エジプトと言えば、砂漠とピラミッドなんかの遺跡の映像が一番最初に浮かぶでしょう。ところで、そのピラミッドはいつ、なんのために造られたんでしょうな?今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に人類最古の文明の発祥地のひとつ「エジプト文明」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。この記事では前回から引き続き古代文明のひとつ「エジプト文明」をさらに詳しくまとめた。

1.エジプトはナイルのたまもの

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ナイル川が運ぶ恵み

古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの『歴史』に「エジプトはナイルのたまもの」という言葉があります。これは、エジプトがナイル川の恵みによって育まれた、という意味です。そして、その通り、ナイル川がなくてはエジプト文明は成立しなかったでしょう。

ナイル川はヴィクトリア湖から地中海へ向けて流れる全長6690キロに及ぶ大河で、春になると川が増水して上流から栄養分を多く含んだ肥沃な土壌が運ばれてきます。このナイル川の恩恵を受けた土地はケメト(黒い大地)と呼ばれました。

砂漠の広がるエジプトでは、このナイルの氾濫原にのみ人が住むことができたのです。人々はナイル川を利用した灌漑農業を発展させ、メソポタミア文明と並ぶ人類最初期の農耕が行いました。また、ナイル川に舟を浮かべて素早く移動し、川に沿ってできた他地域と交流を盛んに行っています。

ナイル川が人々にもたらした知恵

けれど、いくらナイル川が良い土壌を運んでくれると言っても、そのためには川の氾濫はさけられません。川の近くの家や人が流され危険だってあります。そこで、エジプトの人々は川の氾濫を予測するために天文観測を行いました。そうして「太陽暦」が作られたのです。さらに、氾濫後に農地を配分するため測量術、幾何学、天文学が発達しました。

このようにしてエジプトは発展していき、ナイル川流域に「ノモス」という小国家が形成されていったのです。

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2.エジプト文明を治めるファラオ

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エジプト統一王朝の誕生

ナイル川の上流(南部)と下流(北部)でそれぞれ違う文化が発展していき、当時は合計42ものノモスがありました。その小さな国家がひとつに統一されたのが、紀元前3150年ごろのこと。エジプト北部のナイル川流域に最初のエジプト統一王朝成立しました。実は地域の統一王朝ができたのは、メソポタミア文明よりもエジプト文明の方が先なんです。

こうして始まったエジプト第1王朝は、最高神官と最高軍事司令官を兼任する強力な支配者「ファラオ」によって統治されました。エジプトでは今後、紀元前1世紀までに31の王朝が交代して統治していくことになります。31の王朝は、第1・第2王朝の初期王朝時代、第3王朝から第6王朝の古王国、第11王朝から第12王朝の中王国、第18王朝の新王国の三期と、それぞれの中間期、紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の支配で終わる末期王朝、そしてプトレマイオス朝にわけられました。

エジプト文明最初の繁栄期・古王国時代

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今やエジプトの観光名所のひとつになっているピラミッド。ピラミッドの造営が始まったのが古王国時代です。ピラミッドのなかでも最古といわれるのは、古王国時代エジプト第3王朝のジョゼル王のものでした。ジョゼル王以降、ピラミッドが王の墓として建設されるようになったのです。

さらに、世界最大のギザの大ピラミッド建設も古王国時代でした。ギザの大ピラミッドはクフ王の王墓であり、底辺の一辺が230メートル、高さが146.5メートルの大規模なピラミッドです。その隣にはカフラー王、ギザの大スフィンクス、メンカウラー王のピラミッド、が建設されます。三つのピラミッドを合わせて「三大ピラミッド」と呼びました。

しかし、そんなピラミッドの意味合いが変化したのが第5王朝時代。ピラミッドのなかには玄室(棺を安置する場所)を持たないものもあり、これはファラオの権力がいかに強力かを示した、と考えられています。また、ピラミッドの材料も巨大な石ではなく、日干しレンガへ変わっていったのです。

古王国時代は、ファラオの墓地としてピラミッドを築いたほか、ヒエログリフ(神聖文字)の発達や金属加工技術が進歩しました。

崩壊から再統一、中王国時代へ

第6王朝が崩壊し、古王国時代が幕を閉じます。その後に訪れたのは最初の中間期でした。中間期では第7、第8王朝が短命に終わり、エジプト各地の有力な州侯たちによる内乱が続きます。その後の紀元前2060年になってようやく第11王朝がエジプトを再統一して中王国時代が始まるのでした。

