和泉式部日記とは、平安時代の半ばごろに和泉式部と呼ばれた女性歌人によって書かれた日記。歌物語風そして恋物語風であることが特徴です。ここに含まれている和泉式部が詠んだ和歌はなんと150首以上。これらの和歌を中心に当時の男女の恋愛模様が生き生きと記されている。

それじゃあ、和泉式部日記に記された平安貴族の恋愛模様について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文学を専門とする元大学教員。日本の古典にも興味があり、気になったことを調べている。和泉式部日記は、今も昔も変わらない男女の恋愛事情を記した日記。今の時代でも面白く読めるため、ときおり愛読している。

1.和泉式部日記とは

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平安時代中期、和泉式部と呼ばれた女性歌人によって書かれた歌物語風の日記で、和泉式部が詠んだ和歌150首以上を中心とした作品です。「和泉式部物語」と呼ばれることも。実は彼女の本名も生没年も不明。ちなみに、当時は天皇の后クラスの女性以外、名や年齢が記録されることはありませんでした。あの紫式部も本名や生まれた年はわかっていません。

和泉式部日記が書かれた時代

和泉式部日記は、平安中期といわれる長徳元年(995)年から長保2年(1000)ごろ書かれました。疫病が流行り、たくさんの高位の貴族たちが命を落とし、鴨川は疫病で死んだ庶民の屍の捨て場になっていた時代。世の中には、仏法が廃れて終末を迎えるという思想が広がり、人々はひたすら加持祈祷にすがっていました。

そんな暗い時代に和泉式部は歌詠みとして名をあげます。当時の権勢家である藤原一族は陰湿な政権闘争をくり広げ、清少納言が仕える藤原道隆家は敗者となり没落。道隆の弟である道長が勝者となり、天下を手に入れました。和泉式部の歌が深い暗さと悲愁を秘めているのは、こんな時代の不安が映し出されているからでしょう。

和泉式部日記の性格

和泉式部日記で官能的に描かれているのは王朝人の恋模様。和泉式部自身も夫がいる身で多くの恋をしました。現代のように不倫が厳しくとがめられる時代ではありませんが、夫がいる女性の恋はご法度でした。しかもそのお相手が天皇の息子である二人の親王。平安時代であってもこの出来事は世間を騒然とさせたことが多くの資料からわかります。

兄宮と交わした歌は残っていません。しかし、弟宮との恋から数々の歌が生れました。情熱のラブソングは今日に通じる自由奔放なもの。しかし、そんな歌の底には、仏教思想と無常観、さらには深い心の闇が流れています。夫のいる身で親王と不倫関係にあったことを歌に詠むことは世間のはげしいバッシングを受けること。それを覚悟で世に発表したのです。

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2.和泉式部日記の恋の形

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冷泉天皇の第三子である為尊親王(ためたかしんのう)と身分違いの恋に陥った情熱の女性、それが和泉式部です。源氏物語に描かれている女性たちは控えめで受身。それとはまったく異なるタイプの女性です。為尊親王が若くして亡くなると、その涙も乾かないうちに弟宮である敦道親王(あつみちしんのう)とラブラブな関係に。あまりの奔放さに自由恋愛の時代の人たちもドン引き。相手は雲の上の人、身をわきまえるべきという意見が圧倒的多数でした。

和泉式部の結婚と恋愛事情

和泉式部は受領階級の生まれ。受領というのは国司のことで、今の県知事クラスに該当します。権限は今の知事よりも強く、中級貴族が任命されました。財産は貯まるものの、上級貴族からは下に見られるという立場。和泉式部は父母のはからいで身分相応の夫をあてがわれました。

夫が和泉の国司になったため、彼女の名前は和泉式部。和泉は今の大阪府の南の辺りという意味です。夫とは細やかな贈答歌を交わしていますが、情熱的なものではありませんでした。

受領階級の多くの女性と同じように和泉式部は宮仕えに出ます。今でいうとお勤め。そこで彼女は紫式部や清少納言のように文才を開花させていきます。お勤め中に出会ったのが為尊親王。ふたりの恋は燃え上がったものの、どちらも配偶者がいる立場。世論は炎上しました。

魔性の女と言われている和泉式部

禁断の恋でも貴族同士の場合は大目に見られます。しかしながら貴族でない男性だけはタブー。貴族以外は人間ではないと見なされた時代だったからです。身分の上下に関わらず、たくさんの男性が和泉式部に恋をしました。この時代、見ることは性交渉をしたことと同じ。女性から歌を贈られただけで、あるいは簾の下からこぼれる衣を見ただけで、男性は恋に落ちたのです。

平安時代、女は男に顔を見せることはありません。扇で隠した顔と歌だけで男を虜にするのがルール。高度はテクニックが必要だったのです。そんな状況でやり取りする和歌はまさに偏差値そのもの。自分のセンスの良さを売り込み、知能程度の高さをアピールし、さらには相手を落とさなければなりませんでした。和泉式部は近づいてくる男たちを歌の魅力で燃え上がらせ、理性を狂わせるテクニックをもっていました。

3.和泉式部日記の内容とは?

