平等院鳳凰堂は教科書で写真をよく見かけることから、京都に行ったら必ず拝観したい人気の場所。デザインがとても美しく、その優美な姿は1万円札で見ることもできる。数々の京都の有名スポットであるにもかかわらず、実はどんな施設なのか知らない人も多いでしょう。

そこで平等院鳳凰堂とはどんな場所なのか、建造される経緯や背景と共に日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり気になることがあると調べている。京都の旅先で出会った平等院鳳凰堂の美しさの感動は今でも鮮明に覚えている。そこで関連する歴史を調べてみた。

1.平等院鳳凰堂とはどんな寺院?

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Sergeisemenov - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

平等院にはいろいろな建物がありますが、なかでも有名なのが鳳凰堂。10円硬貨や1万円札のデザイン図にも使われています。鳳凰堂と呼ばれるようになったのは後世のこと。それまでは平等院阿弥陀堂と呼ばれていました。1680年に発見された金銅版に「鳳凰堂」と記されていたことから、江戸時代初期に鳳凰堂の名が生れたと思われます。鳳凰堂は1994年にユネスコ世界遺産に登録。「京都文化財」のひとつにもなっています。

平等院鳳凰堂のルーツは源融の別荘

宇治は平安上流貴族の別荘地。超セレブが楽しむ郊外でした。平等院のあたりには、光源氏のモデルとも噂されている源融(みなもとのとおる)の別荘がありました。その持ち主は陽成天皇、宇多天皇、朱雀天皇、藤原道長と替わってゆきます。道長の所有になったときには「宇治殿」と呼ばれ、死後は息子頼通が所有しました。

頼通は宇治殿を寺院に改めることを決意。1052年に平等院としました。作り替えるといっても、平安時代は貴族の邸宅そのものが寺院の作り。自分の邸宅をそのまま寺院にすることは珍しくありませんでした。平等院が完成した翌年に阿弥陀堂を建立。阿弥陀如来が本尊で、安置されている阿弥陀如来坐像は国宝に指定されています。

鳳凰堂が創建された時代

釈迦が入滅してから2000年後に仏の教えが忘れられ、仏法が廃れてしまうという末法思想が流行。平等院が創建されたのは、まさにその2000年目でした。平安時代も末期に入るころ、世のなかは貧困と治安の乱れ、たびたびの疫病で騒然としていました。貴族たちは恐れおののき、現世の救済ではなく死後の救済を願うようになるのです。

末法思想はしだいに仏教とは関係なく、世の終末に入ったという終末思想に変化。頼通は父の築いた栄華が翳り始めていることを感じます。この不安から逃れるために、別荘を寺院に替えて現生の極楽浄土を作ろうと決意。鳳凰堂と呼ばれる阿弥陀堂はこの世の極楽浄土だったのです。

\次のページで「2.平等院鳳凰堂の歴史」を解説!/

2.平等院鳳凰堂の歴史

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Twilight2640 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

鳳凰堂が建てられている中島のかたちは当初と現代では大きく異なります。いちばん大きな違いは鳳凰堂の屋根。創建された当時は「本瓦」ではなく、木を瓦に似せて作った「木瓦」(こがわら)でした。およそ半世紀後に総瓦葺きになったと言われています。

戦乱のなかを生き抜いた鳳凰堂

私たちが見ている建造物で、平安時代そのままのかたちで現存しているものはありません。幾多の戦乱ですべて焼け落ちてしまったからです。残ったとしても柱一本。建物、仏像、壁画、庭園まで含めて残存するのは平等院が唯一です。とはいえ、あくまでも残存であり、当初と全く同じかたちではありません。

宇治は京の都に近かったことから、多くの戦乱に巻き込まれました。平安末期には宇治橋の合戦、宇治川の戦い、そして源平合戦です。鎌倉初期は北条氏の本陣が置かれました。南北朝時代になると足利尊氏と楠正成の合戦で鳳凰堂以外すべて平等院は焼失しました。

そののち平等院は荒廃。江戸末期まで荒廃は進みます。明治時代に修理されるものの、神仏分離令により鎮守社は分離されました。明治政府は異国の宗教として仏教を排斥。寺院をすべて破壊しようとしましたが、京都の由緒ある寺院にはさすがに手を出せませんでした。天皇家ゆかりの寺が多かったため、周囲に住んでいる人々が守り通しました。

現代においても波乱万丈な平等院鳳凰堂

1990年以降はコンピューターグラフィックスを駆使して室内装飾の再現が進められました。宝物館に代わり平等院ミュージアム鳳翔館が完成。2001年にオープンしました。ところが鳳凰堂の後ろに15階建ての高層マンションが立ち、マンションが鳳凰堂の背景になってしまいます。これがきっかけとなり「宇治市景観条例」が制定されました。

さらに鳳凰堂の景観を守るために境内に楠が植えられました。2018年には世界初の金色光のLED灯光器を使って、鳳凰堂の室外室内の美しさが鑑賞できるように改修されました。そして現在、平等院ミュージアム鳳翔館ではたくさんのオリジナルグッズが揃えられ、オンラインでも購入できます。