中王国時代になり、ピラミッドの造営が再開するのですが、残念ながら、このころになると古王国時代のような大規模なピラミッドは造られません。ファラオはなんとか州侯を抑えて権力を拡大していきますが、紀元前1782年第12王朝が崩壊して中王国時代が終わりを迎えます。エジプトは二回目の中間期に入り、王朝の統治力が衰えた結果、動乱の時代を迎えたのです。

3.エジプトの最盛期・新王国時代

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エジプトの再統一と改革

エジプト第17王朝のイアフメス1世がエジプトを再統一し、第2中間期の動乱を治めます。さらにイアフメス1世は北のパレスチナ、シリア方面へ積極的に進出を始めました。そして、先王の息子・アメンホテプ1世が官僚制度の整備、軍事制度の改革。その次代のトトメス1世が「王家の谷」をつくります。

「王家の谷」は、テーベのナイル西岸側に位置する新王国時代の王たちの陵墓です。当時、王墓が盗掘にあっていたことから、トトメス1世は自分の墓を隠そうと建設しました。以降、新王国時代のファラオのほとんどが王家の谷へ埋葬されることになります。

トトメス1世の孫にあたるトトメス3世は周辺諸国に遠征し、エジプト最大の帝国を築きました。この功績からトトメス3世は「エジプトのナポレオン」と呼ばれています。

王家の呪いは本当にあったのか?

1920年代に王家の墓「ツタンカーメン」の墓を発見した際に、ツタンカーメンのミイラを墓から取り出した関係者数人が次々と急死した、というホラーなお話をご存知でしょうか。

これは「王家の呪い」といって、王家の墓を発掘(盗掘)するものにファラオの呪いがかかる、と一時期騒がれたものです。しかし、実際に亡くなったのは発掘の資金提供者のカーナヴォン卿ひとりでした。その死の原因も呪いではなく熱病と肺炎の併発によるものとされています。偶然とはいえ、発掘直後に人が亡くなったことから、話に尾ひれがついた「王家の呪い」なんてうわさが広がってしまったんですね。

古代エジプト最大の王「ラムセス2世」

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紀元前1279年ラムセス2世(オジマンディアス)が即位しました。ラムセス2世は「古代エジプト最大の王」と呼ばれるファラオで、新王国時代に最盛期をもたらします。在位は歴代ファラオのなかでも最長の70年。

70年の間にラムセス2世はカルナック神殿にアブ・シンベル神殿、ラムセウム、オベリスク(記念碑の一種)など多くの巨大建築を残しました。なかでも現在世界遺産に登録されているナイル川上流のヌビア地方にあったアブシンベル神殿には高さ20メートルにもなる巨象が4体もあり、アスワン・ハイダムの建設時にはユネスコの呼びかけによって崖ごと移設される大事業を行ってまで守られたんですよ。

また、ラメセス2世はシリア方面に進軍してヒッタイト帝国と戦って領土拡大を目指します。ヒッタイトとの間に起こったカデシュの戦いに勝利し、エジプトとヒッタイトの間に平和条約を結びました。これが世界初の国家間で締結された平和条約です。

栄華を築いた新王国時代の終わり

イアフメス1世のエジプト再統一にはじまり、トトメス3世の大遠征、ラムセス2世の栄光と続いたエジプトの新王国時代。しかし、そんな栄光の時代も第20王朝ラムセス3世の御代が、エジプト最後の繁栄の時期になります。

最後の偉大なファラオと呼ばれたラムセス3世が崩御すると、エジプトは徐々にその勢力を落としていきました。そうして、第20王朝が滅びると三度目の中間期が訪れます。この時にエジプトは南北に分裂、さらにメソポタミアに興ったアッシリア人のアッシリア帝国によって征服されてしまうのでした。

4.エジプト文明の終焉

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エジプト末期王朝の興亡

アッシリア帝国のアッシュールバニパル王は代理人を王として間接的にエジプトの統治を行っていました。しかし、アッシュールバニパル王の崩御後にアッシリア帝国が急激に弱まっていった際にエジプトは独立。他にアッシリアから独立した新バビロニアやリディア、メディアなどと競争しながら力をつけていきました。

