ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。前回から引き続き古代文明のひとつ「メソポタミア文明」をさらに詳しくまとめた。
1.文明を生み出す大河
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チグリス川とユーフラテス川
紀元前3000年ごろ、人類最古の文明とされる「メソポタミア文明」が誕生しました。その場所は、現在のイラクのあたり。「メソポタミア」とはギリシャ語で「川の間地方」という意味で、その通り、チグリス川(ティグリス川)とユーフラテス川周辺で発展しました。
チグリス川とユーフラテス川は、現在のトルコ東部の山岳地帯から南東のペルシャ湾へかけて流れ、古代では別々の河口を持っていたそうです。また、チグリス川は全長約1900キロ、ユーフラテス川全長約2800キロで西アジア最長の川となります。現代のイラクの首都バグダッドは両川の間が狭まったところにあるんですよ。
二本の川の周辺で生まれた複数の文明を総称して「メソポタミア文明」といいます。細かく地域をわけると、北部をアッシリア、南部をバビロニアといい、さらにバビロニア北部がアッカド、南部がシュメールです。メソポタミア文明は下流のシュメールから上流へ向かって文明が広がったとされています。
川の恵み「肥沃な三日月地帯」
しかし、なぜメソポタミア文明はチグリス川とユーフラテス川の周囲で発展したのでしょうか?
その答えは、ふたつの川が氾濫(洪水)を起こした際に上流から運ばれてくる土にありました。氾濫によって川が増水すると、上流から運ばれてきた土が沖積平野をつくります。沖積平野とは、そのまま河川によって運ばれた土や砂によってできる平野のこと。チグリス川とユーフラテス川の上流から運ばれてきた土には植物が育つのに十分な栄養素が含まれていました。つまり、その地では作物がよく実ったのです。
こうしてメソポタミアにできたのが「肥沃な三日月地帯」でした。「肥沃な三日月地帯」は、シリア、パレスチナにかけて三日月を結ぶ三日月の形をした一帯です。さらに都合の良いことに、このあたりは気候が良くて、野生のムギ類が自生していました。そして、その野生のムギを食べる野生のヤギなどの草食動物が多く集まってきたのです。
人々は、ムギを自分たちで栽培する「農業」、そして、集まってきたヤギら草食動物を「牧畜」するようになります。これが人類初の農業と牧畜でした。
そこからメソポタミアの住民たちの知恵や技術は発展し、川から水を引く「灌漑農業」がはじまります。さらに高度な農具器具の発明などで、この土地では現代と見劣りしないくらいの収穫を得られるようになったのです。
農業と牧畜の発祥地としての証拠は、紀元前6000年代のジャルモ遺跡からその痕跡が発見されています。灌漑農業については紀元前5000年代初めとみられ、そのあたりからメソポタミア南部に人々の定住が進んで都市ができはじめたと考えられました。
オリエント世界の中心地
実りの多い土地には自然と人が集まり、さらに人口が増えてくものですよね。しかし、それだけではありません。「肥沃な三日月地帯」に加え、その北は山岳地帯、南は砂漠地帯に挟まれていたために、より人が集まりやすかったのでした。こうして、チグリス川とユーフラテス川の周囲に人々が集まり、都市を形成。メソポタミア文明が誕生したのです。
しかし、現代での「肥沃な三日月地帯」は、イスラエルとパレスチナの紛争やシリア内戦、イラクとイランの戦争など、とても根深い中東問題を抱えた土地になってしまいました。
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