蜻蛉(かげろう)日記とは、藤原兼家と結婚して、のちの右大将道綱を生んだ、藤原道綱母が書いた日記。源氏以前の文学では最高峰と言われている作品です。不実な夫に傷つながらもつなぎとめようとする女性の姿を垣間見ることがきる。

それじゃあ、蜻蛉日記から分かる平安時代の時代背景や女性の心理について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。日本の古典にも興味があり、とくに平安時代がお気に入り。今回は平安時代の女性の心の機微が記された蜻蛉日記について調べてみた。

1.蜻蛉日記とはどんな作品?

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蜻蛉日記とは、藤原兼家と結婚して、のちの右大将道綱を生んだ女性の書いた日記。彼女の本当の名前は伝わっていません。平安時代は、男性が多くの妻をもち、妻たちの家に通うかたちの結婚でした。そのようななか、正妻よりも身分が低い自分の不安、悩み、嫉妬を深く見つめた日記を書いたのです。これが、近代文学につながる道を作った古典とみなされるようになりました。

蜻蛉日記作者とその時代

平安時代、妻の地位は現代のように法律で保護されていたわけではありません。男が通って来なくなったらそれで終わり。即離婚とみなされました。女性の身分は低かったため、それだけ立場は弱かったのです。

このころは藤原北家(ほっけ)と呼ばれる藤原一族が権勢を握り、その他の貴族はものの数でもありませんでした。蜻蛉日記の作者は中級貴族の出身。藤原北家である兼家に求婚され妻の一人となり、息子道綱を生みました。しかし、身分が低いことから、社会的には不安定な立場にありました。

蜻蛉日記は日記を文学に昇華させた作品

蜻蛉日記のエッセンスとなるのが上巻末尾の「なほものはかなきを思へば、あるかなきかのここちするかげろふの日記といふべし」という文。ここにすべてがこめられています。時の権力者の妻でありながら、ひたすら、身分の違いとは何なのかを文学作品に昇華した作品です。

蜻蛉日記は源氏以前の文学では最高峰と称される作品。日記を真の意味での「物語」のようにに書いており、その心理描写はそれまでに見られなかった類ものです。全編に流れているのは、女という立場、妻としての心境、お互いに対等に愛し合うことのできない状況を悲しむ旋律。当時と現代は世界が違うのですが現代にも通じるものがあります。蜻蛉日記に貫かれているのは、まさに「女の悲しみ」でした。

\次のページで「2.蜻蛉日記にあらわれる夫婦のかたち」を解説!/

2.蜻蛉日記にあらわれる夫婦のかたち

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蜻蛉日記の作者が生きていたのは、古代の「妻問婚」から「婿取り婚・通い婚」に変わっていった時代。貴族にとって結婚は出世の道具だった時代でもあります。女性にとって結婚は不安定でつらいもの。作者は不実な夫に傷つき、夫をつなぎとめようと悩み、嫉妬で苦しみ、それでも、ときには演技して優しく夫を迎えます。ときには門から締め出すツンデレ作戦。愛情とし嫉妬の葛藤が描かれてました。

プライバシーをカミングアウト

平安中期の天暦(てんりゃく)8年は西暦954年。ここから日記が始まります。これは今から1050年ほど前のこと。そんな当時の貴族の結婚のかたちをリアルに知ることができます。夫兼家の歌がたくさん取り入れられるなど、ラブラブだった時代も。次第に鬱々たる愚痴に変わってゆきます。まさに夫婦のプライバシーを公開した作品だったのでしょう。

夫婦でしか分からない姿があるため、夫兼家と実際はどんな状況だったのかはわかりません。しかし、兼家作とされる歌の多くが作者の代作だったことも判明。ここから作者はここから、夫が自分に代作を押しつけてくることに嫌気がさして、夫婦のプライバシーを公にしたとも言われています。

平安貴族の妻は夫の秘書でもあった

彼女は歌だけでなく衣装作りのセンスも有名でした。兼家も、衣装を新調する必要があるときは作者の家を訪れています。当時、妻の一番大切な仕事は夫の衣装を染めたり縫ったりすること。歌の下手な夫に代わって上手な歌を詠める能力があることでした。字が下手な夫だったら代筆することもあったようです。

兼家は作者の美貌の評判と並外れた歌の才に惹かれたという一面も。貴族にとって歌の上手下手は現代の偏差値と同じ。歌が詠めないと能なしと見なされます。さらに、字は下手だが頭はいいという理屈は通用しません。字が上手いことは頭が良いことと同じ。兼家は歌も字も自信がなく、その両方に秀でている作者を尊敬し、一目置いていたとみられます。つまり、ちゃっかり妻の才能を利用した結婚だったのですね。

3.蜻蛉日記とはどんな内容?

