人類が生きる上で発生するのがその地域ごとの文化や文明です。なかでも「メソポタミア文明」は人類最古の文明と言われているんです。今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にそんな「メソポタミア文明」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。前回から引き続き古代文明のひとつ「メソポタミア文明」をさらに詳しくまとめた。

1.文明を生み出す大河

Tigris River At Diyarbakir.JPG
Bjørn Christian Tørrissen - Own work by uploader, http://bjornfree.com/galleries.html, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

チグリス川とユーフラテス川

紀元前3000年ごろ、人類最古の文明とされる「メソポタミア文明」が誕生しました。その場所は、現在のイラクのあたり。「メソポタミア」とはギリシャ語で「川の間地方」という意味で、その通り、チグリス川(ティグリス川)とユーフラテス川周辺で発展しました。

チグリス川とユーフラテス川は、現在のトルコ東部の山岳地帯から南東のペルシャ湾へかけて流れ、古代では別々の河口を持っていたそうです。また、チグリス川は全長約1900キロ、ユーフラテス川全長約2800キロで西アジア最長の川となります。現代のイラクの首都バグダッドは両川の間が狭まったところにあるんですよ。

二本の川の周辺で生まれた複数の文明を総称して「メソポタミア文明」といいます。細かく地域をわけると、北部をアッシリア、南部をバビロニアといい、さらにバビロニア北部がアッカド、南部がシュメールです。メソポタミア文明は下流のシュメールから上流へ向かって文明が広がったとされています。

川の恵み「肥沃な三日月地帯」

image by PIXTA / 64955234

しかし、なぜメソポタミア文明はチグリス川とユーフラテス川の周囲で発展したのでしょうか?

その答えは、ふたつの川が氾濫(洪水)を起こした際に上流から運ばれてくる土にありました。氾濫によって川が増水すると、上流から運ばれてきた土が沖積平野をつくります。沖積平野とは、そのまま河川によって運ばれた土や砂によってできる平野のこと。チグリス川とユーフラテス川の上流から運ばれてきた土には植物が育つのに十分な栄養素が含まれていました。つまり、その地では作物がよく実ったのです。

こうしてメソポタミアにできたのが「肥沃な三日月地帯」でした。「肥沃な三日月地帯」は、シリア、パレスチナにかけて三日月を結ぶ三日月の形をした一帯です。さらに都合の良いことに、このあたりは気候が良くて、野生のムギ類が自生していました。そして、その野生のムギを食べる野生のヤギなどの草食動物が多く集まってきたのです。

人々は、ムギを自分たちで栽培する「農業」、そして、集まってきたヤギら草食動物を「牧畜」するようになります。これが人類初の農業と牧畜でした。

そこからメソポタミアの住民たちの知恵や技術は発展し、川から水を引く「灌漑農業」がはじまります。さらに高度な農具器具の発明などで、この土地では現代と見劣りしないくらいの収穫を得られるようになったのです。

農業と牧畜の発祥地としての証拠は、紀元前6000年代のジャルモ遺跡からその痕跡が発見されています。灌漑農業については紀元前5000年代初めとみられ、そのあたりからメソポタミア南部に人々の定住が進んで都市ができはじめたと考えられました。

オリエント世界の中心地

実りの多い土地には自然と人が集まり、さらに人口が増えてくものですよね。しかし、それだけではありません。「肥沃な三日月地帯」に加え、その北は山岳地帯、南は砂漠地帯に挟まれていたために、より人が集まりやすかったのでした。こうして、チグリス川とユーフラテス川の周囲に人々が集まり、都市を形成。メソポタミア文明が誕生したのです。

しかし、現代での「肥沃な三日月地帯」は、イスラエルとパレスチナの紛争やシリア内戦、イラクとイランの戦争など、とても根深い中東問題を抱えた土地になってしまいました。

