平安時代日本史

3分で簡単「平等院鳳凰堂」平安時代の末法思想を反映させた歴史的建築物について元大学教員が5分でわかりやすく解説

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平等院ミュージアム鳳翔館には国宝の梵鐘(ぼんしょう)が収蔵されている。かたちがとても美しく日本三大名鐘の一つとされた。池のほとりに吊るされていたが、損傷を防ぐために鳳翔館に収蔵されたそうだ。

想像上の極楽浄土を再現した平等院鳳凰堂

藤原道長が手にした富と権力はたとえようもないもの。ほぼ日本中の荘園がこの一族の物となりました。そのため、その子である頼通はいくらでも財を注ぐことが出来ました。そこで、建物にも庭園にも贅沢の限りをつくします。なかでも鳳凰堂はその最たるもの。金・銀・螺鈿(らでん)、漆塗り、彩色画、凝った装飾が施された天井、雲に乗り楽器を奏でる天人の彫像など、この世の物とは思えな美しい建築物となりました。

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平安時代の寺院は金ぴか。後世の美意識である「わび、さび」とは全く異なる。赤や緑の派手な色と輝く金箔、それが当時の寺院のスタイルだった。当時の人たちは極楽はキラキラと輝いていると考えていたのです。

4.鳳凰堂建立にかかわった人々の苦労

image by PIXTA / 48993029

絢爛豪華な平等院鳳凰堂の影にあるのが労働力を提供した名もない人々。広大な寝殿も寺院も浄土式庭園も、汗を流して作り上げたのは貴族ではなく、無償で働かされていた人々でした。

「栄花物語」に記録された寺院建築現場の様子

平等院を創建した藤原頼通、その父である道長の時代は、他の伝統ある氏族は壊滅状態でした。「この世をば我が世とぞ思ふう望月の欠けたることもなしと思へば」という道長の歌は大げさなものではありませんでした。道長は自分のための寺院である無量寿院を建立。このときの様子は「栄華物語」に記されています。

それによると、毎日数百人の人夫が集められ、全国から瓦や材木が寄付されました。さらに仏師100人以上が招集。300人が材木を引き上げ、50人がお堂の床を磨き、500人が池を掘り、600人が山を築きました。200人以上で引っ張るような石は、貴族たちが準備することが命じられます。材料が足りなくなると、民衆の家が壊され屋根板まではぎとられました。

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平等院鳳凰堂の場合は記録がないため、どのように作られたのかは不明だ。しかし、似たような状況だったことは確かだ。人々の血と汗の結晶であるにもかかわらず鳳凰堂に庶民が入ることは禁止。しかし室町時代の一揆で百姓たちが堂の中に入って話し合いをしたという記録がある。

盗賊が横行する時代に生まれた平等院鳳凰堂

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あばさー投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

平等院鳳凰堂が建設されたころ都には盗賊が横行。貴族の邸宅が放火され、殺されることもありました。百姓が集団で京に入り、朝廷に強訴したり、天皇が取り囲まれて直訴されたりしました。護衛兵士はいたものの、天皇や貴族たちを守ろうという意識はなし。それどころか護衛兵が盗賊になるというありさまでした。頼通といえど安心してはいられない世の中だったのです。

このころ人々のあいだでブームとなったのが農作業の歌から生まれた田楽や猿楽。それを演じる芸人の集団が生れました。都を練り歩く田楽一行が貴族の館に火をつけることもありました。貴族も庶民も安心して都を歩ける状態ではないなか、庶民はひたすら念仏を唱え貴族たちはより豪華な寺院の建設に励んだのです。

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平安時代は優雅で美しい平和な時代と捉えられがち。だが平安時代も末期になると、本当にこの世の終末のような状態だった。現実逃避として平等院鳳凰堂が生れたとも言えるな。

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