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藤原道綱母は、兼家のプロポーズを受け入れ、世間的には玉の輿に乗ったと見られました。しかし実際は、多くの妻たちのなかでは身分が低い悩み、息子が生れても他の女のもとにせっせと通う夫にやきもき。さらには、母と死別した悲しみ、山寺に籠ったときのことなども描かれ、それらが優雅な歌を織りまぜて書かれています。

年表にすると分かる女性の一生

蜻蛉日記の上巻は、作者が19歳から33歳.、兼家が26歳から40歳のあいだのことがかかれています。のちの道綱となる息子は1歳から19歳へと成長しました。つまり、人生のいちばん豊かな時期が書かれているのが上巻と言えるでしょう。

続く中巻に書かれているのは、作者が34歳から36歳、兼家が41歳から43歳、道綱が15歳から17歳のあいだの出来事。世情も騒々しくなり、家庭にもさまざまなない波風が出てきます。そして下巻は、作者37歳から39歳、道綱が18歳から20歳のあいだ。苦悩に満ちたわびしい晩年で、息子道綱だけが心の支えとなっています。

時系列でみて分かることは、女の一生が現代と変わらないこと。30代のころは、子供に手がかかることもあり、夫の不実にはまだ耐えられ、愛の深さを互いに知ることもあります。しかしながら30代も後半になると、過去の恨みつらみが煮えたぎり、そして自分の内面を鋭く見つめるように。そして40代は今ならもう晩年。諦めの心境に達します。

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夫を見限り息子を溺愛

作者の激しい心情は日記の中の兼家の歌の数にもあらわれます。上巻では兼家の歌は36首、中巻は6首、下巻も6首と激減。同時に文章が冴えわたり、散文として成熟してゆきます。また下巻には息子道綱の歌も登場。夫兼家の歌の数に匹敵する30首の歌が組み込まれました。作者は夫を見限り息子に愛情を注いだことが分かります。

和歌だけでは描ききれなかった豊かな表現の世界も、作者は切り開いてゆきました。それは近代小説にも匹敵する文章。彼女は兼家をはるか彼方に置き去りにしたとも言えるでしょう。現代では兼家の名は知らない人が多数。いっぽう蜻蛉日記の名は必ず教科書に出てきます。

4.蜻蛉日記を書いた理由は?

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蜻蛉日記の執筆の動機は何だったのでしょうか。まったく個人的な夫婦関係の葛藤を書いたという説、藤原摂関家の広報のような役目を担って書きはじめたのではないかという説、また自分の詠んだ歌が夫の名で発表されることへ嫌気がさして、自分の名で歌集を出したい思いが高まりこの日記になったという説などがあります。

平安時代に個人の動機なんてあり得る?

平安時代、紙も筆も硯もとても高価な物、手に入れるのは簡単なことではありませんでした。個人的な動機だけ執筆するのは財力が持ちません。そのため、両親がかなり援助したことも考えられます。夫婦別財産、夫婦別姓が基本だったため、平安時代の女性は現代のより女性よりもたくさんの財産を持っていました。それでもやはり、紙や筆を準備するために、別に支援を受けていたと考えるのが自然です。

作者の歌の才能にほれ込み、また歌人として尊敬していた兼家。作者に自分の詠んだ歌を多少手直しして歌集を作ってもたらいたいのが本音。歌集があることは自分のステータスをあげることだったからです。そしてそれは藤原北家の名誉になることでもありました。そこで作者に頼んで書かせたとも考えられます。

作者の意図は作家として自立すること

最初は夫のために歌集のようなものを作ろうと思った可能性大。しかし、しだいに自分の名で自分の作品集を世に出したくなってきました。それは才能のある人間として当然のこと。ゴーストライターに満足できなかった彼女は、作品の方向性を変えていきます。

藤原道綱母の心のうちを代弁すると「不実な夫の代作で終わりたくはない」「息子のためにも母親であるわたしの歌をわたしの名前で残したい」。そんな思いから作者は作家として自立したと言えるでしょう。そして夫の歌をどんどん削減。それでも愛おしい息子の歌は、反比例するように増やしていきます。そして蜻蛉日記は母と夫と息子のための歌集となっていきました。

5.平安時代の結婚のかたち

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平安時代の結婚のいちばんのポイントは、赤ちゃん誕生から養育まですべて母親の一族でおこわれたこと。夫とのつながりはあやふやなものである一方、子供とのつながりは濃厚でした。そのため男性の目標は自分の子供を成育するに値する財力と地位を持っている女性の婿になること。つまり玉の輿を狙うのは男性だったのです。

