平安時代の恋愛事情が分かる「和泉式部日記」とその作者について元大学教員が5分でわかりやすく解説
公の結婚は二回とも破綻
和泉式部は母親の縁で和泉守橘道定の妻となりました。そのときの年齢は17歳から18歳ごろと思われます。ふたりのあいだにはすぐに女の子が生れました。そときに生まれた子供が、のちに天才歌人と賛美された小式部です。
しかしながら為尊親王との恋が評判となり夫婦仲は破滅。両親から勘当され、夫と正式に離婚することになります。その後、数々の恋愛を重ね、道長の娘彰子に仕えるようになった和泉式部。そして、道長のはからいにより道長の家臣である藤原保昌(やすまさ)と正式に結婚するものの、二度目の結婚も破綻しました。
「浮かれ女」と道長に呼ばれた和泉式部
最初と最後の正式結婚のあいだにも数々の恋愛遍歴があります。代表的な相手は二人の親王。今なら大バッシングをうけるような恋ですが、道長は彼女を気に入りました。不倫という概念はなく、不倫は文化と言っても過言ではありませんでした。問題になるのは、不倫であるかどうかよりも身分差だったようです。
彼女は生きていたときも亡きあとも人気者。嫌われることはほとんどありません。恋多き女でしたが、憎めない人柄だったことが大きいのでしょう。そのためか、和泉式部生誕の地、育った地、墓所と呼ばれる場所が日本中に沢山あります。それらはすべて中世に生れたもの。この時期に、和泉式部伝説を語って歩く女性の芸人集団がおり、戦乱のなか全国を巡って語り歩いていたからです。
和泉式部は恋と死に向き合った文学作品
和泉式部日記は、恋愛や不倫にうつつをぬかす女性の日記と言われることもしばしば。しかし実際に和泉式部日記を読んでみると、その先に生きるとは何か、死とは何かなど彼女の死生観が垣間見れます。そんな彼女の思索を感じさせるものが、数多くの歌の中でもっとも有名なもの。
ものおもへば沢のほたるもわが身よりあくがれ出づる魂かとぞみる
京都の貴船神社の傍らを流れる御手洗側(みたらしがわ)の辺で詠んだ、恋と命の最高の名歌として今も愛されています。和泉式部日記を実際に読んでみると、平安時代を生きた女性の心のうちをリアルに感じ取れるでしょう。