\次のページで「2.シュメール人の王国」を解説!/

2.シュメール人の王国

image by PIXTA / 61725526

メソポタミア文明のはじまり

紀元前3000年代はじめごろ、ユーフラテス川の下流にシュメール人の都市文明が成立しました。都市の名前は「ウルク」といい、現在のイラクのサマーワのあたりです。

このシュメール初期王朝では、ウルクのほかにウルやニップルといった20もの都市国家が誕生しました。都市同士で争いが起こることも少なくなく、身を守るために都市は環濠と日干しレンガで作られた高い城壁に囲われます。そして、都市の中心地には、都市は階段型ピラミッドのジッグラト(聖塔、神殿)を中心としていました。ジッグラトには、メソポタミア神話の神々がまつられています。

人類最古の物語『ギルガメッシュ叙事詩』

現在、人類史のなかで最も古い物語で、メソポタミア文明を代表する文学とされる『ギルガメッシュ叙事詩』は、この時代のシュメール人が残した英雄叙事詩です。

『ギルガメッシュ叙事詩』は、当時の記録媒体として使われていた粘土板に楔形文字で記され、のちには周辺の諸民族の言葉に翻訳されました。その物語の主人公はウルク第一王朝時代の伝説的な王様「ギルガメッシュ」。まったくの架空の人物というわけではなく、ギルガメッシュ王は実在した可能性が高いとされています。

『ギルガメッシュ叙事詩』が発見されたのは、のちにメソポタミアに誕生するアッシリア帝国の首都ニネヴェにあった人類最古の図書館の遺跡です。発掘された粘土板の解読が進み、そこから『ギルガメッシュ叙事詩』とその内容が明らかになったのでした。

『ギルガメッシュ叙事詩』にはギルガメッシュ王の戦いや冒険などが記される一方、『旧約聖書』の「ノアの箱舟(大洪水)」の原型となる話があり、『旧約聖書』が人類最古の本だと信じていたキリスト教世界に大きな衝撃が走ります。

メソポタミア生まれの知恵

Babylonian numerals.jpg
パブリック・ドメイン, リンク

メソポタミア文明で生まれたのは農業や牧畜だけではありません。紀元前3000年ごろのメソポタミアで数学が発達し、古バビロニア時代(紀元前2004年から紀元前1595年)にはバビロニアを中心に「バビロニア数学」が発達します。

バビロニア数学では、シュメール時代から引き継いだ「六十進法」を使った位取り記数法、分数、小数の概念、逆数、平方、立法、乗法などがあり、家畜の管理や土地面積の計算などに使われました。こんなに大昔から人間は数学を生活に取り入れて生きてきたのですね。

また、数学が発達することにより、星の運行の計算を行う天文学、そして占星術にも影響を与えます。現代の感覚で「占い」というと、朝のテレビで見るその日の運勢やおみくじあたりを思い浮かべませんか?しかし、この時代の占星術とは、当時の最先端の科学でした。

恒星や惑星の位置、星の運行を観測することで、メソポタミアでは「太陰暦」や「一週間七日」が誕生します。今がどんな時期で、何をすべきか、また何が起こるのか。それは農業や牧畜にとってとても大切なことですよね。もちろん、太陽や月、星に神秘の力を見て、地上はその影響を受けているという思想もあり、そこから王家や国家の吉凶を判断していました。

天文学と占星術を発達させたのはカルデア人(バビロニア人)だということから、このふたつを「カルデア人の知恵」ともいいます。

エジプト・インダス文明との交流

メソポタミアでは食料が豊富な一方、木材や石材と言った資源が乏しい土地でした。しかし、インダス文明で使われていたインダス式印章がメソポタミアの遺跡から出土したことから、メソポタミアの人々はインダス文明やエジプト文明など、他地域の文明と交易して資源を入手していたと考えられています。

\次のページで「3.メソポタミアの国々の勃興」を解説!/

3.メソポタミアの国々の勃興

古バビロニア王国とハンムラビ王

image by PIXTA / 11165278

紀元前1900年ごろメソポタミア南部で、アムル人の古バビロニア王国誕生します。この古バビロニア王国の六代目の王様が「ハンムラビ王」でした。ハンムラビ王が即位したのち、周辺の国々を倒してメソポタミア世界を統一します。

ハンムラビ王は軍隊や道路、灌漑農業に使う水路などを整備し国内を豊かにして古バビロニア王国を全盛期へ導く一方で、世界最古の法典「シュメール法典」を継承したかの有名な「ハンムラビ法典」を制定しました。「目には目を歯には歯を」という復讐法をどこかで聞いたことはありませんか?まさにその文言が書かれた法典です。復讐法の他にハンムラビ法典には厳しい身分の区別などが決められていました。

