
鈴木商店は戦後に破産したが、その流れを組む大企業は今でも数多く残っている。それじゃあ、関連する歴史的出来事とともに、鈴木商店の発展と衰退について現代社会に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
- 1.鈴木商店とはどんな企業?
- 明治7年に鈴木岩治郎が創業
- キーパーソンは丁稚奉公に入った金子直吉
- 2.樟脳の取引で独占権の獲得に成功
- そもそも樟脳とは何?
- 鈴木商店の飛躍のきっかけは台湾統治
- 3.買収にて事業を拡大させた鈴木商店
- 明治から大正期は次々に買収を行う
- 日本の経済発展とともに歩んだ鈴木商店
- 4.第一次世界大戦中は連合国相手にビジネスを展開
- 買い占めたものを連合国に強気で売る
- 鈴木商店は大量の外貨獲得に成功
- 5.急成長により歪みが生じる鈴木商店
- 米騒動のときは暴動の対象となる
- 銀行からの借入金も10億を超えることに
- 第一次世界大戦の特需が終了
- 関東大震災で震災手形を悪用
- 鈴木商店の破産が決定的になる
- 現代社会にも生きている鈴木商店
この記事の目次

ライター/ひこすけ
アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。第一次世界大戦期に給食に発展した鈴木商店。江戸時代の名残がある経営により大躍進を遂げた。今日とは異なる経営方法により、どのように海外進出を果たしたのか、調べてみた。
1.鈴木商店とはどんな企業?
鈴木商店とは、明治時代から昭和初期にかけてグローバルに事業を展開した企業。第一次世界大戦のころは、欧米の品不足に乗じて輸出業で大躍進したことで知られています。買収を重ねながら、樟脳、砂糖、保険、海運、造船など、さまざまな事業に乗り出しました。今では、鈴木商店はグローバル総合商社の先駆けと位置付けられています。
明治7年に鈴木岩治郎が創業
鈴木商店はが創業したのは明治7年のこと。武州川越藩の下級武士の次男として生まれた鈴木岩治郎が初代です。生まれてすぐに養子に出されたのが魚屋。12歳になったころに菓子商の丁稚となりました。続いて、大阪にある米雑穀問屋の辰巳屋で下働きをするようになります。
そこで番頭として頭角をあらわした岩治郎。辰巳屋の主人でる松原恒七が病気となったため、本店の兄弟番頭とともに、辰巳屋ののれんを継承することになります。そして岩治郎が開業したのが、ここで取り上げる鈴木商店。輸入された砂糖を本格的に取り扱うようになりました。
キーパーソンは丁稚奉公に入った金子直吉
鈴木商店に転機が訪れたのが明治19年。のちに鈴木商店繁栄の中心人物となる金子直吉が丁稚奉公に入ります。それから鈴木商店は取引を拡大させて、神戸における8大貿易商のひとつにのしあがりました。そのようななか、創業者の鈴木岩治郎が亡くなります。
周囲の人々は鈴木商店を廃業することを提案。しかし岩治郎の妻であるよねは、番頭であった金子直吉と柳田富士松のふたりに鈴木商店を任せることを決めます。金子直吉は樟脳の取引を試みたものの失敗。大きな損失を出してしまいます。それでも金子に絶大な信頼を寄せていたよねは金子に任せ続けました。
2.樟脳の取引で独占権の獲得に成功

樟脳の取引でいちど失敗した鈴木商店ですが、日本が台湾を支配下においたことで転機が訪れます。台湾総督府民政長官であった後藤新平が、台湾が樟脳の一大生産地であったことから、総督府専売を目指すように。反対する業者を金子直吉が率いる鈴木商店が鎮圧させることに成功します。その功績が認められ、鈴木商店は台湾でつくられた樟脳油を独占的に売れる権利を獲得しました。
そもそも樟脳とは何?
鈴木商店の飛躍のきっかけとなった樟脳とは、白色半透明のロウ状の昇華性結晶のこと。クスノキの精油の主成分です。清涼感がある樹脂系の香りが特徴。痒み止め、リップクリーム、湿布薬のような、外用医薬品の成分として使われてきました。
樟脳は、飲み込んでしまうと有毒であり、発作や精神錯乱などの障害があらわれます。そのため現在は、樟脳を使った医薬品はほとんど残っていません。九州で一部の会社が製造していましたが、今は鹿児島県にある製薬会社である丸一製薬のみ。白紅という名前で販売されており、100年以上続く家庭の常備薬として、地域で愛されています。
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