方丈記は鴨長明により書かれた随筆文学。無常の文学と表現されることも多い古典のひとつです。日本史の教科書でもたびたび目にすることがあるでしょう。方丈記は徒然草や枕草子と並ぶ日本の古典の三大随筆。それぞれ異なる特徴を持っている。

知っているようで知らない方丈記。それじゃあ、方丈記はどのような作品なのか、鴨長明の生き方や思想を絡ませながら日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。日本の古典にも興味があり、気になることがあったらちょくちょく調べている。今回は無常の文学とも言われる鴨長明の方丈記について解説する。

1.方丈記とはどんな作品?

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方丈記の作者は鴨長明(かものちょうめい)。無常の文学といわれる作品です。無常というのは、世のなかのすべてのものは滅びて消えるという考え方のこと。漢字と仮名の混じった文体、古典的な詠嘆や対句をたくさん使った美しい文が、方丈記の特徴です。徒然草、枕草子と並ぶ日本三大随筆と呼ばれてきました。

方丈記は未曽有の大災害の時代に書かれた

都を焼きつくす大火災、経験したことのないような竜巻。平清盛による福原遷都により、京の都を捨て神戸の福原に新たな都がつくられました。その後に起こった大飢饉では、左京だけで42300人が餓死するという状況に。さらに巨大地震が発生、余震は3カ月も続きました。このときの地震は、のちの研究で南海トラフト巨大地震だった可能性が指摘されています。

貴族が衰退し、源平争乱で国中が騒然とし荒れ果てているときに起こったのが5つの災厄。その結果、人々のあいだに末法思想ブームが起こりました。末法思想と言うのは、お釈迦さまの入滅後、その教えが忘れられて消えてしまい、世に終末がくるという考え方。このような激動の時代を生きたのが鴨長明なのです。

方丈記は400字詰め原稿用紙20枚ほど

方丈記の分量は400字詰め原稿用紙20枚ほど。前半は都を襲った5つの大災害のことが中心となっています。大災害というのは、安元の大火(都を焼き尽くした大火事)、治承の辻風(都に襲来した竜巻)、福原遷都(平家の平清盛が京を捨てて今の神戸の福原に都を移したこと)、養和の大飢饉(左京だけで約42万人以上の死者が出たもの)、元暦の大地震(南海トラフト級の大地震)。これらの災厄について記しました。

後半は、自分が出家し、世を捨てて隠遁に入った経過、自分の住んだ方丈の庵の間取りとそこでの生活などが中心。人生論や環境論についても書かれています。方丈とは1丈四方(約3メートル四方)で、4畳半ぐらいの広さ。持ち物は阿弥陀像と普賢菩薩像の画、机、琴、琵琶だけ。たわらに山を守る番人の小屋があり、そこに住んでいた10歳の男の子と遊んだことも書かれています。

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2.鴨長明はどのような人生を歩んだ?

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鴨長明は名門神社の神官の子供という恵まれた生まれ。しかしながら、両親を亡くして孤児状態となって出世の道を妨げられました。挫折を重ねて出家しますが、源実朝に鎌倉まで面会に行き、自分を和歌の師匠に売り込むことも。そのため、完全に世を捨てているわけではありません。自分の売込みにも失敗、山の庵で執筆一筋に生きることを決意しました。

不遇な人生を歩んだ鴨長明

1155年に下鴨神社の神官の二男として生まれた長明。鴨神社は朝廷に関係している特別な神社であり、とても恵まれた環境でした。母を早くに亡くし、18歳のときに父とも死別します。当時は父親がいないことは出世競争では致命的。後ろ盾がないと親の地位を無事に引き継ぐことができなかったのです。神官になる争いで親族に敗れて、30歳で 妻子とも別れました。

長明はそれからずっと独身。琵琶と和歌が生きがいとなりました。かなりの腕前で皇族主催の歌会に参加したり、千載和歌集に一首採用されたりと才能を発揮します。47 歳で後鳥羽院に才能を認められ、宮中の和歌どころの寄人(よりうど・専門職人)に抜擢。後鳥羽院の厚意で神官に推薦されるものの親族に妨害されてしまいます。世のなかに嫌気がさした長明は出家してしまいました。

人生の後半は無常観ともに生きる

そんな長明の心に残ったのは挫折感と無常観。自分がなすべきことは書くことだけだと、あきらめの境地に達しました。出世に対する思いをスパっと断ち切った長明。次に、これまでに目の前で起こった数多くのの災害、荒れ果てた都、末法思想と無常観の広まり、明日を生きる術もない庶民たちの姿を書くことを決意します。

自分の心に浮かぶこと、自分の目の前で起こっていることを書き続けた末に、長明は「結局この世には心休まる所などどこにもないのだ」という人生観に達するようになりました。

3.方丈記にはどんな特徴がある?