けれど、その競争の最中に興ったアケメネス朝ペルシア帝国がメソポタミアを統一。さらにエジプトまでも征服してしまったのです。エジプトは121年の間、ペルシア帝国の支配下に置かれました。紀元前404年になんとかペルシャ帝国から独立を果たすものの、その後は征服と独立を繰り返す不安定な状況に陥ってしまったのです。

古代エジプト最後のプトレマイオス朝誕生

そんな不安定な情勢を打ち破ったのは、エジプト自身……ではなく、マケドニアのアレクサンドロス大王(イスカンダル)でした。紀元前332年のアレクサンドロス大王の東方遠征によりペルシャ帝国が滅亡し、さらにエジプトも征服してしまったのです。

しかし、紀元前305年、アレクサンドロス大王は後継者(ディアドコイ)を指名することなく亡くなってしまいました。そのためアレクサンドロス大王配下の将軍たちが後継者の座を巡って「ディアドコイ戦争」が始まります。その結果、将軍のひとりプトレマイオスがエジプトで勢力を伸ばし、「プトレマイオス1世」としてエジプトで「プトレマイオス朝」を開いたのです。エジプト文明はギリシャ文明と融合し、ヘレニズム文化へと継承されていったのでした。

エジプト文明とプトレマイオス朝の滅亡

紀元前1世紀ごろのこと。クレオパトラ7世は、地中海で非常に強力だったローマの政治家ユリウス・カエサルや、その部下だったマルクス・アントニウスと結んでエジプト内での政権を掌握しつつ、エジプトを守ろうとしました。

しかし、ローマから逃れてきたアントニウスを匿ったことでエジプトとローマの間に戦争が起こり、エジプトは敗戦。クレオパトラ7世は自らを毒蛇に噛ませて自害。彼女とカエサルの子供・カエサリオンも処刑されてしまい、プトレマイオス朝は滅亡してしまったのです。以降、エジプトはローマの属州となりエジプト文明は終焉を迎えたのでした。

ピラミッドだけじゃないエジプト文明

メソポタミアよりも早く統一王国をつくり、さらに巨大なピラミッドや神殿など建築にかけても現在へと残る大作を残したエジプト文明。たくさんの謎も発掘調査によって少しずつ解明されてきていますね。雄大なナイル川の恵みによって栄え、一時はメソポタミア方面にまで勢力を伸ばすほど強力な王朝も誕生しました。終盤はペルシャ帝国やアレクサンドロス大王によって征服されてしまうものの、文明自体はヘレニズム、そして新たなプトレマイオス朝へと引き継がれたのです。

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世界史中東の歴史

3分で簡単「エジプト文明」砂漠に現れ、ピラミッドを創造した文明を歴史オタクがわかりやすく解説

エジプトと言えば、砂漠とピラミッドなんかの遺跡の映像が一番最初に浮かぶでしょう。ところで、そのピラミッドはいつ、なんのために造られたんでしょうな?今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に人類最古の文明の発祥地のひとつ「エジプト文明」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。この記事では前回から引き続き古代文明のひとつ「エジプト文明」をさらに詳しくまとめた。

1.エジプトはナイルのたまもの

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ナイル川が運ぶ恵み

古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの『歴史』に「エジプトはナイルのたまもの」という言葉があります。これは、エジプトがナイル川の恵みによって育まれた、という意味です。そして、その通り、ナイル川がなくてはエジプト文明は成立しなかったでしょう。

ナイル川はヴィクトリア湖から地中海へ向けて流れる全長6690キロに及ぶ大河で、春になると川が増水して上流から栄養分を多く含んだ肥沃な土壌が運ばれてきます。このナイル川の恩恵を受けた土地はケメト(黒い大地)と呼ばれました。

砂漠の広がるエジプトでは、このナイルの氾濫原にのみ人が住むことができたのです。人々はナイル川を利用した灌漑農業を発展させ、メソポタミア文明と並ぶ人類最初期の農耕が行いました。また、ナイル川に舟を浮かべて素早く移動し、川に沿ってできた他地域と交流を盛んに行っています。

ナイル川が人々にもたらした知恵

けれど、いくらナイル川が良い土壌を運んでくれると言っても、そのためには川の氾濫はさけられません。川の近くの家や人が流され危険だってあります。そこで、エジプトの人々は川の氾濫を予測するために天文観測を行いました。そうして「太陽暦」が作られたのです。さらに、氾濫後に農地を配分するため測量術、幾何学、天文学が発達しました。

このようにしてエジプトは発展していき、ナイル川流域に「ノモス」という小国家が形成されていったのです。

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