この記事では「畢竟」について解説する。
端的に言えば畢竟の意味は「結局、つまり」ですが、もっと幅広い意味やニュアンスを理解すると、使いこなせるシーンが増えるぞ。
哲学、思想、政治に強い文系大学院生を呼んです。一緒に「畢竟」の意味や例文、類語などを見ていきます。
ライター/南原眞一
法学研究科にて哲学、思想、政治を学んでいる現役文系大学院生。本来の専門は20世紀辺りのドイツ政治思想。大衆に訴えかける能力があると指導教授に言われた筆致で言葉を丁寧に解説していく。
「畢竟」には、次のような意味があります。
1.[名]《(梵)atyantaの訳。「畢」も「竟」も終わる意》仏語。究極、至極、最終などの意。
2.[副]さまざまな経過を経ても最終的な結論としては。つまるところ。結局。「―人は死を免れえない」
出典:デジタル大辞泉(小学館)「畢竟」
畢竟の読み方は「ひっきょう」ですが、この言い回しを耳にしたことがある人はほとんどいないでしょう。「畢竟」は話し言葉の口語ではなく、基本的に文章の言葉である文語であると言っていいでしょう。しかも相当硬い文章でなければ滅多に使われない熟語です。あまり目にする機会のない畢竟ですが、だからこそこれを機に正しい意味と用法を学んでいきましょう。
次に「畢竟」の語源を確認しておきましょう。ルネ・デカルトの「困難は分割せよ」とのアドバイスに則ってまずは「畢竟」を分けて考えてみましょう。
「畢」は「ひつ」と読みます。意味は複数あって、一つは「終わること」、二つは「全て」、三つは「網」ですが、畢竟で用いられているのは一つ目の意味の「終わること」です。日常生活において「畢」の漢字を見れば、基本的に一つ目の意味が用いられていると考えて間違いありません。畢竟の他に畢を用いた熟語としては、卒業を意味する「畢業」、生涯を終えるまで、つまり一生を意味する「畢生」などが挙げられるでしょう。
竟は「けい」あるいは「きょう」と読みます。これも複数の意味があって、一つは「終わること」、二つは「尽きること」、三つは「きわまる」などです。畢と同じく一つ目の意味で用いられることが多いでしょう。一日中を意味する「竟日」、夜通しを意味する「竟夕」が。竟を用いた熟語として挙げられます。
\次のページで「「畢竟」の使い方・例文」を解説!/
「畢竟」の使い方を例文を使って見ていきましょう。この言葉は、たとえば以下のように用いられます。
1.私小説なぞというものは畢竟、自己陶酔の表現に過ぎん。
2.畢竟するに、採用担当者は履歴書ではなく人となりを見ている。
3.畢竟ずるに、女性のキャリアは出産の有無というライフスタイルの影響が多くある。
日常生活で文語である「畢竟」を用いれば、例文1のような用法となるでしょう。「つまり」や「結局」が使われる文脈で畢竟は用いられます。議論をまとめたい時や、自分の主張を明確に打ち出したいときに、畢竟という言い回しを使えば効果的です。
例文2はよく見られる畢竟の用法と言えるでしょう。「畢竟するに」と、文の頭につけることで、それ以下の文が自分の議論の結論であることを示してくれます。
また、例文3で示しているように「畢竟するに」は「畢竟ずるに」と言うことも可能です。とはいえ、「畢竟ずるに」は大変珍しい用法で、聞く人や読む人によっては誤用だと思われる可能性が高いので「畢竟するに」と言ったほうが無難だと言えるかもしれません。
畢竟の類義語としては「つまり」や「つまるところ」などが挙げられますが、少しひねった類義語として、結果として落ち着くところを意味する「所詮」(しょせん)を挙げることができるでしょう。とはいえ、畢竟とは異なって、マイナスのイメージが大変強い言い回しであることに注意が必要です。畢竟がプラス、中立、マイナスのイメージを伴っても大丈夫な一方で、所詮は基本的にマイナスの評価を伴います。「試合での勝利の要因は畢竟、努力である」とは言える一方で、「試合での勝利の要因は所詮、努力である」とは言えないことを覚えておきましょう。
\次のページで「「畢竟」の対義語は?」を解説!/
畢竟の明白な対義語は存在しませんが、議論の最終地点を表す畢竟の対義語を強いてあげるとするならば、暫定的であることを意味する語句が対義語だと考えることが出来るでしょう。
「畢竟するに」というと、自分の議論の最終帰着点を示すことになりますが、「取り敢えず」と言うと、最終的な判断は延期されることになるでしょう。「畢竟するに」という言い回しは、ある種の自信を伴いますが、「取り敢えず」は逆に自信がないことを示すことになるでしょう。結論が重視されるビジネスのシーンなどでは、「畢竟するに」という言い回しが使えるようになれば表現の幅がひろがりますね。
In the end(結局)が畢竟の英訳として第一に挙げられるでしょう。畢も竟も「終わること」を意味していましたから、end が用いられている in the end は畢竟の語源ともよく似た発想を共有しています。In the end he had to go into a mental hospital(最終的に、彼は精神病院に入らねばならなかった)というように文頭に置かれる使われ方が多いです。とはいえ、I was sad to see her go in the end(彼女がついに行ってしまうのを見るのは辛かった)というように文末に置かれる使われ方もあることに注意しましょう。
in the long run(長い目でみれば、結局は) も畢竟の類義語と考えることができます。物事を長期的な眼で見るということは、物事の結末までを考慮に入れることを意味しますから、最後にはどうなるかが示されると考えられるわけです。Seeing a doctor is economic in the long run(医者にかかるのは長い目でみれば経済的だ)というような言い回しが考えられますが、これは Seeing a doctor is economic in the end(最終的に医者にかかるのは経済的だ)と言い換えることができます。in the long run も in the end も、畢竟と同じように最後まで見通していることに注意しましょう。
\次のページで「「畢竟」を使いこなそう」を解説!/
この記事では「畢竟」の意味・使い方・類語などを説明しました。
「畢竟」は「結局、つまり」を意味します。口語ではなく文語調の言葉なので、日常生活で使う場面は少ないかもしれませんが、自分の主張をまとめたいときなどに使うとかっこよく見えますよ。