土佐日記とは、平安時代に成立した日記文学のひとつ。土佐の国での任務を終えた紀貫之が、京に帰るまでに起こった出来事をつづっている。土佐日記の大きな特徴は、紀貫之は男性であるものの、女性になりきって書いているという点。ユーモアにあふれながらも、複雑な設定が採用されている。

紀貫之は、どうして女性になりきって土佐日記を書いたのでしょうか。彼が何を狙ったのか、それによりどんな文学的特徴が生れたのか、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカ文化を専門とする元大学教員。日本の古典文学にも興味があり、気になることを調べている日々。土佐日記は、紫式部や和泉式部など、平安時代を代表する女流作家の作品に大きな影響を与えた。日本の古典文学の歴史に、たくさんの影響を与えてきた土佐日記について、いろいろ調べてみた。

1.土佐日記とはどんな作品?

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土佐日記とは、平安時代の貴族である紀貫之(きのつらゆき)が書いたとされる日記作品です。貫之は60代半ばで、初めて京を離れて、現在の高知県である土佐国に国司(こくし)として赴任。国司は朝廷により任命された、その土地における最高権力者です。4年の任期が終わり、京の自宅へ帰るまでの旅を記しました。

紀貫之が生れた時代の背景

貫之は平安時代中ごろの歌人であり学者。また三十六歌仙の一人でもあります。三十六歌仙とは、藤原公任に選ばれた36人の優れた歌人のこと。貫之は『古今和歌集』の撰者の一人であり、仮名序の執筆者とも言われており、多彩な人物であったことが分かります。

紀貫之の晩年のころ、都は盗賊により荒らされ、数々の寺院が消失。現代の関東地方にあたる東国や、現代の四国辺りの西国では、たびたび反乱が起こるという騒然とした時代でした。このとき貫之は失業中でしたが、ようやく土佐の国司に就けることに。とはいえ、当時の土佐は流刑の地でもあり、栄転というわけではありませんでした。

土佐日記は日記文学であり紀行文学

土佐日記は、日記文学と紀行文学のふたつの顔をもっています。事実を書き連ねるのではなく、実は大部分が「作り話」。実際に起こった出来事よりも文学的な表現を優先しているのです。日本語の文体に漢詩や和歌を地の分に埋めこむなど、さまざまな技法がちりばめられました。

土佐日記の特徴は、なんといっても簡潔でわかりやすく奥の深い文章。男性官僚が記していた漢字だけの日記とはまったく違っていました。それまでの日記は、公的な立場にある男性官僚が、政務や行事の記録を記したもの。個人の感情はほとんど記されていませんでした。それに対して土佐日記では、貫之が感じた悲しみ、寂しさ、憂鬱などが情緒豊かに記されています。

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2.ひらがなの文学である土佐日記

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もともと日本には文字がなく、中国から渡ってきた漢字を使っていました。しかし、漢字だけで心情を書き記すことは困難。そこで、長い時をかけて日本人は努力と工夫を重ねながら漢字を基にして「仮名文字」を作り出しました。仮名文字というのは「仮名」のこと。後に「平仮名」と称されます。

ひらがなを使うのは主に女性

当時の仮名は、現在の平仮名とはだいぶ形が異なります。当時は、公で使われる文字は漢字。男性官僚は公文書をすべて漢字で書いていました。仮名は漢字よりも低ランク。女性が使う文字とみなされていました。貫之が「ひらがな」で日記を書いて発表したことで「ひらがな」が文学の舞台に出現したのです。

もちろん私的な場では男性も仮名を使っていました。たとえば懸想文(けそうぶみ)と呼ばれるラブレターの和歌は仮名です。一方、教養ある上級貴族の女性は漢字で日記や行事の記録を書き残していました。つまり、男は漢字、女は仮名を使うべしというのは表向きのルールで、臨機応変に使い分けていたようです。

貫之が「仮名文字」を使った理由

土佐日記に含まれている歌は57首。こっけいなこと、機知に富んだやりとり、旅の旅情、情景、景色の美しさなど、その内容はさまざまです。漢字では表現しきれない微妙な感情の表現はひらがな。そういうものは漢字では表現しきれないからです。和歌は仮名文字だからこそ雅(みやび)なのですね。

男性である紀貫之は、女性が使うとされるひらがなで書き記すために工夫をほどこします。それは書き出し。「オトコが書くものである日記をオンナのわたしも書いてみようと思って」という一文からスタートさせたのです。平安時代は、現代よりも男性と女性の境目が緩やか。和歌の世界でも「オトコがオンナになりきって詠んだ歌」「オンナがオトコになりきって詠んだ歌」が多く残されました。ある意味、ジェンダーレスの時代だったと言えるでしょう。

