が、台湾が樟脳の一大生産地であったことから、総督府専売を目指すように。反対する業者を金子直吉が率いる鈴木商店が鎮圧させることに成功します。その功績が認められ、鈴木商店は台湾でつくられた樟脳油を独占的に売れる権利を獲得しました。

そもそも樟脳とは何?

鈴木商店の飛躍のきっかけとなった樟脳とは、白色半透明のロウ状の昇華性結晶のこと。クスノキの精油の主成分です。清涼感がある樹脂系の香りが特徴。痒み止め、リップクリーム、湿布薬のような、外用医薬品の成分として使われてきました。

樟脳は、飲み込んでしまうと有毒であり、発作や精神錯乱などの障害があらわれます。そのため現在は、樟脳を使った医薬品はほとんど残っていません。九州で一部の会社が製造していましたが、今は鹿児島県にある製薬会社である丸一製薬のみ。白紅という名前で販売されており、100年以上続く家庭の常備薬として、地域で愛されています。

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