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和泉式部日記で歌われているのは、華やかな恋愛、暗い恋、求愛、娘へのあふれるような愛など。さらには、亡き親王たちへささげる挽歌、死を予感する歌もあります。これらの歌すべては和泉式部の心や人生をあらわすもの。和泉式部日記は、平安時代に輝く命の賛歌であるともいえるでしょう。

そのへんの男が相手ではない

和泉式部が超エリートをねらっていたわけではありません。たまたまですが、恋の相手が二人とも天皇の息子でした。最初は為尊(ためたか)親王。妻はいたものの女性好き。疫病で都が騒然としていたときも派手な夜歩きを続け、26歳で亡くなりました。疫病で命を落としたともいわれています。

故宮の喪が明けるか明けないうちに弟の敦道(あつみち)親王と交際がスタート。兄宮と同時進行だったとも思われていますが、真偽は不明。余りの奔放さに王朝人も驚き、非難ごうごうとなりました。とはいえ、現代よりはずっと寛大で、面白い女性だと時の権力者道長は喜んでいたようです。二人の交わした歌がこの作品の中心。彼女にとっては生涯をかけた恋でした。

\次のページで「冒頭の暗さが特徴的な和泉式部日記」を解説!/

冒頭の暗さが特徴的な和泉式部日記

ここで冒頭の原文を紹介します。

夢よりもはかなく世の中を嘆きわびつつ暮らすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下くらがりもてゆく

題名は日記となっていますが、彼女が生涯をとおして書きたかったのは「死を見つめる」こと。冒頭はあまりに暗く、木の下の闇と木陰の湿り気を生々しく感じさせます。敦道親王も27歳と早い死を迎えました。

平安時代は、人々の寿命がとても短く、貴族の寿命は50歳ぐらい。庶民は20歳ぐらいと言われています。  乳幼児の死亡率を入れると平均寿命は30歳ほど。 古典を読むときはそれを頭に入れておきましょう。和泉式部の恋の真相は不明点が多数。しかしはっきりしていることは、彼女は「死」を見つめる挽歌を詠んだということです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

4.和泉式部とはどのような人物?

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和泉式部は和歌史上最高の女流歌人。彼女の生き方や歌は源氏物語にも大きな影響を与えました。和歌と物語は平安時代の大切なメディア。いちばん信頼できる情報源でした。和歌や物語の作者自身が、このメディアによってスターになりえたのです。現代でいうところの芸能人みたいなもの。このころは戦争がなく、身分は一生保障されており、もちろん定年もありません。貴族たちはすることがなくて恋に没頭しており、それがメディアを通じて発信されたのです。

正直であたたかい性格だった和泉式部

和泉式部は天女か魔性か、または魅力的な見た目で男性を夢中にさせていたのか、恋多き女性の真偽は不明です実際、彼女の生き方そのものがほとんど伝説となりました。つまり和泉式部は平安時代の恋愛のレジェンドという存在だったのです。

魔性の女と言われることも多い和泉式部。実際の彼女は正直で心の温かい女性だったようです。多くの歌からしのばれるのが彼女の心の優しさ。頭が良くて性格もよくて、哲学的な文学少女、それが和泉式部の実像ではないでしょうか。

和泉式部は今も昔も人気者

和泉式部について語るとき「男性を虜にするテクニシャン」「男ったらし」と悪口もいわれることもしばしば。しかし不思議なことに人気もかなりあったのです。その理由となるのが憎めないところ。そんな「隙」が多くの男性たちをノックダウンさせたのでしょう。

天性の無邪気さと愛らしさがあり、哲学的、内省的、知的な側面も。日本にも世界にもこんなすごい女流作家はいないでしょう。彼女にとって恋は哲学するための道具だったのかも知れません。昔の今も、和泉式部は炎上の対象になりながら、どういうわけが愛され続けているのです。

5.和泉式部の生涯とは?