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蜻蛉日記の作者の夫の場合

最高権力者である摂政(せっしょう)の地位に就く藤原兼家には、少なくとも6人の妻がいました。全員、一定以上の身分の女性たちです。正妻と妾の区別はなかった模様。記録に出ていない身分の女性とも結婚していた可能性があります。兼家はこれらの妻のだれともいっしょに住んではいない、通い婚専門でした。

兼家の自宅に同居している妻はいません。そのため兼家の実家である大邸宅に「奥さま」はなし。とはいえ、兼家にとってはいろいろ不便なので、上級召使いに手をつけ、実質の「奥さま」にしてました。当時の貴族たちは、このよう女性を、仮の妻という意味の権妻(ごんさい)と呼んでいます。ちなみに権妻という呼び方は明治時代に復活、戸籍にも記載されました。

平安貴族の家庭のかたち

現代でも夫婦や家庭のかたちはさまざま。貴族もピンからキリまでいました。貴族の一般的な結婚を解説すると、婿の生活費のすべては妻の実家もち。子供の出産や育児費用も労力も妻の実家が工面していました。夫が通って来なくなっても、子供の養育はすべて妻方の責任となります。

夫が通ってこなくなったら、それが当時の離婚。子供がいても養育費が支払われることはありません。そのため女性の経済力がとても大切だったのです。当時は住居は娘へ相続。女性はかなりの財力がありました。そのため出世の見込みのない婿は追い出されることも。平安貴族の結婚は純愛とははるか遠いものだったのです。

蜻蛉日記から見えるのは平安時代の普通の女性の姿

平安時代には、源氏物語や枕草子など、女流文学が華々しく開花しました。そのなかで蜻蛉日記は、当時の女性のありふれた感情や葛藤を書き記した作品。平安時代のイメージである雅な雰囲気とは一定の距離がありました。文学作品は、芸術としてはもちろん、平安時代の歴史を振り返る資料としての価値もあります。そこで、歴史的資料として蜻蛉日記から女性の心を読み解くのも楽しいと思いますよ。

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平安時代日本史

平安時代の女性の心を映しだす「蜻蛉日記」について元大学教員が5分でわかりやすく解説

蜻蛉(かげろう)日記とは、藤原兼家と結婚して、のちの右大将道綱を生んだ、藤原道綱母が書いた日記。源氏以前の文学では最高峰と言われている作品です。不実な夫に傷つながらもつなぎとめようとする女性の姿を垣間見ることがきる。

それじゃあ、蜻蛉日記から分かる平安時代の時代背景や女性の心理について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。日本の古典にも興味があり、とくに平安時代がお気に入り。今回は平安時代の女性の心の機微が記された蜻蛉日記について調べてみた。

1.蜻蛉日記とはどんな作品?

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蜻蛉日記とは、藤原兼家と結婚して、のちの右大将道綱を生んだ女性の書いた日記。彼女の本当の名前は伝わっていません。平安時代は、男性が多くの妻をもち、妻たちの家に通うかたちの結婚でした。そのようななか、正妻よりも身分が低い自分の不安、悩み、嫉妬を深く見つめた日記を書いたのです。これが、近代文学につながる道を作った古典とみなされるようになりました。

蜻蛉日記作者とその時代

平安時代、妻の地位は現代のように法律で保護されていたわけではありません。男が通って来なくなったらそれで終わり。即離婚とみなされました。女性の身分は低かったため、それだけ立場は弱かったのです。

このころは藤原北家(ほっけ)と呼ばれる藤原一族が権勢を握り、その他の貴族はものの数でもありませんでした。蜻蛉日記の作者は中級貴族の出身。藤原北家である兼家に求婚され妻の一人となり、息子道綱を生みました。しかし、身分が低いことから、社会的には不安定な立場にありました。

蜻蛉日記は日記を文学に昇華させた作品

蜻蛉日記のエッセンスとなるのが上巻末尾の「なほものはかなきを思へば、あるかなきかのここちするかげろふの日記といふべし」という文。ここにすべてがこめられています。時の権力者の妻でありながら、ひたすら、身分の違いとは何なのかを文学作品に昇華した作品です。

蜻蛉日記は源氏以前の文学では最高峰と称される作品。日記を真の意味での「物語」のようにに書いており、その心理描写はそれまでに見られなかった類ものです。全編に流れているのは、女という立場、妻としての心境、お互いに対等に愛し合うことのできない状況を悲しむ旋律。当時と現代は世界が違うのですが現代にも通じるものがあります。蜻蛉日記に貫かれているのは、まさに「女の悲しみ」でした。

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