
2.平等院鳳凰堂の歴史
Twilight2640 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
鳳凰堂が建てられている中島のかたちは当初と現代では大きく異なります。いちばん大きな違いは鳳凰堂の屋根。創建された当時は「本瓦」ではなく、木を瓦に似せて作った「木瓦」(こがわら)でした。およそ半世紀後に総瓦葺きになったと言われています。
戦乱のなかを生き抜いた鳳凰堂
私たちが見ている建造物で、平安時代そのままのかたちで現存しているものはありません。幾多の戦乱ですべて焼け落ちてしまったからです。残ったとしても柱一本。建物、仏像、壁画、庭園まで含めて残存するのは平等院が唯一です。とはいえ、あくまでも残存であり、当初と全く同じかたちではありません。
宇治は京の都に近かったことから、多くの戦乱に巻き込まれました。平安末期には宇治橋の合戦、宇治川の戦い、そして源平合戦です。鎌倉初期は北条氏の本陣が置かれました。南北朝時代になると足利尊氏と楠正成の合戦で鳳凰堂以外すべて平等院は焼失しました。
そののち平等院は荒廃。江戸末期まで荒廃は進みます。明治時代に修理されるものの、神仏分離令により鎮守社は分離されました。明治政府は異国の宗教として仏教を排斥。寺院をすべて破壊しようとしましたが、京都の由緒ある寺院にはさすがに手を出せませんでした。天皇家ゆかりの寺が多かったため、周囲に住んでいる人々が守り通しました。
現代においても波乱万丈な平等院鳳凰堂
1990年以降はコンピューターグラフィックスを駆使して室内装飾の再現が進められました。宝物館に代わり平等院ミュージアム鳳翔館が完成。2001年にオープンしました。ところが鳳凰堂の後ろに15階建ての高層マンションが立ち、マンションが鳳凰堂の背景になってしまいます。これがきっかけとなり「宇治市景観条例」が制定されました。
さらに鳳凰堂の景観を守るために境内に楠が植えられました。2018年には世界初の金色光のLED灯光器を使って、鳳凰堂の室外室内の美しさが鑑賞できるように改修されました。そして現在、平等院ミュージアム鳳翔館ではたくさんのオリジナルグッズが揃えられ、オンラインでも購入できます。
3.平等院鳳凰堂にはどんな思想的背景がある?

平等院は、当時の人々が信じていた末法元年から仏法が廃れ、不安な世の中が訪れるという思想抜きには語れません。繰り返しになりますが、平等院は当時の権力者である藤原頼通が、西方極楽浄土と阿弥陀如来さまを深く想うために創建した寺院。飛鳥、奈良、平安時代初期の仏教は、この世での魂の救済を求めるもの。しかし平安末期になると、死後の極楽往生を願うものに変わってゆきました。
末法思想の変化のなかで生まれた平等院鳳凰堂
末法思想はもともと仏教の教えに関係するもの。しかしいつのまにか世の中が終末を迎えるという終末思想に変化します。天変地異や戦が続き、仏の教えが何の役にもたたなくなるため、念仏を唱えるしかないと考えました。
このころは富める者はますます富み栄え、中流・下流貴族と庶民は貧しくなってゆきました。天皇の地位さえ安泰ではなく、人々は現世に嫌気とあきらめしかありませんでした。同じ思想を持っていた頼通も、大日如来を祀っていた平等院に阿弥陀像を安置したお堂を作ります。それが鳳凰堂でした。
この不安から逃れるために発展したのが厭世思想(えんせいしそう)。厭世というのは世の中を見捨てる、世の中から逃げるという考え方のことです。ネガティブな表現をすれば現実逃避。ポジティブにとらえれば、そういう考え方が広まったことで、現代にも残る歴史的建造物が生れたと考えてもいいでしょう。
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