3.土佐日記でオンナ文字にチャレンジ

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内容を読めば筆者が男性であることは一目瞭然。それが分かるのが「月の海辺で体を洗っている女性たち」の描写です。女性に関する表現がとても露骨で、当時の女性がこんなことを書くはずはありません。そのため近年は、小松英雄氏が唱えるように、冒頭の文による「オトコ文字で書くべき日記をオンナ文字で書いてみようと思って」という解釈が正しいと言われるようになりました。

毎日欠かさず書いた日記

934年12月1日に紀貫之は国司の官舎を出発。翌年の2月16日に京の自宅に着きました。官舎とは今の社宅のことですが、超豪華で広大な居宅だったようです。この大きさから、国司の権力がいかに大きかったのかが分かりますね。土佐の官舎を出てからの帰路の旅は55日間。そのあいだ貫之は一日もサボらず日記を書きました。

悲喜こもごも書かれた日記には57首の歌も収められています。旅の途中で目にした珍しい情景、美しい自然。ふと見かけた魅力的な女性の姿など生き生きと描かれました。また当時は、糸や糊で綴じた絵入りの草子で読まれていました。自由に旅を出来ない当時の人たちは、あたかも旅に出ている気分を味わいながら、日記の絵と文章を楽しんだのです。

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あふれるのは貫之の悲しみ

土佐日記に書かれているのは楽しいことばかりではありません。土佐の在任中に知り合った親しい人たちの死への思い、船中の人々との楽しい時間、海賊に対する恐怖、荒れ狂う海への不安など、さまざまな場面が書かれています。古い歌に対する感動、自分なりの文学論、軽妙な風刺、同時代の文学に対する批評など、日記の内容は多岐にわたりました。

土佐日記の底流にあるのは悲哀の調べ。流刑地であった土佐国へ赴任することになった悲しみ、京を離れたことによる孤独をうかがい知ることができます。当時の貴族にとっては、京の都だけが人間の世界。京は、豊かさ、美しさ、優越性のシンボルでした。歌人として学者として高いプライドがあった貫之にとって「土佐日記」という題名自体が悲しみだったのかもしれません。

4.貫之が土佐日記を書き始めた理由は?

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個人的な悲しみを何かの形で書き残したかった、土佐という当時の辺境の地のことを記録に残したかったなど、紀貫之が土佐日記を執筆することになった動機は諸説あり。また歌人としてさまざまな表現方法にトライして見たかったという見方もあります。

亡くなった人への想いから執筆スタート

土佐国に再任している最中に貫之が知ったのは、宇多上皇、醍醐天皇、その他多くの親戚や貴族仲間の死。また、任地で幼い娘も亡くしています。さらには60代となり、自分自身の死も考えるような時期でもありました。死者を追慕する気持りが、新たな文学へ挑戦する気持ちを後押ししたと思われます。

土佐国が流刑地だったとはいえ、貫之は左遷されたわけではありません。しかし、名門貴族である「紀氏」の血を引く貫之にとって土佐赴任は挫折そのもの。死を暗示するものでもありました。また土佐在任中に知った醍醐天皇、宇多上皇の死は、貫之にとって大きな衝撃。両天皇は貫之に『古今和歌集』編纂のチャンスを与えてくれた「恩人」でもあったからです。

新しい文学への挑戦でもあった

土佐日記には、土佐で幼い娘を失くしたと書かれています。しかし、それが事実なのか文学上の創作なのかは不明。全体を読むと日記のほとんどが文学的な創作の創作だからです。紀行文学であるなら注目するべきは京の都では見られない風景。それにもかかわらず、彼が書いた日記は乏しく生きる人の心の表現に重点を置くものでした。つまり日記ではなく小説に挑戦した作品とも言えるのです。

土佐日記でふんだんに使われているのが和歌の表現技術。土佐日記は、当時一流の歌人であった紀貫之だからこそ執筆できた作品と言えます。和歌には、掛詞(かけことば)、縁語(えんご)、見立て(みたて)など、さまざまな技術をちりばめました。貫之はそれら技術を活かしつつ、新たな文学のジャンルに挑戦したと言えるでしょう。

女流文学を開花させた土佐日記

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日本最初の歌集と言われいている万葉集は、漢字の発音を日本語に当てはめて書かれたもの。つまり全部漢字で書かれています。しかし、和歌は漢字だけで表現するのは困難。それで男性も和歌は仮名で書いていました。一方、貫之は普通の文も仮名で書くことに挑戦。それがのちに女性たちによる文学を開花させるきっかけになったのです。

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土佐日記を楽しんだ女性たち

土佐日記をはじめとする仮名文字で書かれた絵入りの草子は当時の女性たちに大人気。絵を見る、声に出して読む、そんなふたつの楽しみがダブルになって広まりました。平安時代は娯楽が限られており、とりわけ女性は外に自由に出ることすらできませんでした。たった一つの楽しみだったのは寺詣での外出。みんなで集まって草子を広げ、絵を見たり文を読んだりするのが女性たちの楽しみ。つまり草子は、女性たちの社交の場の中心となっていたのです。