また、『旧約聖書』に出てくる「バベルの塔」の物語。世界中の人々が同じ言葉で話していた時代に、天に届く塔を建設しようとして神の怒りを買い、塔は神に崩され、そして人々の言葉はバラバラになってしまったという話ですね。この天に届く塔を作ろうとしたのがバビロニア王国で、塔はバビロンのジッグラトだと考えられています。

アッシリア帝国のオリエント世界統一

古バビロニア王国がメソポタミアを統一しましたが、紀元前2000年から紀元前1500年にかけて民族移動が起こりました。その結果、メソポタミアにヒッタイト人やカッシート人の王国が誕生します。彼らが侵入してきたことで、それまで青銅器が主に使われていたメソポタミアに鉄という新たな金属がもたらされたのでした。

そして、紀元前9世紀、現在のイラク北部、チグリス川とユーフラテス川の上流に興ったアッシリア人の「アッシリア」。アッシリア人は外部からもたらされた鉄器を用いて軍事力を強化しました。鉄で作られた武器は青銅の武器よりも強く、鉄製の戦車や騎兵は瞬く間に周辺諸国を征服していきます。そうして、アッシリアのアッシュールバニパル王が紀元前7世紀にエジプトを征服して最終的にアッシリアはオリエント世界の統一を成し遂げたのです。また、アッシリアは世界ではじめての「世界帝国」になったのでした。

人類初の図書館

image by PIXTA / 44112168

オリエント世界を統一したアッシュールバニパル王ですが、彼が成し遂げた事業でもうひとつ大きなものがあります。それは、アッシュールバニパル王がアッシリアの首都ニネヴェに「アッシュールバニパルの図書館(ニネヴェの王立図書館)」を築いたことでした。アッシュールバニパルの図書館は世界ではじめて体系的に組織された図書館で、各地からありとあらゆるジャンルの知識を集めた場所となります。

この時代に紙の本はなく、当時は粘土板に文字を刻んで記録していました。また、自分たちの言語のものだけでなく、他民族の言語の辞書や彼らの宗教についての粘土板も保存されていたのです。こうして集められたアッシュールバニパルの図書館の粘土板はなんと30000枚以上に及ぶとされます。

しかし、アッシュールバニパルの図書館は紀元前612年に破壊されて宮殿の壁の下に埋まってしまい、その後、1849年に発掘されるまで貴重な粘土板は放置されたままに。発見された粘土板の解読によって『ギルガメッシュ叙事詩』をはじめとする古代メソポタミアの文明が明かされたのでした。

メソポタミア文明の終幕

強大な軍事力を誇ったアッシリアが紀元前612年に滅亡し、エジプトは独立。メソポタミアは分裂して四つの王国ができました。それを再び統一したのがイランに誕生したアケメネス朝ペルシア帝国です。

アケメネス朝ペルシア帝国のダレイオス1世がさらに領土を広げ、オリエント二度目の統一を成し遂げ全盛期となります。

ペルシア帝国のもとで安定したメソポタミア。けれど、その繁栄は紀元前334年から始まるマケドニアのアレクサンドロス大王(イスカンダル)の東方遠征によって、アケメネス朝ペルシア帝国は紀元前330年に滅亡してしまいます。その後、メソポタミア文明はギリシャ文明と融合しヘレニズム世界の一部になり、終焉を迎えたのでした。

人類最古のメソポタミア文明のめざましい発展

紀元前3000年ごろに現在のイラク周辺にはじまった人類最古とされる「メソポタミア文明」。チグリス川とユーフラテス川周辺の「肥沃な三日月地帯」に人々が集まり、都市文明を築きます。今から5000年以上も古代の文化ですが、そのなかでは数学や天文学、六十進法などさまざまな発見がありました。一部は現代でも使われているものですね。メソポタミアはオリエント世界の中心となり、アッシリアやアケメネス朝ペルシア帝国はオリエントを統一した大帝国です。紀元前4世紀にアレクサンドロス大王の東方遠征によって滅ぼされるまでの長い間、メソポタミア文明はメソポタミアの地に生まれた様々な国に継承され続けたのでした。