3.平等院鳳凰堂にはどんな思想的背景がある?

image by PIXTA / 58910443

平等院は、当時の人々が信じていた末法元年から仏法が廃れ、不安な世の中が訪れるという思想抜きには語れません。繰り返しになりますが、平等院は当時の権力者である藤原頼通が、西方極楽浄土と阿弥陀如来さまを深く想うために創建した寺院。飛鳥、奈良、平安時代初期の仏教は、この世での魂の救済を求めるもの。しかし平安末期になると、死後の極楽往生を願うものに変わってゆきました。

末法思想の変化のなかで生まれた平等院鳳凰堂

末法思想はもともと仏教の教えに関係するもの。しかしいつのまにか世の中が終末を迎えるという終末思想に変化します。天変地異や戦が続き、仏の教えが何の役にもたたなくなるため、念仏を唱えるしかないと考えました。

このころは富める者はますます富み栄え、中流・下流貴族と庶民は貧しくなってゆきました。天皇の地位さえ安泰ではなく、人々は現世に嫌気とあきらめしかありませんでした。同じ思想を持っていた頼通も、大日如来を祀っていた平等院に阿弥陀像を安置したお堂を作ります。それが鳳凰堂でした。

この不安から逃れるために発展したのが厭世思想(えんせいしそう)。厭世というのは世の中を見捨てる、世の中から逃げるという考え方のことです。ネガティブな表現をすれば現実逃避。ポジティブにとらえれば、そういう考え方が広まったことで、現代にも残る歴史的建造物が生れたと考えてもいいでしょう。

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想像上の極楽浄土を再現した平等院鳳凰堂

藤原道長が手にした富と権力はたとえようもないもの。ほぼ日本中の荘園がこの一族の物となりました。そのため、その子である頼通はいくらでも財を注ぐことが出来ました。そこで、建物にも庭園にも贅沢の限りをつくします。なかでも鳳凰堂はその最たるもの。金・銀・螺鈿(らでん)、漆塗り、彩色画、凝った装飾が施された天井、雲に乗り楽器を奏でる天人の彫像など、この世の物とは思えな美しい建築物となりました。

4.鳳凰堂建立にかかわった人々の苦労

image by PIXTA / 48993029

絢爛豪華な平等院鳳凰堂の影にあるのが労働力を提供した名もない人々。広大な寝殿も寺院も浄土式庭園も、汗を流して作り上げたのは貴族ではなく、無償で働かされていた人々でした。

「栄花物語」に記録された寺院建築現場の様子

平等院を創建した藤原頼通、その父である道長の時代は、他の伝統ある氏族は壊滅状態でした。「この世をば我が世とぞ思ふう望月の欠けたることもなしと思へば」という道長の歌は大げさなものではありませんでした。道長は自分のための寺院である無量寿院を建立。このときの様子は「栄華物語」に記されています。

それによると、毎日数百人の人夫が集められ、全国から瓦や材木が寄付されました。さらに仏師100人以上が招集。300人が材木を引き上げ、50人がお堂の床を磨き、500人が池を掘り、600人が山を築きました。200人以上で引っ張るような石は、貴族たちが準備することが命じられます。材料が足りなくなると、民衆の家が壊され屋根板まではぎとられました。

盗賊が横行する時代に生まれた平等院鳳凰堂

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あばさー - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

平等院鳳凰堂が建設されたころ都には盗賊が横行。貴族の邸宅が放火され、殺されることもありました。百姓が集団で京に入り、朝廷に強訴したり、天皇が取り囲まれて直訴されたりしました。護衛兵士はいたものの、天皇や貴族たちを守ろうという意識はなし。それどころか護衛兵が盗賊になるというありさまでした。頼通といえど安心してはいられない世の中だったのです。

このころ人々のあいだでブームとなったのが農作業の歌から生まれた田楽や猿楽。それを演じる芸人の集団が生れました。都を練り歩く田楽一行が貴族の館に火をつけることもありました。貴族も庶民も安心して都を歩ける状態ではないなか、庶民はひたすら念仏を唱え貴族たちはより豪華な寺院の建設に励んだのです。

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5.平等院鳳凰堂の名前と姿が意味するもの

平等院鳳凰堂と聞くと、荘厳な名前を持った美しい姿をした寺院であることを知っている人は多いでしょう。しかし、その意味と歴史を知っている人は少ないと思います。むかし、言葉は言霊(ことだま)と言われ、言葉そのものに魂があると思われていました。「平等」「鳳凰」という言葉には深い仏教的な意味が含まれています。

中国の神話に登場するのが「鳳凰」

平等というのはもともと仏教用語のひとつ。「仏の救いはすべての人に同じ」という意味がありました。また「最期の救いは皆に同じように約束される」という意味でもあります。仏の平等をあらわすのは光。つまり平等院は光のお寺ということ。「生きて行くために与えられた機会の平等」という意味が込められました。