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鴨長明が生きた時代には、戦乱の殺伐さや無常さと反比例するように、歌道がとても盛んになりました。歌の家が成立し、和歌の世界では競争が激しくなります。源俊恵に教えを受け、藤原定家のグループからも大きな影響を受けた長明。そして、いつしか和歌の世界から離れて、現代の1人キャンプのような生活を続けるなかで、独得な文体の随筆を書きあげました。

重い雰囲気がただよう随筆

方丈記はとても短い随筆。構成は7段にわけられ、それぞれがテーマ化されています。第一段に書かれているのは「無常とは何か」ということ。第二段では「五つの大きな災害の様子」についてが詳細に書かれています。第三段に書かれているのは「自然や環境と人間のかかわりかた」。そして第四段では「自分が出家して引きこもり生活に入った理由」が書かれました。

そして第五段は「小さな庵である方丈庵の間取り」について。第六段では長明の方丈庵での暮らしについて記されました。最後を締める第七段では人生についての長明の考えが記されました。これらを貫くのは暗い雰囲気。方丈記は「陰キャの随筆学」「ネクラな随筆学」であると言ってもいいでしょう。

\次のページで「和漢混交文であることが特徴」を解説!/

和漢混交文であることが特徴

方丈記の文体は明快で流麗。和語、漢語、仏教用語を織り交ぜ、和歌の詠嘆法や対句を数多く使っています。このような方法は平安貴族も使っていましたが、戦がなかった平安時代において、おもに女性の書いた文とは異なる新鮮さがありました。

あちこちに男好みの漢文がちりばめられながらも、雅(みやび)な平安文化の雰囲気が残っていることが特徴。長明の心のなかには、平家滅亡とともに消えた貴族文化に対するあこがれやなつかしさがありました。

4.時代の激変を生きぬくヒントを与える方丈記

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鴨長明が生きた時代は貴族が力を失い武家が台頭したころ。平氏が政権を取って福原に遷都したものの、源氏に倒されたころです。そのあいだに次々に襲ってきたのが災害。さらには武士による鎌倉幕府成立します。このような激変の時代を生きることを余儀なくされました。長明自身も挫折と敗北を繰り返したことで、時代をどう生き抜くかを思索して人生訓を書くようになったのです。

地震の記録としての方丈記

方丈記のなかで克明に記された地震の様子が東日本大震災の直後にスポットライトを浴びたことは記憶に新しいでしょう。原文では地震の怖さについて次のように生々しく書いています。

そのさま世のつねならず。山はくずれて河を埋み、海は傾きて陸をひたせり。土裂けて水湧き出して巌割れて谷にまろび入る

さらには地震のあとの人の心の変化を「人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり年経にし後は言葉にかけて言ひ出づる人だになし」。どんなに恐ろしい目に遭っても月日が経つと忘れられるものだと長明は述べました。

人生訓としての方丈記

鴨長明の暮らしぶりはコロナ禍における巣籠り生活と似ているもの。あるいは、キャンピング生活、ミニマムライフ生活と言ってもいいでしょう。宅配もウーバーイーツもない時代、自分で食材を確保する自給自足生活を実践しました。ある意味、鴨長明は現代人よりたくましいのかも知れません。

そのような日常から生まれた人生訓は「出世するほど貪欲になる」「財があれば心配になる」「貧しければ恨みっぽくなる」「ヤドカリは自分の身の丈に合った小さな貝を好む」など。どれも今の時代にぴったり当てはまるものばかり。この言葉を聞いてドキッとする人も多いでしょう。

5.方丈記にみる鴨長明が達した人生観

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ここでいちど原点に戻って無常思想についておさらいします。それを肌で感じるためにいちばんいいことは原文を読むこと。無常思想は原文でしか伝わらない雰囲気があるからです。「声に出して詠んで、何となく分かる、と感じるのが良い歌だ」というのは、当時の歌人である藤原定家の言葉。それでは、いっしょに方丈記の冒頭を原文で読んでみましょう。

\次のページで「人生は川の流れのようなもの」を解説!/

人生は川の流れのようなもの

次の文は方丈記の冒頭の文章であり、古典の教科書でも必ず出てくる有名な一文です。読んだことがある人も多いでしょう。

ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかた(水の泡)はかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖(棲家)と、またかくのごとし。

ここで書かれていることは、流れている川は止まることがない。しかも、上流に戻ることもできないということです。あちこちの淀みに浮かんでいる水のあぶくは、消えたりくっついたりして、その場に長くとどまることはできない。そのままの形で留まっているあぶくなんて見たこともない。世の中の人と人の住む家もそのようなものだと長明は言っています。

食えるものを食って、衣は肌を隠せればいい

地震がおこったあと長明は都会に住むことの愚かさに気付きました。豪華な邸宅が、いちどの揺れで瞬く間に壊滅したのを目の当たりにしたからです。さらに飢饉になると贅沢な食事など貴族ですらも手にできませんでした。そこで長明が気が付いたのは次のことでした。