仮名文字で書かれている場面が多いとはいえ、漢字も含まれているのが土佐日記のスタイル。当時の女性たちは、日記に出てくる地名をたどりながら架空の旅を楽しみ、見たこともない海に思いをはせました。このような表現方法は、のちに平安貴族内で大流行する蜻蛉日記、枕草子、和泉式部日記、源氏物語の先駆けと言われています。

土佐日記と「もののあはれ」

平安文学について学ぶとき、よく「もののあはれ」という言葉を聞くでしょう。土佐日記に記されている「もののあはれも知らで」という文章が、「もののあはれ」を使った最初の事例とする説があります。また貫之歌集に含まれているのが「あやしくももののあはれ知り顏なる」という表現。これも、貫之が「もののあはれ」という言葉を生んだ根拠として注目に値します。

さらに、貫之が編纂に関わったとみられる古今和歌集にあるのが「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」という表現。ここに含まれている「人の心を種として万のこと」を書くという精神がまさに土佐日記の神髄です。つまり土佐日記とは、仮名文字を使った散文。人間の歓び、悲しみ、幸せ、などを「種」として、さまざまに表現した作品なのです。

土佐日記は遊び心がたっぷりつまった作品

土佐日記の興味深いことは、たんなる旅日記ではないということ。数々の幸運により、紀貫之の自筆に近い形の本が残っており、数少ない資料という一面もあります。当時の世相、言葉遊び、表現のこだわり、貴族の雅(みやび)などが、まるで幕の内弁当みたいに綺麗にセットされている素敵な文学。古典の教科書で一部を抜粋して読むことはあると思いますが、興味があったらぜひ、全文を読んでみることをおすすすめします。

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平安時代日本史

「土佐日記」ってどんな作品?時代背景やひらがなとの関係について元大学教員が5分でわかりやすく解説

土佐日記とは、平安時代に成立した日記文学のひとつ。土佐の国での任務を終えた紀貫之が、京に帰るまでに起こった出来事をつづっている。土佐日記の大きな特徴は、紀貫之は男性であるものの、女性になりきって書いているという点。ユーモアにあふれながらも、複雑な設定が採用されている。

紀貫之は、どうして女性になりきって土佐日記を書いたのでしょうか。彼が何を狙ったのか、それによりどんな文学的特徴が生れたのか、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカ文化を専門とする元大学教員。日本の古典文学にも興味があり、気になることを調べている日々。土佐日記は、紫式部や和泉式部など、平安時代を代表する女流作家の作品に大きな影響を与えた。日本の古典文学の歴史に、たくさんの影響を与えてきた土佐日記について、いろいろ調べてみた。

1.土佐日記とはどんな作品?

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土佐日記とは、平安時代の貴族である紀貫之(きのつらゆき)が書いたとされる日記作品です。貫之は60代半ばで、初めて京を離れて、現在の高知県である土佐国に国司(こくし)として赴任。国司は朝廷により任命された、その土地における最高権力者です。4年の任期が終わり、京の自宅へ帰るまでの旅を記しました。

紀貫之が生れた時代の背景

貫之は平安時代中ごろの歌人であり学者。また三十六歌仙の一人でもあります。三十六歌仙とは、藤原公任に選ばれた36人の優れた歌人のこと。貫之は『古今和歌集』の撰者の一人であり、仮名序の執筆者とも言われており、多彩な人物であったことが分かります。

紀貫之の晩年のころ、都は盗賊により荒らされ、数々の寺院が消失。現代の関東地方にあたる東国や、現代の四国辺りの西国では、たびたび反乱が起こるという騒然とした時代でした。このとき貫之は失業中でしたが、ようやく土佐の国司に就けることに。とはいえ、当時の土佐は流刑の地でもあり、栄転というわけではありませんでした。

土佐日記は日記文学であり紀行文学

土佐日記は、日記文学と紀行文学のふたつの顔をもっています。事実を書き連ねるのではなく、実は大部分が「作り話」。実際に起こった出来事よりも文学的な表現を優先しているのです。日本語の文体に漢詩や和歌を地の分に埋めこむなど、さまざまな技法がちりばめられました。

土佐日記の特徴は、なんといっても簡潔でわかりやすく奥の深い文章。男性官僚が記していた漢字だけの日記とはまったく違っていました。それまでの日記は、公的な立場にある男性官僚が、政務や行事の記録を記したもの。個人の感情はほとんど記されていませんでした。それに対して土佐日記では、貫之が感じた悲しみ、寂しさ、憂鬱などが情緒豊かに記されています。

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