鳳凰とは中国の神話に由来する伝説の鳥のこと。全体はクジャクに似ていて、頭はニワトリ、あごはツバメ、首はへビ、背はカメ、尾は魚のようなかたちです。色は黒、白、赤、青、黄の5色。聖天子(優れた皇帝)が現われたときだけ姿を見せる鳥とされました。36種類の羽をもっており、鳳凰が飛ぶと雷も嵐も静まり、河川もあふれず、草木もゆれないと言われています。

変わりゆく平等院鳳凰堂のかたち

鳳凰堂の屋根の中央に立っているのが鳳凰。後世に鳳凰堂と呼ばれるようになったのも、建物全体が鳳凰が羽を広げた形のようだと思われたからとも言われます。細く優美な柱、美しい屋根の曲線などのすべてが藤原貴族の趣味。両側の壁には供養仏が舞っており、まさに極楽浄土を思わせるつくりです。

当初の平等院は現在よりもずっと大きく、東は宇治川まであったと推測。軒先、柱、扉、高欄などはすべて赤く塗られ、壁は白く、ところどころが金色というデザインでした。しかし、幾多の戦乱により鳳凰堂以外はすべて消滅。庭は今より広大な浄土式庭園で、境内に築山、泉水が作られていました。造園技術を集結させた最高の例が平等院の庭といわれるほどのすばらしさです。

平等院鳳凰堂は世の中の不安を反映させた寺院

平等院鳳凰堂は京都の観光スポットのひとつ。美しい建物や庭にうっとりした経験がある人も多いでしょう。しかし、この寺院が作られたのは世の中が不安定で不安が渦巻いていたから。そこに想像上の極楽浄土を作ることしか救いの道がなかったのです。そういう意味では、平等院鳳凰堂を通じて平安時代末期の雰囲気や人々の心が分かるというのも事実。日本史や日本文化史を学ぶときに、建物が作られた背景を学ぶことで、当時の人々の心をリアルに感じ取れるかもしれません。

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平安時代日本史

3分で簡単「平等院鳳凰堂」平安時代の末法思想を反映させた歴史的建築物について元大学教員が5分でわかりやすく解説

平等院鳳凰堂は教科書で写真をよく見かけることから、京都に行ったら必ず拝観したい人気の場所。デザインがとても美しく、その優美な姿は1万円札で見ることもできる。数々の京都の有名スポットであるにもかかわらず、実はどんな施設なのか知らない人も多いでしょう。

そこで平等院鳳凰堂とはどんな場所なのか、建造される経緯や背景と共に日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり気になることがあると調べている。京都の旅先で出会った平等院鳳凰堂の美しさの感動は今でも鮮明に覚えている。そこで関連する歴史を調べてみた。

1.平等院鳳凰堂とはどんな寺院?

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Sergeisemenov投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

平等院にはいろいろな建物がありますが、なかでも有名なのが鳳凰堂。10円硬貨や1万円札のデザイン図にも使われています。鳳凰堂と呼ばれるようになったのは後世のこと。それまでは平等院阿弥陀堂と呼ばれていました。1680年に発見された金銅版に「鳳凰堂」と記されていたことから、江戸時代初期に鳳凰堂の名が生れたと思われます。鳳凰堂は1994年にユネスコ世界遺産に登録。「京都文化財」のひとつにもなっています。

平等院鳳凰堂のルーツは源融の別荘

宇治は平安上流貴族の別荘地。超セレブが楽しむ郊外でした。平等院のあたりには、光源氏のモデルとも噂されている源融(みなもとのとおる)の別荘がありました。その持ち主は陽成天皇、宇多天皇、朱雀天皇、藤原道長と替わってゆきます。道長の所有になったときには「宇治殿」と呼ばれ、死後は息子頼通が所有しました。

頼通は宇治殿を寺院に改めることを決意。1052年に平等院としました。作り替えるといっても、平安時代は貴族の邸宅そのものが寺院の作り。自分の邸宅をそのまま寺院にすることは珍しくありませんでした。平等院が完成した翌年に阿弥陀堂を建立。阿弥陀如来が本尊で、安置されている阿弥陀如来坐像は国宝に指定されています。

鳳凰堂が創建された時代

釈迦が入滅してから2000年後に仏の教えが忘れられ、仏法が廃れてしまうという末法思想が流行。平等院が創建されたのは、まさにその2000年目でした。平安時代も末期に入るころ、世のなかは貧困と治安の乱れ、たびたびの疫病で騒然としていました。貴族たちは恐れおののき、現世の救済ではなく死後の救済を願うようになるのです。

末法思想はしだいに仏教とは関係なく、世の終末に入ったという終末思想に変化。頼通は父の築いた栄華が翳り始めていることを感じます。この不安から逃れるために、別荘を寺院に替えて現生の極楽浄土を作ろうと決意。鳳凰堂と呼ばれる阿弥陀堂はこの世の極楽浄土だったのです。

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