" /> 3分で簡単「メソポタミア文明」世界最古?人類初の農業?歴史オタクがわかりやすく解説 – Study-Z
世界史中東の歴史

3分で簡単「メソポタミア文明」世界最古?人類初の農業?歴史オタクがわかりやすく解説

人類が生きる上で発生するのがその地域ごとの文化や文明です。なかでも「メソポタミア文明」は人類最古の文明と言われているんです。今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にそんな「メソポタミア文明」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。前回から引き続き古代文明のひとつ「メソポタミア文明」をさらに詳しくまとめた。

1.文明を生み出す大河

チグリス川とユーフラテス川

紀元前3000年ごろ、人類最古の文明とされる「メソポタミア文明」が誕生しました。その場所は、現在のイラクのあたり。「メソポタミア」とはギリシャ語で「川の間地方」という意味で、その通り、チグリス川(ティグリス川)とユーフラテス川周辺で発展しました。

チグリス川とユーフラテス川は、現在のトルコ東部の山岳地帯から南東のペルシャ湾へかけて流れ、古代では別々の河口を持っていたそうです。また、チグリス川は全長約1900キロ、ユーフラテス川全長約2800キロで西アジア最長の川となります。現代のイラクの首都バグダッドは両川の間が狭まったところにあるんですよ。

二本の川の周辺で生まれた複数の文明を総称して「メソポタミア文明」といいます。細かく地域をわけると、北部をアッシリア、南部をバビロニアといい、さらにバビロニア北部がアッカド、南部がシュメールです。メソポタミア文明は下流のシュメールから上流へ向かって文明が広がったとされています。

川の恵み「肥沃な三日月地帯」

image by PIXTA / 64955234

しかし、なぜメソポタミア文明はチグリス川とユーフラテス川の周囲で発展したのでしょうか?

その答えは、ふたつの川が氾濫(洪水)を起こした際に上流から運ばれてくる土にありました。氾濫によって川が増水すると、上流から運ばれてきた土が沖積平野をつくります。沖積平野とは、そのまま河川によって運ばれた土や砂によってできる平野のこと。チグリス川とユーフラテス川の上流から運ばれてきた土には植物が育つのに十分な栄養素が含まれていました。つまり、その地では作物がよく実ったのです。

こうしてメソポタミアにできたのが「肥沃な三日月地帯」でした。「肥沃な三日月地帯」は、シリア、パレスチナにかけて三日月を結ぶ三日月の形をした一帯です。さらに都合の良いことに、このあたりは気候が良くて、野生のムギ類が自生していました。そして、その野生のムギを食べる野生のヤギなどの草食動物が多く集まってきたのです。

人々は、ムギを自分たちで栽培する「農業」、そして、集まってきたヤギら草食動物を「牧畜」するようになります。これが人類初の農業と牧畜でした。

そこからメソポタミアの住民たちの知恵や技術は発展し、川から水を引く「灌漑農業」がはじまります。さらに高度な農具器具の発明などで、この土地では現代と見劣りしないくらいの収穫を得られるようになったのです。

農業と牧畜の発祥地としての証拠は、紀元前6000年代のジャルモ遺跡からその痕跡が発見されています。灌漑農業については紀元前5000年代初めとみられ、そのあたりからメソポタミア南部に人々の定住が進んで都市ができはじめたと考えられました。

オリエント世界の中心地

実りの多い土地には自然と人が集まり、さらに人口が増えてくものですよね。しかし、それだけではありません。「肥沃な三日月地帯」に加え、その北は山岳地帯、南は砂漠地帯に挟まれていたために、より人が集まりやすかったのでした。こうして、チグリス川とユーフラテス川の周囲に人々が集まり、都市を形成。メソポタミア文明が誕生したのです。

しかし、現代での「肥沃な三日月地帯」は、イスラエルとパレスチナの紛争やシリア内戦、イラクとイランの戦争など、とても根深い中東問題を抱えた土地になってしまいました。

\次のページで「2.シュメール人の王国」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: