我々人類に欠かせない「文明」は、大昔に世界中でホモサピエンス(現生人類)」たちが言語や道具を使い、独自の文化を作って継承してきた。ですが、そのはじまりはいつだか知っているか?なかでも世界四大文明と称される古代の文明は、人類史上で最初に起こったとされる。今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にそんな「古代文明」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は「古代文明」の中でも世界四大文明についてまとめた。

1.世界最古の「メソポタミア文明」

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ティグリス川とユーフラテス川流域のメソポタミア

今から約5000年ほど前の紀元前3000年ごろ。現在のトルコ東部の山岳地帯から南東のペルシャ湾へかけて流れるティグリス川とユーフラテス川の周辺に都市文明「メソポタミア文明」が誕生します。

北部がアッシリア、南がバビロニアと呼ばれ、さらにバビロニアの北をアッカド、南部をシュメールといいました。メソポタミア文明は最下流のシュメールから上流へ向かって広がっていったとされています。「メソポタミア文明」はこのようにティグリス川とユーフラテス川の周辺に広がっていった複数の都市文明を総称しました。

現在、メソポタミア文明は人類最古の文明とされています。また、エジプト文明とともにオリエント世界(中東)の中心でした。

恵みをもたらす「肥沃な三日月地帯」

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「メソポタミア」とはギリシャ語で「川の間地方」という意味になります。その名の通り、ティグリス川とユーフラテス川の間に都市を形成したからですね。

このふたつの川は何度も洪水を繰り返し、上流から栄養のある土を運んで沖積平野をつくりました。そうしてできたのが「肥沃な三日月地帯」です。

「肥沃な三日月地帯」は、メソポタミアからシリア、パレスチナを結ぶ三日月形をした地帯でした。このたりは気候が良く、土も栄養豊富で野生のムギ類が自生しているような場所です。そのムギを求めて、野生のヤギなどの草食動物が多く生息していました。人々は、ムギを自分たちで栽培する「農業」、そして、ヤギら草食動物を「牧畜」するようになります。これが人類初の農業と牧畜でした。

やがて彼らは川から水を引いて灌漑農業を、そして、高度な農具器具を発明することで、この肥沃な土地で現代と見劣りしないほどの収穫を得るようになったのです。

メソポタミアの文化

多神教のメソポタミア神話を持つ彼らは、階段型ピラミッドのジッグラト(聖塔、神殿)を中心とした都市を作りました。

そのころから「太陰暦」が使われ、「六十進法」が生まれました。さらに現代でもおなじみの「一週間は七日」というのもメソポタミア発祥です。

青銅器を使い、象形文字から発展した「楔形文字」をつくりました。彼らは楔形文字を粘土板に書き込んで記録を残しています。人類最古の文学作品とされる古代メソポタミア文明の『ギルガメシュ叙事詩』も粘土板に記されているんですよ。

しかし、メソポタミア文明は、紀元前4世紀のアレクサンドロス大王(イスカンダル)の遠征によって終息を迎えます。そのとき、メソポタミア文明はギリシャ文明と融合して、ヘレニズム世界の一部となりました。

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2.ナイルのたまもの「エジプト文明」

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ナイル川から始まる文明とファラオ

紀元前5000年ごろ、ナイル川の下流域にいくつかの「ノモス(小国家)」と呼ばれる都市国家が誕生しました。ノモスでは青銅器と彼ら独自の象形文字を使った文明がつくられています。そのノモスが統一されたのが紀元前3000年ごろのこと。北部にエジプト初期王朝が成立し、最高神官と最高軍事司令官を兼任し、強力な王権を持つ「ファラオ(王)」による統治が行われたのでした。

ファラオのお墓として「ピラミッド」が有名ですね。そのなかでも世界の七不思議として特に有名なクフ王のピラミッド(ギザの大ピラミッド)は、エジプト第4王朝のファラオ・クフ王の墳墓です。できたのは紀元前2560年ごろ。およそ二十年をかけて建設されたとされています。今から4000年も昔のお墓なんですよ。また、「王家の呪い」で話題に上がる「ツタンカーメン」は第18王朝で紀元前1300年代のファラオです。

これらピラミッドは単にファラオのお墓というだけではありません。ピラミッドのなかには玄室(棺を安置する場所)を持たないものもあり、これはファラオの権力がいかに強力かを示した、と考えられています。

ナイル川がもたらすめぐみ

メソポタミア文明がティグリス川とユーフラテス川からめぐみをもたらされたのと同じように、砂漠の広がるエジプト文明もナイル川から恩恵を受けていました。定期的に怒るナイル川の洪水によって川の周りに肥沃な土壌が蓄積し、人々はそれを集まり、灌漑農業を発展させます。

しかし、ひとたびナイル川が氾濫すれば、そこに集住していた人たちはたまったものではありませんよね。災害で家を失くし、田畑もダメになってしまいます。

そこで毎年のナイル川の氾濫を予想するために天文観測が行われるようになり、「太陽暦」がつくられました。さらに、氾濫後の農地の配分を行うために測量術、幾何学、天文学も発達したのです。

エジプトを治めた31の王朝

メソポタミアと違い、地理的にも異文化や異民族が侵入しづらかったエジプト。そのため比較的平和で、都市に城壁の址は発見されていません。そんなエジプトを治めたのはエジプトの31の王朝と、その後のプトレマイオス朝。王朝が滅亡するたびに次に移り変わり、ファラオの支配が続いてきました。

31の王朝は、第1・第2王朝の初期王朝時代、第3王朝から第6王朝の古王国、第11王朝から第12王朝の中王国、第18王朝の新王国の三期と、それぞれの中間期、そして紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の支配で終わる末期王朝にわけられます。

末期王朝の次に訪れるプトレマイオス朝エジプトは、アレクサンドロス大王の死後に後継者(ディアドコイ)のひとりプトレマイオス1世が建国したエジプトの王国です。メソポタミア文明と同じようにギリシャ文化と融合して、エジプト文明はヘレニズム文明へ継承されました。

クレオパトラとエジプト文明の最期

プトレマイオス朝が滅びたのは、紀元前1世紀、ローマの政治家ユリウス・カエサルやその部下マルクス・アントニウスと結んだクレオパトラ7世の時代。クレオパトラ7世は、当時地中海で大きな力を持ったローマの有力者と通じることで不安定だったエジプトをなんとか守ろうとしたのです。

しかし、カエサルの死後、アントニウスがエジプトに逃亡したきたのを匿い、オクタヴィアヌス(アウグストゥス)率いるローマと敵対することになりました。そうして、アクティウムの海戦でローマに敗れたクレオパトラ7世は蛇に自分を噛ませて自殺します。さらにクレオパトラ7世とカエサルの息子・カエサリオンは、オクタウィアヌスの政敵になる可能性があったために殺害され、こうしてプトレマイオス朝は滅んだのでした。

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3.インドの北西、高度な「インダス文明」

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インダス川のめぐみを受けた都市

インドの北西、現在のパキスタンとの境あたりに栄えたのが「インダス文明」です。インダス川流域の西側、紀元前7000年ごろから農耕が存在していたとされています。それがインダス文明と呼ばれるようになるのは、紀元前2500年ごろ。インダス川流域に都市文明が形成されます。都市の規模はメソポタミア文明の都市よりは小さいのですが、あちらと同じように、人々はインダス川で灌漑農業を発展させ、羊やコブウシなどの牧畜が行いました。

――と、ここまではメソポタミア文明やエジプト文明とほぼ同じですね。しかし、インダス文明は前者ふたつよりも高度な文明を築きます。第一に、整然とした都市計画のもとに作られた町。焼き煉瓦の家に井戸、下水、そして都市によっては大浴場まで整備されていました。水回りの整備が行き届く非常に衛生的な都市が紀元前から存在していたのです。

大浴場は、インダス川下流の「モヘンジョダロ(パキスタン側)」やドーラヴィーラー(インド側)などの大都市の遺跡に見られました。大浴場は宗教的な儀式に使われていたと考えられています。

インダス文明の文化

インダス文明で特に覚えておきたい遺跡は、先述したモヘンジョダロともうひとつパキスタン側にある「ハラッパー」です。ハラッパー遺跡からは、未解読の文字が書かれた印章や彩文土器が発見されました。

「彩文土器」は酸化鉄によって赤、黒、白の色を出し、それで模様や動物の姿などを土器の表面に描きます。土器にコブウシが描かれていることもあって、コブウシが太古の昔からインダス文明の人々とともにあったのがわかりますね。

「印章」は、インダス式印章といい、未解読のインダス文字(象形文字)や動物などが描かれた3センチから4センチのものです。これはメソポタミア文明の遺跡の方からも出土しました。インダス文明の人々は、インダス川を使ってメソポタミアと交易をしていたことがわかっていますので、印章は、インダス文明とメソポタミア文明の間で商用取引に使われていたと考えられています。

インダス文明の衰退

紀元前2000年ごろからインダス文明は衰退期に入ったと考えられています。しかし、その原因ははっきりとはせず、インダス川周辺の砂漠化や気候の変動、アーリア人の侵入など、様々な説が囁かれました。

4.東アジアの中心「中国文明」

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黄河と長江に現れたふたつの文明

昔は黄河の中流域と下流域で発展した黄河文明のみを世界四大文明のひとつとしていました。ところが、近年の発掘調査によって黄河の南、長江の河姆渡(かぼと)遺跡から黄河文明とは異なる農耕文明があったことが判明します。さらに、東北の遼河からも別の文明の遺跡が発見されました。これにより、中国には異なった三つの文明が同時期に発展していたことがわかり、中国の古代文明=黄河文明という考えがひっくり返ったのでした。それで現在では黄河、長江、遼河の三つの文明をあわせて「中国文明」または「中華文明」といいます。

黄土地帯で栄えた「黄河文明」

「黄河文明」は黄河の氾濫によって豊かな土壌がもたらされた「黄土地帯」周辺で発展しました。東アジアで農耕が始まったもっとも古い文明とされています。

また、黄河文明の人々は彩文土器や磨製石器を使い、竪穴住居に住んでしました。彩文土器が使われていたのは紀元前4800年から紀元前2300年ごろ。この時期を仰韶文化といいます。その後の紀元前23000年から紀元前1500年ごろにかけては、ろくろを使って作られた黒色の黒陶土器が特徴の竜山文化が興りました。

稲作の発祥地「長江文明」

日本人が主食としているお米はジャポニカ米といい、その原産地は長江中流域とほぼ確定されました。さらに長江中流域が稲作の発祥地と考えられ、アワやキビなどの栽培を主とした黄河文明よりも先に行われていたとされています。長江文明から、稲作とジャポニカ米が一緒に弥生時代の日本へも伝来したんでしょうね。

中流域では紀元前3000年ごろから紀元前2200年ごろにかけて屈家嶺文化が発展、下流域では紀元前3300年ごろから紀元前2200年ごろにかけて良渚文化が栄えました。その後は黄河文化の人々によって征服されたのではないか、と考えられています。

人類と文化と文明の発展

メソポタミア、エジプト、インダス、そして中国。これら四つの文明は同じような時期に発展し、それぞれ独自の文化をつくりあげてきました。そのなかには現代に続くものも少なくありません。私たちの生活のなかには、古代からの文明が脈々と受け継がれているのです。

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アジアの歴史世界史中東の歴史

3分で簡単「古代文明」世界四大文明ってなに?人類最古の文明は?を歴史オタクがわかりやすく解説

我々人類に欠かせない「文明」は、大昔に世界中でホモサピエンス(現生人類)」たちが言語や道具を使い、独自の文化を作って継承してきた。ですが、そのはじまりはいつだか知っているか?なかでも世界四大文明と称される古代の文明は、人類史上で最初に起こったとされる。今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にそんな「古代文明」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は「古代文明」の中でも世界四大文明についてまとめた。

1.世界最古の「メソポタミア文明」

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ティグリス川とユーフラテス川流域のメソポタミア

今から約5000年ほど前の紀元前3000年ごろ。現在のトルコ東部の山岳地帯から南東のペルシャ湾へかけて流れるティグリス川とユーフラテス川の周辺に都市文明「メソポタミア文明」が誕生します。

北部がアッシリア、南がバビロニアと呼ばれ、さらにバビロニアの北をアッカド、南部をシュメールといいました。メソポタミア文明は最下流のシュメールから上流へ向かって広がっていったとされています。「メソポタミア文明」はこのようにティグリス川とユーフラテス川の周辺に広がっていった複数の都市文明を総称しました。

現在、メソポタミア文明は人類最古の文明とされています。また、エジプト文明とともにオリエント世界(中東)の中心でした。

恵みをもたらす「肥沃な三日月地帯」

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「メソポタミア」とはギリシャ語で「川の間地方」という意味になります。その名の通り、ティグリス川とユーフラテス川の間に都市を形成したからですね。

このふたつの川は何度も洪水を繰り返し、上流から栄養のある土を運んで沖積平野をつくりました。そうしてできたのが「肥沃な三日月地帯」です。

「肥沃な三日月地帯」は、メソポタミアからシリア、パレスチナを結ぶ三日月形をした地帯でした。このたりは気候が良く、土も栄養豊富で野生のムギ類が自生しているような場所です。そのムギを求めて、野生のヤギなどの草食動物が多く生息していました。人々は、ムギを自分たちで栽培する「農業」、そして、ヤギら草食動物を「牧畜」するようになります。これが人類初の農業と牧畜でした。

やがて彼らは川から水を引いて灌漑農業を、そして、高度な農具器具を発明することで、この肥沃な土地で現代と見劣りしないほどの収穫を得るようになったのです。

メソポタミアの文化

多神教のメソポタミア神話を持つ彼らは、階段型ピラミッドのジッグラト(聖塔、神殿)を中心とした都市を作りました。

そのころから「太陰暦」が使われ、「六十進法」が生まれました。さらに現代でもおなじみの「一週間は七日」というのもメソポタミア発祥です。

青銅器を使い、象形文字から発展した「楔形文字」をつくりました。彼らは楔形文字を粘土板に書き込んで記録を残しています。人類最古の文学作品とされる古代メソポタミア文明の『ギルガメシュ叙事詩』も粘土板に記されているんですよ。

しかし、メソポタミア文明は、紀元前4世紀のアレクサンドロス大王(イスカンダル)の遠征によって終息を迎えます。そのとき、メソポタミア文明はギリシャ文明と融合して、ヘレニズム世界の一部となりました。

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