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多数の平安女流作家の生涯と同じように和泉式部の生涯は不明。歌の詞書(ことばがき)や男性の歌集、記録などの断片を集めて推測するしかありません。源氏物語の作者である紫式部ですら本名も没年も分かっていません。和泉式部もそんな時代の歌人なのです。それでも集められた断片を繋ぎ合わせると、和泉式部の生涯がほのかに浮かびあがります。

\次のページで「公の結婚は二回とも破綻」を解説!/

公の結婚は二回とも破綻

和泉式部は母親の縁で和泉守橘道定の妻となりました。そのときの年齢は17歳から18歳ごろと思われます。ふたりのあいだにはすぐに女の子が生れました。そときに生まれた子供が、のちに天才歌人と賛美された小式部です。

しかしながら為尊親王との恋が評判となり夫婦仲は破滅。両親から勘当され、夫と正式に離婚することになります。その後、数々の恋愛を重ね、道長の娘彰子に仕えるようになった和泉式部。そして、道長のはからいにより道長の家臣である藤原保昌(やすまさ)と正式に結婚するものの、二度目の結婚も破綻しました。

「浮かれ女」と道長に呼ばれた和泉式部

最初と最後の正式結婚のあいだにも数々の恋愛遍歴があります。代表的な相手は二人の親王。今なら大バッシングをうけるような恋ですが、道長は彼女を気に入りました。不倫という概念はなく、不倫は文化と言っても過言ではありませんでした。問題になるのは、不倫であるかどうかよりも身分差だったようです。

彼女は生きていたときも亡きあとも人気者。嫌われることはほとんどありません。恋多き女でしたが、憎めない人柄だったことが大きいのでしょう。そのためか、和泉式部生誕の地、育った地、墓所と呼ばれる場所が日本中に沢山あります。それらはすべて中世に生れたもの。この時期に、和泉式部伝説を語って歩く女性の芸人集団がおり、戦乱のなか全国を巡って語り歩いていたからです。

和泉式部は恋と死に向き合った文学作品

和泉式部日記は、恋愛や不倫にうつつをぬかす女性の日記と言われることもしばしば。しかし実際に和泉式部日記を読んでみると、その先に生きるとは何か、死とは何かなど彼女の死生観が垣間見れます。そんな彼女の思索を感じさせるものが、数多くの歌の中でもっとも有名なもの。

ものおもへば沢のほたるもわが身よりあくがれ出づる魂かとぞみる

京都の貴船神社の傍らを流れる御手洗側(みたらしがわ)の辺で詠んだ、恋と命の最高の名歌として今も愛されています。和泉式部日記を実際に読んでみると、平安時代を生きた女性の心のうちをリアルに感じ取れるでしょう。

 

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日本史

平安時代の恋愛事情が分かる「和泉式部日記」とその作者について元大学教員が5分でわかりやすく解説

公の結婚は二回とも破綻

和泉式部は母親の縁で和泉守橘道定の妻となりました。そのときの年齢は17歳から18歳ごろと思われます。ふたりのあいだにはすぐに女の子が生れました。そときに生まれた子供が、のちに天才歌人と賛美された小式部です。

しかしながら為尊親王との恋が評判となり夫婦仲は破滅。両親から勘当され、夫と正式に離婚することになります。その後、数々の恋愛を重ね、道長の娘彰子に仕えるようになった和泉式部。そして、道長のはからいにより道長の家臣である藤原保昌(やすまさ)と正式に結婚するものの、二度目の結婚も破綻しました。

「浮かれ女」と道長に呼ばれた和泉式部

最初と最後の正式結婚のあいだにも数々の恋愛遍歴があります。代表的な相手は二人の親王。今なら大バッシングをうけるような恋ですが、道長は彼女を気に入りました。不倫という概念はなく、不倫は文化と言っても過言ではありませんでした。問題になるのは、不倫であるかどうかよりも身分差だったようです。

彼女は生きていたときも亡きあとも人気者。嫌われることはほとんどありません。恋多き女でしたが、憎めない人柄だったことが大きいのでしょう。そのためか、和泉式部生誕の地、育った地、墓所と呼ばれる場所が日本中に沢山あります。それらはすべて中世に生れたもの。この時期に、和泉式部伝説を語って歩く女性の芸人集団がおり、戦乱のなか全国を巡って語り歩いていたからです。

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和泉式部日記は、恋愛や不倫にうつつをぬかす女性の日記と言われることもしばしば。しかし実際に和泉式部日記を読んでみると、その先に生きるとは何か、死とは何かなど彼女の死生観が垣間見れます。そんな彼女の思索を感じさせるものが、数多くの歌の中でもっとも有名なもの。

ものおもへば沢のほたるもわが身よりあくがれ出づる魂かとぞみる

京都の貴船神社の傍らを流れる御手洗側(みたらしがわ)の辺で詠んだ、恋と命の最高の名歌として今も愛されています。和泉式部日記を実際に読んでみると、平安時代を生きた女性の心のうちをリアルに感じ取れるでしょう。

 

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