衣は木の葉でも、フジバカマの葉っぱでもいい。肌を隠しさえすれば。木の実や草の葉で命をつなげばいい。山奥では人に出会うこともないから恥ずかしいこともない。

いくら贅沢な暮らしをしていても、未曽有の大災害のまえに人間の存在はちっぽけなもの。立派な服を着ていても食べるものがなければ意味がありません。肌が隠れれば葉っぱでもいいという長明の考え方は、豪華絢爛な貴族の世界から原点に回帰するものです。

長明の住んでいた庵のすぐそばに山の番印をしている人の小屋があり、そこに男の子が住んでいたことは先に触れました。長明と男の子はよくいっしょに遊んでいたのですが、その時のことを原文では次のように記しています。

かれは10歳、これは60。この齢(よわい)ことのほかなれど心をなぐさむること、これと同じ。あるいはつばなをぬき、岩梨を採り、ぬかごを盛り、せりを摘む。

これを訳してみると、あの子は10歳、わしは60歳。この年の差ってなんだと思うけど、いっしょに遊ぶと心がなぐさめられるのは、同じ年齢だからだ。あるときはツバナを抜いたり、岩梨をもいだり、ムカゴをざるに盛って食ったり、セリを摘んだりする楽しい遊び友だちだ。.

方丈記は現代にも通じる無常の文学

現代の世界も、未曽有の災害、経済の停滞、社会の変化など、さまざまな困難が襲い掛かります。学校や会社、家庭でうまくいかず、すべてが嫌になる人もいるでしょう。方丈記の作者である鴨長明は、そういう意味では特別なことは何も書いていません。当たり前のことを正直に書いたと言えます。方丈記はとても短い随筆のため読むのに苦労しません。機会があったらぜひ原文を読んでみることをおすすめします。

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平安時代日本史

激動の時代を生きた鴨長明の無常の文学「方丈記」を元大学教員が5分でわかりやすく解説

方丈記は鴨長明により書かれた随筆文学。無常の文学と表現されることも多い古典のひとつです。日本史の教科書でもたびたび目にすることがあるでしょう。方丈記は徒然草や枕草子と並ぶ日本の古典の三大随筆。それぞれ異なる特徴を持っている。

知っているようで知らない方丈記。それじゃあ、方丈記はどのような作品なのか、鴨長明の生き方や思想を絡ませながら日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。日本の古典にも興味があり、気になることがあったらちょくちょく調べている。今回は無常の文学とも言われる鴨長明の方丈記について解説する。

1.方丈記とはどんな作品?

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方丈記の作者は鴨長明(かものちょうめい)。無常の文学といわれる作品です。無常というのは、世のなかのすべてのものは滅びて消えるという考え方のこと。漢字と仮名の混じった文体、古典的な詠嘆や対句をたくさん使った美しい文が、方丈記の特徴です。徒然草、枕草子と並ぶ日本三大随筆と呼ばれてきました。

方丈記は未曽有の大災害の時代に書かれた

都を焼きつくす大火災、経験したことのないような竜巻。平清盛による福原遷都により、京の都を捨て神戸の福原に新たな都がつくられました。その後に起こった大飢饉では、左京だけで42300人が餓死するという状況に。さらに巨大地震が発生、余震は3カ月も続きました。このときの地震は、のちの研究で南海トラフト巨大地震だった可能性が指摘されています。

貴族が衰退し、源平争乱で国中が騒然とし荒れ果てているときに起こったのが5つの災厄。その結果、人々のあいだに末法思想ブームが起こりました。末法思想と言うのは、お釈迦さまの入滅後、その教えが忘れられて消えてしまい、世に終末がくるという考え方。このような激動の時代を生きたのが鴨長明なのです。

方丈記は400字詰め原稿用紙20枚ほど

方丈記の分量は400字詰め原稿用紙20枚ほど。前半は都を襲った5つの大災害のことが中心となっています。大災害というのは、安元の大火(都を焼き尽くした大火事)、治承の辻風(都に襲来した竜巻)、福原遷都(平家の平清盛が京を捨てて今の神戸の福原に都を移したこと)、養和の大飢饉(左京だけで約42万人以上の死者が出たもの)、元暦の大地震(南海トラフト級の大地震)。これらの災厄について記しました。

後半は、自分が出家し、世を捨てて隠遁に入った経過、自分の住んだ方丈の庵の間取りとそこでの生活などが中心。人生論や環境論についても書かれています。方丈とは1丈四方(約3メートル四方)で、4畳半ぐらいの広さ。持ち物は阿弥陀像と普賢菩薩像の画、机、琴、琵琶だけ。たわらに山を守る番人の小屋があり、そこに住んでいた10歳の男の子と遊んだことも書かれています。

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